EP1:「銀色の奇跡! 聖域から届きし神の箱舟」[LOG_STARTUP]
「――今日から僕は、スマートブレインの社員だ。……このベルトの重みが、僕の覚悟の出力値だよ」
月曜日の朝を控えた、日曜日の昼下がり。
僕、音無海の自室は、異様な緊張感に包まれていた。
窓から差し込む穏やかな日光さえも、今の僕にとっては「神の降臨」を祝福するスポットライトにしか見えない。
ピン・ポ〜ン。
その瞬間、僕の脳内回路に高電圧の電流が走った。
玄関のチャイム。普段なら生活音の一部として右から左へ受け流す、無機質な記号。
だが、今日のチャイムは違った。
僕が二十数年の人生で聞いてきた中で、最も美しく、最も神聖な音色だった。
オリコン1位の楽曲も、森を渡るウグイスのさえずりも、全人類が絶賛する美麗な旋律でさえも、この音の前では色褪せる。
「……こうしちゃいられない。神様を待たせるなんて、万死に値する」
僕は独り言を漏らしながら、いつもの階段を転げ落ちる勢いで駆け降りた。
おそらく、僕の人生における階段下降のコースレコードは今、この瞬間に更新されたはずだ。
物理限界を超えた足捌き。
網膜に焼き付く残像。
だが、玄関に到着した僕が目にしたのは、絶望的な光景だった。
既に母が、宅配業者とやり取りを始めていたのだ。
「なんてことだ……ファーストコンタクトを奪われるなんて」
僕は焦りながらも、荒ぶる呼吸を整える。
母に先を越されたのは僕の不徳の致すところだ。だが、男なら、この後の行動で誠意を示すべきだ。
「いつもご苦労様。ありがとう」
母の声は、いつになく弾んでいた。
もしや、母さんも神の放つオーラに当てられ、その存在を我がものとしようとしているのか? 理想的な母性にあふれた彼女の心をも、神は変えてしまうのか。
「ち、ちょっと、海!? 何をしてるの?」
荷物を受け取り振り返った母が、驚愕に目を見開いた。
無理もない。僕は失態を取り戻すべく、おでこが床にめり込むほどに頭を垂れ――『絶対伏従の礼(土下座)』を捧げていたのだ。
「か、母さん。その荷物、僕に……僕に、丁重にお返しくださいませッ!!」
喉が張り裂けんばかりの声。そこには、深い断罪の気持ちと、渇望が入り混じっていた。
母は明らかに困惑していた。いや、その頬は徐々に赤らんでいく。
やはり、母は神の放つ神々しいオーラに染められたのか。
「え、えぇ……? 返してって言われても、これ、私の……」
僕は母の言葉を遮るよう、食い気味に言葉を被せた。
「いくら母さんでも、コレだけは譲れないんだっ! それは僕の魂の欠片であり、この理不尽な世界で僕が僕であるための、唯一の『武装』だからっ!」
決まった!
これ以上ないほど、完璧な宣言だ。
……だが、母の視線が、僕の後頭部に突き刺さるような痛烈な「哀れみ」に変わったことに、僕はまだ気づいていなかった。
(武装……? 確かに、勝負下着のことを『鎧』なんて表現することもあるけれど。でもこれ、どう見ても女性ものよ。もしかして私の息子……そういう趣味があるの!?)
母の思考は、僕の予想だにしない方向へ、超高速で加速していた。
「武装って……海、いつからそんな趣味を? 宛名だって、ちゃんと私の名前になってるし、送り主だって……」
「宛名など、神が世を忍ぶための仮の姿に過ぎない! 送り主が誰であろうと関係ないんだ。
中にあるのは、数多の少年の涙を拭い、正義の歴史を紡いできた……銀色に輝く奇跡なんだ! お願いだ母さん、その箱舟を、僕の手に……ッ!」
僕が語っているのは、かつて九州の地で戦った、一人の青年の遺した輝きのことだ。
しかし、母の脳内フィルタを通ると、それは恐ろしい意味へと変換される。
(銀色に輝く奇跡……? シルバーのレース? 正義の歴史……? 少年たちの涙を拭う……? いけない、これ以上深く考えるのは母親として毒だわ……!)
母は深い溜息をつき、悟りを開いたような慈愛に満ちた目で、僕の肩に手を置いた。
「分かったわ、海……。母さんは、あなたが元気でいてくれたら、それでいい。それでいいのよ……」
僕は床に額をこすりつけたまま、勝利を確信して叫んだ。
「分かってくれたんだね! なら、その御神体を汚れた手で弄ぶのはおやめください! 母さんには重すぎるものです。それは、選ばれし者だけがその身に纏うことを許される……」
「……本当なのね? 分かったわ。父さんには、内緒にしておいてあげる。絶対に、墓場まで持っていくから」
母の声が、どこか投げやりな、それでいて年頃の息子を持つ母親としての「深い羞恥」と「決死の覚悟」に染まっていった。
「でも海……これ、母さんが通販で買った、『勝負用のレース下着セット』なのだけれど。本当に、あなたが着るの?」
「……うっ!……」
痛恨のミス。致命的なシステムエラー。
確かに、冷静に考えれば配達の指定時間が全く違う。浮かれすぎて、肝心なロジックを見落としていた。
数秒の沈黙。僕にとって、それは果てしなく長い停滞だった。
「海、母さん、お昼の買い物に行ってくるから。──お留守番、お願いね?」
母は紅潮した顔で、引き攣った笑いを浮かべて家を出た。
僕は平静を装いながら階段に向かう。
一段、また一段.....
かつて夢見た「大人の階段」は、これほどまでに泥濘み、絶望に満ちたものだったのか。
一歩踏みしめるごとに、僕がこれまで積み上げてきた二十数年の「清廉潔白な歩み」が、みっともない音を立てて崩れていく。
(……終わった。僕の、息子としての『定格運用』は、今この瞬間に完全に停止したんだ)
母さんの記憶というデータベースにおいて、僕は今頃『理解不能な性的嗜好を持つ異常個体』として隔離フォルダに移されているに違いない。
説明など無意味だ。僕がどれほど「正義」を叫ぼうとも、あの箱の中身が『レースの下着』であったという絶対的な事実の前では、すべてが歪んだ倒錯者の弁明に成り下がる。
『変態』。
その禍々しい二文字の呪印が、僕の魂の深奥に、消えない焼印として押し当てられた。
自室のドアを閉め、真っ暗な絶望の淵で立ち尽くす。
玄関から遠ざかる母の足音は、僕のこれまでの平穏な人生を切り落とす、断頭台のギロチンの音に聞こえた。
(……それでも)
その絶望の底で、僕の心臓の奥底にある「不浄な灯火」だけは、未だ消えていなかった。
むしろ、この惨めな死を救済できるのは、スマートブレインの栄光を宿したあのギア
だけなのだ。
僕は、震える手でスマートフォンを握りしめた。
画面が微かに発光し、僕の網膜を灼く。
──その時だった。
『ブブッ……』
掌の中で、端末が聖なる震えを見せた。
視界に飛び込んできたのは、どの預言書よりも慈愛に満ちた通知。
『配達完了(お届けいたしました)』
その刹那、僕を支配していた悲壮感は、猛烈なパッションによって蒸発した。
死んでいたはずの僕の回路に、再び高電圧の電流が駆け巡る。
アイデンティティが死んだ? 結構。
息子を廃業した? 構わない。
今の僕は、ただ『神』を降臨させるための、純粋な器でしかないのだから。
ピン・ポ〜ン!
二度目のチャイム。
それは僕の「第二の人生」の幕開けを告げる、福音の鐘の音だった。




