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メトロポリタン・ミュージアム

作者: 生田英作
掲載日:2026/06/20



「え? 腸炎?」


 そう言われて思わず見た腕時計は、まだ三時半。

 新幹線の時間までは、だいぶある。


「えー……あの、まあ、特になにか具体的な案件が、というわけでは無いんですけど……その、確認と言いますか、その後状況はどうかなぁ、と思いまして……。ええ、そうですね……ええ。ええ。はい。──あぁ! いいえ、とんでもない!」


 申し訳なさそうに事情を説明する相手にこっちが逆に恐縮してしまう。


「ええ、はい。今回は、まあ、そう言う事で。ええ。また、東京に来た時に。ええ、ええ、そうですね。はい、今後ともよろしくお願いいたします。はい──」


 それじゃ、失礼します。

 こういう時に思わず頭を下げてしまうのはなぜなんだろうと思いつつ電話を切る。たぶん、向こうも受話器を握ったまま頭を下げていただろう。

 まあ、それはともかく──


(……どうしようか?)


 今回の東京出張最後の予定が、無くなってしまった。

 まあ、顔つなぎと言うか、本社の方でもやり取りのある先なので、東京に来る度に先方の担当者の所に挨拶に寄っているというだけだから、特に困ると言う事も無いんだけど。

 しっかし、このタイミングで腸炎で入院とは。

 まあ、それはともかく、新幹線の時間までは、まだ三時間以上。

 どうしたもんやら。

 そのまま直帰するつもりだったから、会社に戻るつもりもないし、そもそも戻ったところで、と言う話だ。

 しかも、明日は土曜日。

 ………………。


(よし。ここらで時間つぶそ)


 幸い、この界隈は通っていた大学が近いので土地勘もある。

 亡くなった祖母なんかは「なんで東京の大学に行かなあかんの」とよくぼやいていたけど、何が幸いするか分からない。

 よし、今日は一つ、学生時代の懐かしい場所を歩く、センチメンタル・ジャーニーといこう。

 俺は、周囲を見回すと「ふむ」と頷いて歩き出した。

 ここは大学時代の四年間を過ごした懐かしい思い出の街。

 懐かしい物が、景色がたくさんある筈……

 なんだけど……


(それにしても──)


 変わったなぁ。

 大学を卒業して二十年あまり。

 大きな通り沿いに昔あったお洒落な古いビルや建物は、みんな建て替えられてしまっている。この辺り一帯は古いモダン建築が多くて中々楽しい場所だったんだけど、通りに面したところとかは建て替えが進んでしまったらしい。

 まあ、古い建物って耐震基準とかがなぁ……。

 管理も大変だって言うし……。

 とは言え、そんなことをボヤいていても仕方が無い。


(それなら──)


 通りから一本奥の裏路地へ。


(そら、やっぱり)


 目の前に現れたモダンな建物を見つめて、俺はひとり頷いた。

 モダン建築と言えば、こっちでは京都や神戸と相場が決まっているが、東京ではこの界隈がそれにあたる。次いで多いのが、日本橋や築地あたりだろうか。


(やっぱり、いいなァ)


 優美な曲線を描くタイル張りの壁面に窓やエントランスを彩る凝ったデザインの装飾。

 大正や昭和の頃に建てられたビルには今の近代的なビルには無い味がある。

 スマホを取り出し、何枚かこっそり写真を撮った。

 大きな通りから一本裏に入った狭い路地。真新しいビルとビルの間にひっそりと佇む懐かしい昔なじみのモダン建築の建物たち。それを海辺で貝殻でも拾うみたいに一つ一つ眺めては、写真や短い動画に収めていく。

 と……


(あれ?)


 ふと、目に留まったのは古いビルとビルのすき間の幅一メートルあるかないかという細い路地。


(こんな所に……?)


