①ボーイミーツガール
1日に1話ずつ公開していきます。
今回は6話までの公開となります。
朝の6時。
いつも通りに目覚まし時計のアラームで起こされた俺は、覚醒すると同時に愛くるしい女の子の寝顔と対面し、「うあーっ!」と絶叫することになった。
吐息がかかりそうな至近距離である。
南国の花みたいに甘い香りが、ふわりと鼻腔に忍びこんでくる。
きわめて無防備な寝顔を俺にさらしていたその女の子は、しばらく赤ん坊みたいにもにゅもにゅと口もとを動かしてから、やがてぱちりとまぶたを開いた。
「ん……もう朝か」
そして、むくりと半身を起こしたかと思うと、毛布の上であぐらをかき、眠気を払うように「うーん」とのびをする。
腰まで届きそうな、金褐色の長い髪。
明るく深い色合いをした、青い瞳。
健康的に日に焼けた、褐色の肌。
その身に纏っているのはタンクトップとデニムのショートパンツのみで、すらりと伸びた手足はむきだしになっている。
時節は4月の半ばだというのに、そんな薄着で毛布の上に転がっていたらしい。
「これからシコミの作業なのだな? 私は手順がわからないので、手ほどきをよろしくお願いする」
「ちょっと待て! その前にこの状況が何なのか説明してくれよ!」
こちらは布団にくるまったまま、俺は抗議の声をあげる。
毛づくろいをする猫みたいに目もとをこすりながら、女の子は「うむ?」と小首を傾げた。
「この状況とは何のことだ? これといっておかしな点は見当たらないようだが」
「いや、おかしいだろ! どうしてお前が俺の部屋で寝てるんだよ!」
「やかましい男だな……昨日は寝つきが悪かったので、しばらく庭でぼんやりしていたのだ。きっとこれが時差ボケとかいうやつに相違あるまい」
言いながら、今度は両手でごしごしと目もとをこする。
凛々しい美少女、といった面立ちなのに、ずいぶん子どもっぽい仕草だ。
「それで、部屋に戻る際に扉を間違えてしまったのであろう。非礼をわびるのはやぶさかでないが、何も大騒ぎするほどのことではあるまい」
布団の中で脱力し、俺は深々と溜息をついた。
こうして俺とこの少女――ひょんなことから津留見家の居候となることになったアイ=ファとの共同生活は、朝から大騒ぎでスタートすることに相成ったのだった。
◇
アイ=ファが我が店を来訪したのは、昨晩遅く。
閉店時間の10時を過ぎて、皿洗いの仕事を片付けていた最中のことだった。
「あ、すいません。今日はもう店じまいなんですよね」
俺の声を黙殺して、その女の子――アイ=ファはしなやかな足取りで店の中に上がりこんできた。
タンクトップにショートパンツという軽装の上に、キャラメル色の革のジャケットを羽織っている。金褐色の髪を複雑な形に結いあげて、青い瞳で真っ直ぐに人を見る、実に凛然とした女の子だった。
その綺麗な碧眼で店の内部を眺め回してから、最後に俺へと視線を固定させる。
「……ちゅるみ屋というのは、この店だな?」
「はい? ああ、はい。確かにここは《つるみ屋》ですけども」
「今日からこの店で厄介になるアイ=ファという者だ。以後、よろしくお願いしたい」
片方の肩に引っ掛けていた大きなリュックを両手に持ち替えて、深々と頭を下げてくる。
もちろんのこと、俺は店の奥の居間で帳簿をつけていた親父を呼び出し、事情を聴取することになった。
「ああ、お前さんがアイ=ファちゃんか! うんうん、親父さんから話は聞いてるよ。噂通りの別嬪さんだなあ」
交通事故で右足を複雑骨折してしまった親父は、松葉杖を使ってひょこひょこと炊事場のほうに出てきながら、笑顔でそう言った。
「あれ? だけどアイ=ファちゃんが来るのは7月じゃなかったっけ? 俺はそのつもりでいたんだけど」
「……私は今日からと聞いている。何か情報の伝達に齟齬でもあったのだろうか?」
「ああ、それなら俺が4月と7月を聞き間違えたのかな。まあ何でもいいよ。むさ苦しい男所帯だけど、自分の家だと思ってくつろいでくれ」
「おい」と俺は突っ込ませていただいた。
「うん? ああ、これが俺の古馴染の娘さんのアイ=ファちゃんだよ。日本で暮らすのは初めてだそうだから、お前が力になってやるんだぞ、明日太」
「いや、力になるって何の話だよ? 俺はそんな話、一言も聞いてないぞ?」
「んー? そうだったか? まあ俺もまだ先の話と思いこんでいたからなあ」
ずぼらなどという生易しい言葉だけでは足りない我が家の親父殿である。
とにもかくにも俺は大急ぎで皿洗いの仕事を片付けて、詳細を問い質す他なかった。
「そんな込み入った話でもないんだよ」と、呑気に笑う親父の言葉は以下の通り。
このアイ=ファと名乗る女の子の親父さんは、大変不幸なことにうちの親父殿と古馴染であったらしい。
その親父さんは異国の珍しい果実や野菜を取り扱う貿易商で、娘ともども世界中を駆け回る生活であったそうだ。
で、このたびは南米の奥地にある集落に身を寄せて、大きな仕事に取り掛かることになったのだが、何とその集落には異国人の女人の立ち入りを禁じる因習があったのだという。
この仕事が片付けば親父さんもしばらく日本に戻る予定であったので、一足先に娘だけを送りつけることにした。
しかしようやく17歳になろうかという女の子に不慣れな土地でひとり暮らしをさせるのは偲びない、ということで古馴染の親父を頼ったのだと、つまりはそういう話であるらしかった。
「……事情はわかったよ。そういうことなら、まあしかたがない」
津留見家の居間にて、玄米茶をすすって気持ちを落ち着けつつ、俺はそんな風に応じてみせた。
「ただ、うちだってこんな女の子を預かるのに適した環境だとは言えないだろ? その親父さんの仕事っていうのは、どれぐらいでカタのつく話なんだ?」
「知らん」
「おい」
「いや、本当に知らないんだよ。アイ=ファちゃん、親父さんは何て言ってたのかな?」
「知らん」
「おい!」
「うまく商売の話を取りつけても、軌道にのせるのには半年や1年はかかるかもしれないとは言っていた」
「半年? 1年? そんな長期間、うちに居候するつもりか!?」
「迷惑ならば、出ていこう。私も初めて顔を合わせる人々にそこまで迷惑をかけてしまうのは心苦しいと思っていたのだ」
ちゃぶ台の前できっちりと膝をそろえたアイ=ファは、悠揚せまらず俺の顔を見つめ返してきた。
「私ひとりの身を立てるぐらいなら、どうということもない。……夜分にお騒がせしてしまい申し訳なかった」
「いや、待てよ! 他に行くあてでもあるのか?」
さっさと立ち上がろうとするアイ=ファの腕を、俺は反射的につかんでしまった。
アイ=ファは、不思議そうに首を傾げる。
「この国で暮らすのは初めでだが、言葉に不自由があるわけでもないので問題はない。まずは仕事とねぐらを探そうと思う」
「それは無茶だろ! おい、親父も何とか言え!」
「うん、それは無茶だよ、アイ=ファちゃん。1年でも2年でも好きなだけこの家にいてくれればいいさ。俺と明日太のことは不出来な家族だとでも思ってくれ」
「そうじゃないだろ! 馬鹿親父!」
「何だよ? 俺だってこのざまなんだから、店を手伝ってくれるなら万々歳だろ? 部屋なら母さんが使っていた部屋があるし、何も問題はないじゃないか?」
これを本気で言っているのだから、頭痛が止まらない。
そんなこんなで、津留見家は異国育ちの奇妙な女の子を居候として迎え入れることに決定してしまったのである。
◇
「あすたちゃん、おはよう!」
朝の7時45分。
仕込み作業と朝食を終えた頃、目覚まし時計みたいな正確さで玲奈がやってきた。
身長は150ジャスト、体型は幼児的、くせのない黒髪をショートヘアにしており、ウサギのように丸っこい目をしている。気性は明るく朗らかで、ちょいとばっかり騒々しいところもあるが、まあ男女わけへだてなく人好きのする、俺の幼馴染である。
「うわあ、あなたがアイ=ファちゃん? はじめまして! あたしはあすたちゃんの幼馴染で、玲奈です!」
「……ハジメマシテ」とアイ=ファのほうも頭を下げた。
挨拶のほうは何やらぎこちないが、態度のほうは堂々たるものだ。背丈なんて俺とほとんど変わらないぐらいはあるので、玲奈とは実に頭半分以上の身長差である。
「さっそくだけど、よろしく頼むよ。ぐずぐずしてたら遅刻しちまう」
玲奈には朝から電話をして、ひとつの面倒事を押し付けさせていただいていた。
すなわち、制服の着用の手ほどきである。
アイ=ファが持参した荷物の中には何と我が校の制服までもがしっかり押し込まれていたのだが、この異国育ちの娘さんはその着用手順をまったくわきまえていなかったのだ。
「だったら、あすたちゃんが着せてあげれば良かったのにー」
玲奈が、にーっと笑いかけてくる。
その頭をひっぱたくふりをしてやると、玲奈は「あはは」と笑いながらアイ=ファの腕をつかみ取った。
「それじゃあ、ちゃっちゃと着替えちゃおう! あすたちゃん、覗いたら駄目だよー?」
「お前、言動に一貫性がなさすぎるぞ?」
とはいえ、玲奈がいなかったらこのミッションを完遂できていたかどうかもわからない。持つべきものは、おおらかな腐れ縁だ。
(それにしても、学校まで同じとはな……)
俺と玲奈は、知る人ぞ知る奇妙な学校に通っていた。
その名も、私立森ノ辺学園。
幼・小・中・高・大・院までそろった、驚異のマンモス校なのである。
ただし俺は特別学科の推薦入学であったので、普通科の玲奈とは天と地ほどに学力の差異がある。
俺も玲奈も、中学までは普通の公立校だった。しかし、それぞれの理由からそれぞれの学科にそれぞれ入学することになったのだ。
(そういえば、アイ=ファのやつはどこの学科なんだろう?)