 もろにビルの裏。

 薄暗い路地の両脇には室外機がずらりと並んでいるのが見える。

 路地からの生暖かい風がぞろりと頬を撫でていく。

 奥の方は、暗くてよく分からないが、結構長い路地のようだ。


(……はて?)


 目の前の路地を見つめて、俺は記憶の中の景色を探す。

 この辺りのことは、隅から隅まで、それこそ、こんな路地の類も漏れなく学生時代に探検し尽くした筈だった。

 なのに……

 どうにも思い出せない。

 と言うか、この路地を見た記憶が無い。


(こんな路地あったかな……)


 歩いてみれば思い出せるか?

 どれ……俺は、路地を歩いてみる事にした。


(暗い)


 左右から迫ってくるビルの濃い影の中を周囲を見回しながら歩いて行く。

 無数に並んだ無機質な室外機の群れと固く閉ざされたドア。

 頭上に見える短冊のように切り取られた空はどこか遠くてぼんやりと薄暗い。

 路地には、俺以外誰もいなかった。

 しーん、と静まり返った路地の中を自分の呼吸する音と靴の音、そして、時折聞こえる室外機の「ブーン」という低い稼働音だけが響いている。


(なんだろう……気味が悪い)


 どう考えても、この景色には見覚えが無い。

 と言うか、歩いてきてしまったはいいけど、この路地どこに抜けるんだろう。


(引き返した方がいいかなぁ)


(いや、折角ここまで来たんだし……)


 迷いながらも、そうして暫く歩いていると、


(おっ?)


 路地を通り抜けた先には、周囲をビルに囲まれた三メートル四方ほどの小さな広場。

 周囲を壁で囲まれた袋小路……

 いや──俺の正面に建つビルだけ広場に面してエントランスがあった。

 三階建てのモダンなビル。

 アールデコ調の石造りの外観とレトロなデザインの格子窓。

 エントランス脇の壁に掛かった銘板には「メトロポリタン・ミュージアム」とあった。


(こんな所に……?)


 首を捻っているとエントランスの人影に気が付いた。

 シルエットから若い女性のようだ。

 やれやれ、助かった。


「あのぅ、すいませんっ」


 が──


「……え?」


 声を掛けようと近付いてみて驚いた。

 これ──


(ブロンズ像なのか!)


 ボブヘアの髪に微かに笑みを浮かべた愛らしい顔。

 案内嬢のようにお行儀よく上品に佇む事務服姿の若い女性のブロンズ像だった。

 しっかし、これ……


(ものすっごい、細かいな)


 ブロンズ像は、街中の広場や公園に立っているのをよく見かけるが、目の前のブロンズ像は、造形の精緻さがそう言った凡百のブロンズ像とは段違いだった。

 柔らかな肌の質感すら感じる顔に生え際まできっちりと表現された髪。着ている事務服も、一見するとまるで別あつらえで作って、ブロンズ像の上から着せたかのように布の質感や手触りがきちんと表現されている。

 それに何より、顔に浮かんだ笑みの自然なこと。

 目尻に浮かんだ笑みのこの柔和さはどうだ。

 何というか……まるで生きている人をそのままブロンズ像にしたかのような精巧さだった。

 ここまで、すごいブロンズ像って……

 疑うまでもないんだけど、俺は思わずほっぺの辺りを指先で突いてみる。

 トントン。

 固い……。

 うん。間違いなくブロンズ像だ。

 あまりに精巧すぎてちょっと怖いくらいだ。


「うん?」


 その時、そのブロンズ像の脇の立て看板に気が付いた。





『当館は、入館料は無料です。


 どうぞ、順路に沿って奥までごゆっくりと御覧ください。』





「ほほう……」


 入館料無料

 エントランスのブロンズ像でさえこの出来栄えだ。

 何の美術館かは分からないが、これ実は相当な穴場なんじゃないだろうか。

 六畳ほどの広さのエントランスの隅に見える両開きの重厚な扉。

 それが内側に向かって開いており、赤いじゅうたんが奥に向かって伸びているのが微かにではあるが見えた。

 ご丁寧なことに扉の脇に『順路→』と書いた立て看板もある。

 よしよし……。

 俺は、意気揚々と扉をくぐる。

 扉の先の狭いスペースを挟んでさらにもう一つ両開きの金属製の厚い扉が内側に向かって口を開けており、戸口の上には「Object」と金の綴り文字があった。


(「Object」……「もの」か。どれどれ……)


 と──

 中に入って驚いた。


「はァあ……」


 十畳ほどの広さだろうか、軽く弧を描いた通路の両脇に並んでいたのは大量のブロンズ像だ。と言っても、ここに展示されているのは、エントランスのお姉さんのブロンズ像とは少し趣が違って、


(これは、ポストか。ほー、歴代のがあるんだな)


(こっちは、昔の街灯か。はぁー、すんごいなぁ)


(えぇっ! この自転車……漕いだらフツーに動くんじゃないの?)


(おおっ! こっちはソファに液晶テレビ──)


 そう。戸口の上に書かれていた通り、ここにあるものは、全て無機物、つまり「物」を象ったブロンズ像だった。

 いや、像じゃないから、ブロンズ……何だろう?

 まあ、ともかくそう言ったブロンズ製の展示物が所狭しと並んでいるのだけれど、やはり、ここでも目を引くのは、


(よくできてるなァ……)


 その精巧さだった。

 ポストは、家の玄関にあるものから街角の郵便ポストまであり、郵便ポストも時代ごとにと言うことなのか、古い円筒形の物からいま街角で見かけるタイプの箱型のものまでずらりと並んでいる。そして、それ以外の物、モダンなデザインの街灯から自転車、テレビなどの家電製品からイスやテーブルなどの家具までもが、あらん限りの精緻さで造形されていて、装飾性の一切無い工業製品なのに、居並んだその佇まいからはなんだか気高い芸術性が感じられる。

 何というか、これは──


(いやはや……)


 酩酊したかのような気分で俺は、いま一度周囲を見回してため息を吐く。


(たいしたもんだ)


 誰の作品なのか知らないが、世の中には知られていない、いや、その道の人たちしか知らないようなとんでもない名人がいるのだろう。

 ここの作品たちは、そんな芸術家のものに違いない。

 と──


「うん?」


 次の部屋へと向かう扉の脇に立っている人と目が合った。

 長い髪に事務服姿。


(もしかして──)


 近づいてみるとやっぱりだ。

 次の展示室へ向けて開いた両開きの分厚い扉。

 その脇にエントランスに立っていたのと同じ若い女性のブロンズ像だった。

 ただ、エントランスの物とは違う女性のようで、こちらのブロンズ像の方は髪が長く、その顔の輪郭もエントランスの物が丸顔だったのに対して、こちらは少し面長で落ち着いた印象がある。そして、このブロンズ像は、エントランスの物が両の手をお腹の上で重ね合わせて来場者を迎え入れる姿勢だったのに対して、片方の手を次の部屋の方へ差し出して、次の展示室へと誘っているかのようだ。

 ブロンズ像の案内嬢、とでも言うのだろうか。

 しっかし……

 この女性のブロンズ像も本当によくできている。

 まるで──

 その時、このブロンズ像と目が合った事を思い出した。

 そう、本当に生きている人間のような佇まい、そして、人間のように──



 俺のことを見ていた。



(…………)


 その顔をまじまじと見つめて俺は、思わずぞっとした。

 俺をじっと見つめる青銅色の瞳と今にも声が聞こえてきそうな半ば開きかけた唇。

 何というか、本当に今にも動き出しそうだった。

 もちろん、目の前のブロンズ像は微かな笑みをその顔に浮かべたまま、俺のことを次の展示室へと誘っているばかりなのだが。

 そう。一切動いてなどいない。

 のだが…………

 俺は、ひんやりとした二の腕の辺りを摩りつつ次の展示室へ。

 次の展示室も最初の展示室同様に扉の先の狭いスペースを挟んでさらにもう一つ両開きの金属製の厚い扉が内側に向かって口を開けており、こちらの戸口の上には「Animal」と金の綴り文字がある。


(今度は、動物か?)