私立森ノ辺学園は、金さえ積めばどこの学科でも好きに入学することが可能である、と聞いたことがある。
ただしどの学科もきわめてレベルが高いので、身の丈に合わなければけっきょく進級をあきらめることになる、というシステムだ。
もちろん俺も玲奈も積むほどの資産は有していなかったので、正当なる試験を経て入学させていただいた。ちょっとばっかり自慢させていただくと、俺などは馬鹿高い学費を免除される特別推薦枠をもぎ取ることに成功していたのである。
学費の免除。それが俺の、この少しばかり普通でない学校を選んだ理由だった。
どうせ将来は店を継ぐつもりであるのだから、学費など安いに越したことはない。なおかつ、この学科なら普通の高校に通うよりも有意義な3年間を過ごすことができるかもしれない。2年生に進級した今現在も、そういった期待は裏切られていなかった。
「お待たせー! フォームチェンジ完了だよん」
玲奈の能天気な声が背後から響きわたる。
やれやれと振り返った俺は――そこで息を飲むことになった。
息を飲むに相応しい存在が、そこにはひっそりと立ちつくしていたのだ。
まあ要するに、制服姿に身を包んだアイ=ファが、である。
「すっごい似合うよねー! さっきのワイルドな格好も似合ってたけどさ!」
手柄顔で、玲奈はにこにこと笑っている。
似合っている――と、評するべきなのだろう。
藍色のブレザーに白いブラウス、えんじ色のリボンにチェックのスカート、清楚な紺のスクールソックス。この1年間で嫌というほど見てきた私立森ノ辺学園高等部の制服姿である。
もともと顔立ちはずばぬけて整っているアイ=ファであるので、そんな普通の格好をしてしまうと――何というか、馬鹿みたいに魅力的に見えてしまった。
「……このようにひらひらした服を着させられたのは生まれて初めてだ」
と、アイ=ファは唇をとがらせながら、そのスカートのすそをちょいとつまんだ。
「何だか足もとが落ち着かない。レイナよ、この下に自前の服を着るわけにはいかぬのか?」
「スカートの下に短パンは邪道だよ! それが許されるのは――いや、著作権に抵触しそうだから言えないけれどもね」
玲奈が何かメタなことを言っている。
それはともかく、学校に向かわねばならない時間が迫っていた。
◇
私立森ノ辺学園は、俺の家から電車で30分の場所にあった。
たかだか半時間ほど電車に揺られただけで、そこはもう郊外というも愚かしい森の縁だ。学園は、盛賀山というでかい山の麓にのびのびとその巨体を横たえていた。
噂では、この盛賀山も学園の理事長の所有物であるらしい。
自分の土地に、自分の金で、自分の好みにあった学園を創設したのだそうだ、3代前の理事長様が。
何せ幼稚舎から大学院までそろっているマンモス学園であるからして、その敷地面積はとてつもない。初日は道案内がいなければ道に迷うこと請け合いである。幼稚舎、大学部、大学院に通う生徒たちは、正門から専用バスに乗って指定の校舎に向かわねばならないような規模だった。
「あれ? そういえば転入初日って職員室とかに行くもんなんじゃないのか?」
さまざまな制服の入り乱れる正面口のキャンパスを歩きながら尋ねると「大事ない」という返事が返ってきた。
「昨日の内に手続きや挨拶は済ませておいた。この制服も、その際に手渡されていたのだ。ゆえに、今日は直接教室に向かうべしと言われている」
べしとか、うちの教師どもは言わないと思うのだが、それはまあいい。
「で、その教室はどこなんだ? ここは色々な学科があるから、高等部だけでも4つの校舎があるんだよ」
「はて。説明されたが、失念してしまった」
「おいおい」
「大事ない。お前の向かう教室に案内してくれればよいのだ、アスタよ」
アスタと名を呼ばれたのは、そのときが初めてだった。
ドキリとおかしな具合いに心臓がバウンドしてしまったが、今はそれよりもアイ=ファの発言のほうが問題だった。
「俺は第2特別学科だぞ? 普通科とかスポーツ科じゃないのかよ?」
アイ=ファはいかにも運動神経が優れていそうな雰囲気であったし、制服を着るとずいぶん賢そうにも見えた。
が、アイ=ファはぷるぷると首を横に振っている。