 そうだった。

 が、


「おぉ……」


 そこにあったのは想像以上の物だった。

 さっきの部屋より若干広いと思われるその展示室には、犬、猫から始まってニワトリ、ウサギ、亀と言った動物がずらりと並んでいる。

 色々並んでいるが中でもすごいのが、ハトだろう。

 床で歩いているハト、羽を広げたハト、羽ばたくハト、飛ぶハト……と連続写真のようにそれぞれの姿のハトが展示されている。

 さらに、同じ鳥たちでも他にスズメやウグイスがいて、展示室の天井付近をまるで空を飛んでいるかのように展示されている。

 割と身近にいる動物が多い気がするが、それにしても人間や動物と言った生き物になるとこのブロンズ像の造形のすごさがいやが上にもはっきりと分かる。人間でもそうだったが、動物でもその毛並みや表面の柔らかそうな手触りが表現されているのがさすがだ。


(いやいや……)


 と────




 ──バタァンッ!!!




「うん?」


 背後の方で扉が閉まる音がした。

 振り向くと入って来たばかりの扉は、さっきと同じまま開いている。


(エントランスの方の扉が閉まった……のか?)


 うーん……?

 側に立っている「順路→」の立て看板を見つめて俺は首を捻る。

 まあ、順路がこうして示されている以上は、その通りに行けば当然出口から出られる筈だ。入場者を展示室に閉じ込めたってなんの得にもならない。


(そりゃ、そうだ)


 誰もいない展示室でブロンズ像たちを前に俺は、なんだか必要以上に強く頷くと次の展示室──


「ぉおぅっ!」


 急に目が合って俺は飛び上がった。

 次の展示室へ続く扉の脇に、また立っている。

 事務服姿の背の高い女性のブロンズ像。

 三つ編みにした長い髪を肩から胸にかけて垂らし、先の二つのブロンズ像よりもはっきりと微笑んだ表情で、俺を次の展示室へと掌を差し出して誘っている。


「………………」


 ドクドクドクドクと胸が不安げに鳴っていた。

 にっこりと微笑む目の前のブロンズ像。

 しかし……

 さっきもそうだが、俺が展示室から出ようとすると何故この案内役のブロンズ像とこうも明確に目が合うのだろうか。

 それに、いまふと思ったんだが、この展示室に入ったときにどうして、このブロンズ像に目がいかなかったのだろう。

 否──

 もっとはっきりと言うと、




 このブロンズ像、突然現れてないか?




「いやいやいや……」


(いくらなんでも……)


 目の前の微笑むブロンズ像を見つめて、必死で思い出す。

 最初の展示室に入った時のこと。

 次の展示室へ向かう扉は、扉をくぐった時から見えていた気がする。

 問題は、その時扉の脇にこれらのブロンズ像が、最初から居たのかと言うことだ。


(………………)


 果たして本当に最初から居たのだろうか……

 たらたらと脇の下から冷たい汗が滲み出て体の側面を伝う。

 しかし、そんな俺の気持ちとは無関係に目の前でにっこりと微笑む青銅色のブロンズ像。

 柔らかな笑みを湛えたその表情。

 細められた青銅色の瞳。

 俺を見つめる青銅色の──

 背中から両の二の腕の辺りを冷たい物がじわじわと包み込んでいき、みぞおちの辺りがずんと重いもので満たされる。

 俺は、何度も唇を舌で湿らせながらじりじりと目の前のブロンズ像から後ずさった。


(ま、まさか……なァ……)


 俺は、目の前のブロンズ像から目を逸らすと足早に次の展示室へ。

 なんだか気味が悪くなってきた。

 ちゃっちゃと見て、とっとと出よう。

 次の展示室も、やはりと言うかなんというか、出口の向こうに狭いスペースを挟んでさらにもう一つ両開きの金属製の厚い扉が内側に向かって口を開けていた。

 見上げた戸口の上には「Human」と金の綴り文字が書いてあった。


(人間……)


 案内嬢のブロンズ像ですっかり竦み上がっていたところで、さらに「人間」の表記は正直言って気が滅入る。

 でも、まあ……

 喉がコクンと鳴った。

 ええい、ままよ。

 と──扉をくぐった時だった。


「え…………」



 顔 顔 顔


 顔 顔 顔


 顔 顔 顔 顔 顔顔顔顔顔顔顔顔────


 目 目


 目 目 目 目


 目 目 目 目


 目 目 目 目


 目 目 目 目 


 目 目 目目目目目目目目目目目目────



 無数のブロンズ像たちが俺のことを見つめていた。

 全身から冷たい汗が噴き出し、肺がきゅぅと縮こまって喉の奥から「あぁ……」と小さな声が無意識の内に漏れていた。


(何だこれ……)


 いや、出来栄えがひどいなどということはない。

 これまで見た案内嬢のブロンズ像のあの精巧さや他の展示物の造形の見事さを見ていれば、このミュージアムにそんなお粗末な物が展示されいる筈がないと見なくても分かる。

 逆だ。


(まるで……本物の人間じゃないか!)


 出来栄えが見事すぎるのだ。

 サラリーマンと思しきスーツ姿の中年の男性。

 工場の人らしき作業服姿の男性。

 レストランのウェイトレスと思しき若い女性に自転車に跨った学生服の男の子。

 そう言った日常生活で見かける多くの人々が老若男女、極めて、そう、まるで生きているかのように皆そこに並んでいた。

 その雰囲気、佇まい、まなざし──

 服のしわ、手に下げたカバンのくたびれた感じから、重そうな作業靴の表皮の厚み、スカートの裾の揺れ、メガネの上から胡乱気に覗くまなざし──

 どれをとっても生きている人間そのまま。

 本当に生きている人間をそのままブロンズ像にしてしまったかのような。

 日常生活の一場面から切り取って来たかのような。

 そんな青銅色の数十体の人間もどきが、俺のことを「じーっ」と見つめていた。

 いや、そんな馬鹿な、とすぐに思い直したけど、最初に感じたその印象をどうして拭いきれない。

 頬に、うなじに、強く感じるこの視線──

 この息づかい──

 もう、ここに居るのが只のブロンズ像たちだとは、とても思えなくなっていた。

 恐る恐る展示室の中央を縦断する通路を進む。

 無人の展示室。

 これまでの展示室も全て無人だったが、ここでは意味合いがまったく違う。

 体温すら感じるほど精巧に創られたブロンズ像たちのまなざしの先にいるのは、他でもない自分だけ──

 生身の人間は、俺ひとり──

 と、その時だった。




 バタァンッ!!!!




 遠くの方で、否、間違いなくこの前にいた展示室から扉が閉まる音がした。


「………………」


 精巧すぎて不気味なブロンズ像たちといい、あの扉といい……


(どうなってんだ……)


 絶望的に冷たい感触が、じわじわと布に水が染みていくように俺の背中を包み込んできて、嫌な汗が額や脇から滲み出て来る。

 もう、一刻も早くここから出たい。

 この場にいる事そのものが、もはや恐怖でしかない。

 俺は脇目もふらず、次の展示室を目指す。

 展示室の隅にある両開きの扉──


「……あれ?」


 今度は、あの案内嬢然としたブロンズ像がいなかった。

 たた、向こう側に向かって分厚い金属製の両開きの扉が開いているだけ。

 それまでの扉と同じように扉の向こうに狭いスペースがあって……

 戸口の上のスペースに、




 Point Of No Return




  と金の文字で書いてあった。


(「こっから先は、引き返せませんよ」っていうことなのか?)