「第2特別学科。それだ。第2特別学科の2年1組、それで相違ない」
「へー、あすたちゃんと同じクラスなんだ? あたしは普通科だからあっちなんだー。また後でね、アイ=ファちゃん!」
「うむ。息災に」と、アイ=ファは無表情なまま、胸の前でひらひらと手を振った。
愛想はないが、案外に玲奈とは早々に打ち解けられそうな雰囲気である。これも玲奈の卓越したコミュニケーション能力のなせるわざか。
「第2特別学科の2年1組。――それで間違いないのかよ?」
てけてけと駆けていく幼馴染の小さな背中を見送りつつ、俺はそのように尋ねてみる。
「うむ。何か問題があるのか?」
「いや、別に問題はないけどさ……」
ただひたすらに意外だっただけである。
第2特別学科とは、すなわち県内どころか国内にだって他に存在するかもわからない、調理学科の学び舎であったのだ。
朝の仕込み作業では、もちろん手順を説明しただけで包丁にもさわらせていない。それでも何となく、この娘さんはそんなに調理というものに興味や関心はないのだろうなという手応えを感じていたのだが、それは俺の見込み違いであったのだろうか。
内心で首を傾げつつ、俺はこの素っ頓狂な転入生を自分の教室にナビゲートするしかなかった。
◇
「――というわけで、今日からこのクラスに転入することになったアイ=ファです」
定型文だがなかなか実際には聞く機会の少ない言葉が担任教員の口から告げられた。
学校指定の黒鞄を両手でお行儀よく持ったアイ=ファが、おごそかに頭を垂れる。
「アイ=ファはこれまでお父様の仕事の都合で海外で暮らしていたそうです。色々とわからないこともあるでしょうから、みなさん力になってあげてください」
教室内のざわめきは、それはもうなかなかの凄まじさであった。
海外暮らしとかは関係なく、ただひたすらにアイ=ファの秀麗なる容貌に興味や興奮をかきたてられているのだろう。俺だって、同じ立場であったのなら大いに胸を高鳴らせていたと思う。
ちなみに調理科は1クラスで40余名、それが1学年に2クラスしか存在しない。我が1組は調理師希望、隣の2組は栄養士希望の生徒たちで構成されている。
「それで、アイ=ファは――」
と、担任教員たるリィ=スドラ女史の瞳が銀縁眼鏡ごしに俺を見た。
万感の思いを込めて首を横に振ってみせると、女史はにこりとあどけなく微笑む。
「――アイ=ファは、アスタの家で同居されているそうですね。同じクラスになれたのは何よりでした。楽しい学園生活が送れるように頑張ってください」
女史には、俺の心情など何ひとつ伝わらなかった様子である。
かくして俺は、四方八方から好奇と驚愕と非難の眼差しをめいっぱいあびる羽目に陥ったのだった。
そんな中で、ななめ後方からくいくいとブレザーのすそを引っ張られる。
横目で確認すると、長い黒髪をお下げにした可愛らしい女の子――レイナ=ルウが、子犬のような目で俺を見つめていた。
「アスタ。アスタは本当に彼女と同じ家で暮らしているのですか?」
クラスメートにも敬語を使う、ちょっと古風でおしとやかな娘さんである。
玲奈と同じ名前であるのがちょいとややこしいが、料理の腕は確かだし、去年も同じクラスで席も近かったので、けっこう交流は深いほうだ。
しかし、彼女がこんなに打ち沈んだ目つきをするのは、少し珍しい。どこか体調でも悪いのだろうか。
「ああ。突然の話で俺もびっくりしてるんだよ。簡単に言うと、うちの馬鹿親父が何の考えもなく安請け合いをしちまったっていう感じかな」
「そうですか……」と、レイナ=ルウはいっそうしょげた様子で眉を下げてしまう。
「先生」と、そこで俺の左手側に座っていた女子生徒が立ち上がった。
ショートヘアの清楚な女の子、クラス委員長のアマ=ミンである。
「それなら私が1番後ろの席に移りましょうか? 彼女もアスタの隣であるほうが心強いでしょうから」
彼女のそんな気遣いは、男子生徒のブーイングと担任教員の慈愛に満ちた微笑に報われることになった。
いったい何なのだろうか、この善意と反感の包囲網は。
そんなわけで、アイ=ファはしずしずと俺の隣の席に座することに相成った。
「静かに。……それではホームルームを開始します」