 扉の向こうは、今までとはだいぶ雰囲気が違った。

 緞帳のように左右から垂れ下がった赤いカーテン。

 照明もどことなく暗く、その上、入ってすぐの所でこの展示室は向かって左の方へと伸びているらしく、奥の方がどうなっているのかここからでは分からない。

 それに……垂れ下がったカーテンのせいかなのか、展示室そのものが、どことなく赤い感じがする。


(本当にここなのか……?)


 おずおずと周囲を窺うと扉の脇に「順路→」の看板がやはりちゃんとあった。

 間違いなく順路通り。

 この目の前の気味の悪い展示室こそが、次に進むべき場所で間違いない。

 なのだが──

 薄暗い展示室から滲み出てくるような何とも言えないこの感じ……

 まるで、中に入るのを待ち受けているかのような、まるでこれが誰かの思惑通りであるかのような、そんな嫌な予感──

 大きく息を吸い込み意識してゆっくりと吐く。

 なんとなくこの辺り一帯が錆び臭いような気がする。

 あの赤錆びた金属の放つ生臭いにおい──


(本当に……ここなのか?)


 扉の脇の「順路→」の看板が、相変わらずこちらをじっと見つめている。

 しーん、と静まり返った館内。

 聞こえるのは、自分の息づかいぐらいだった。


(………………)


 いつまでもここでこうしているワケにもいかない。

 俺は、ネクタイを緩めると「よし……」と頷いた。

 まさか、喰われることもないだろう。

 少々、気味が悪い美術館ではあるが、どこまで行っても美術館は美術館、それ以上でもそれ以下でもない。

 そう思うと少し気が楽になった。

 いま一度、周囲を見回して扉をくぐる。

 鼻を衝く錆びのにおい。

 生温かい空気が頬を撫で、ねっとりとした湿気が体にまとわりついて来る。

 左右から垂れ下がる厚手の赤いカーテンを避けるように進んで、展示室の奥へ──

 おっ、ブロンズ……


「──うん?」






 



 …………。

 ……………………。

 ………………うん?

 手が……動かない?

 あれ?

 なんだ?

 体が……

 うん?

 うん?

 …………うーん?


『すごいリアルぅ~』


『マジで人間そのままブロンズ像にしました、ってカンジすんな』


『ねえ、見てこのおじさんの』


『うわぁ、こんな感じの人会社にいるわ』


『ねぇ。なんか、東京に出張に来ました~、みたいな』


『ハハハ』


 ………………。

 目の前にカップル……。

 もしかして……。

 それ……俺のこと、言ってるの?


『つーか、こんだけいると……』


『そうだね。なんか、怖いね~』


 ………………。

 ………………。

 どうなってん……だ?


『なあ……次の展示室……』


『うん……』


『なんか、ヤバくね?』


『「Point Of No Return」って、どういう意味なんだろう?』


 ヒヒヒ……

 クスクスクスクス……

 ウヒヒ……

 うん……?

 なん……だ?

 周りのブロンズ像たちが……笑ってる?

 あっ──

 カップルが……

 あの……展示室に……入ってく……

 ヒヒヒヒ

 フフフ

 ハハハ

 なにが……そんなに可笑しいんだ?

 うん?

 あぁ……

 ああ──

 目の前を──

 あの案内嬢の……ブロンズ像たちが──

 滑って行く……

 滑って──

 あぁ──

 あの最後の展示室に…………




 あぁ……




 ──なるほど。 

 そうか……

 そういうことか……

 なるほど……

 あぁ……

 そっか……

 そっか……

 それで……。

 ………………。

 …………。

 …………………………。

 …………ふふふ

 ふふふふ……




 うひひひひひひひひひっ



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