8.
高橋正義署長は、兄弟の前を行ったり来たりしていたが、ふいに足を止め、二人を見比べた。
「……どこからそんな話が出てきた?」
「えっと……」リエルが口ごもる。
「何かを見たんだな?」
「はい」ゼフが答えた。
高橋正義は椅子に座り直し、深く息をつく。
「……そうか。だろうな……」
「あなたは何を知ってる?」ゼフが問う。
高橋正義は机の中をしばらく探り、新聞を一枚引っ張り出した。
「なぜ皆があの家を避けるのか、考えたことはあるか?」
リエルは見出しを読む。
【HOUSE CLOSED DOWN AFTER OWNER’S DEATH; LATEST IN A STRING OF DEATHS AND DISAPPEARANCES TIED TO THE PROPERTY.】
「……パパの家、何が起きてんだよ?」リエルが声を荒げた。
「誰にも分からん」高橋正義は低く言う。「怖くて、知ろうとしないからだろう」
「あなたは?」ゼフが聞く。
「大したことは……」高橋正義は目を伏せる。「怪しい通報が入るたび、たまに様子を見に行ってた。だが、ある日……何かが妙に感じた」
――四年前。
高橋正義は机に座り、書類の山をさばきながら電話を取っていた。
「いえ、奥さま。成人した息子さんを無理やり戻すことはできません」
「いえ、旦那さん。誰かが意地悪を言ったからって、娘さんを学校から引きずり出すわけには」
「おいガキ、ここは出前じゃねえ! もうかけるな!」
高橋正義は受話器を叩きつけ、通話を切った。
「くだらねえ……。小さな揉め事で警察を呼ぶくらいなら、他にやることがあるだろうに」
そこへ若い女性が入ってくる。
巡査部長――宗方ツキコ。
「署長、ここ数時間、妙な電話が続いています。報告した方がいいかと」
「分かってる」高橋正義はうんざりした顔で呻く。「寿司を届けろって電話がもう一本来たら、俺の頭が割れる」
「違います、署長」ツキコが訂正する。「声が……小さな女の子みたいなんです。でも、音が潰れていて、こもっていて……助けてって、泣いてるみたいで」
高橋正義は眉を上げた。
「どの電話だ?」
「一階です。受付のところ」
「分かった。見に行く」
ツキコと共に一階へ降りると、受付の電話がまた鳴った。
高橋正義は周囲に手で合図する。
「静かに」
受話器を取る。
「奥多摩警察署。どうされました?」
「……」
「もしもし? かけたのはそちらだろう」
「……166 Ōdo Street……」
ぷつり、と切れた。
室内が静まり返る。
ツキコが前へ出る。
「それ……オトマール・オードとオセフィリン・オードの屋敷ですよね? 入った人が戻らない、って噂の……」
「ああ」高橋正義は頷く。「あの家を見に行けという投書は何度も来ている。だが私有地だ。噂が本当でない限り、踏み込む理由がない」
「署長、どうします? 調べますか?」
「俺はオトマールを知ってる」高橋正義は言った。「いい男だ。……俺が行く」
ほどなくして、高橋正義はパトカーでオード邸へ向かい、門の前に停めた。
「……いつもより荒れてるな。改修はいつやる気だ」
門の脇のボタンを押すが、返事はない。
庭の奥を覗くと、車も見えなかった。
「妙だ。留守か? あいつはいつも家にいる。……いつもだ」
夜が濃くなる。冷たい風が頬を撫でた。
「引き返すべきか……?」
高橋正義は首を振る。
「いや。安否確認だけして帰る」
無線を取る。
「こちら高橋。現在オード邸。安否確認を行う。念のため、応援待機」
彼は門をよじ登り、内側へ降り立った。
玄関へ近づくにつれ、神経が張り詰める。
「警察だ! 誰かいるか!」
返答はない。
だがドアノブに手をかけると――開いた。
「……無用心にもほどがある。何をやってる、オトマール」
高橋正義は息を整え、屋敷へ入った。
「奥多摩警察だ! 中にいるなら名乗れ!」
……。
返ってくるのは、風の音だけ。
奥へ進むほど、かすかな音が増えていく。ほとんど聞こえないほど薄い――だが、はっきりとした音。
「……子どもの笑い声?」
廊下の奥まで進み、突き当たりまで来て振り返ると――
反対側に、青白い少女が立っていた。
顔がない。こちらに背を向けている。
「……なんだ、今の? おい! 君、誰だ!」
少女はテディベアを落とし、角を曲がって消えた。
高橋正義が角へ回り込むと、そこにはもう誰もいない。
床のテディベアを拾う。
「幻じゃない……? だが今のは……人間か?」
近くで見ると、かすかな血の跡があった。
「乾いてる。古い。……嫌な感じがする。応援を呼ぶべきだ」
彼は携帯を取り、警察署へ発信する。
「もしもし。今オード邸にいる。応援を――」
――ブォッ。
不自然な風が家の中を駆け抜け、携帯を奪い取って闇へ運び去った。
「……風? 廊下の中で?」
高橋正義は慌ててリビングへ走る。
そこで、ちらつきを見た。
「……?」
増える。増える。増える。
やがて、リビングには青白くちらつく影が群れを成していた。
全員、顔がない。
「……子ども、なのか……?」
一人の頬を、涙が伝ったように見えた。
その瞬間、時計が午前0時を打つ。
影たちは、一体ずつ前へ出た。
「……まさか。噂は本当だったのか……」
影たちが手を伸ばし、歩みが速くなる。
高橋正義は伸びた腕の隙間を転がって抜け、玄関へ向かった――だが、鍵がかかっている。
「開けろ……クソ!」
振り返ると、影たちは一列に並び、その先頭に“指揮者”がいた。
女の体つき。顔には、花の形をした不気味な仮面。
「お前……」高橋正義の声が震える。「……誰だ」
花の仮面が高橋正義を指さす。
すると周囲の霊が、ちらつきながら前へ進み出した。
「やばい、やばい、やばい……!」
最後に一度、ドアノブを強く引いた瞬間――
扉が開いた。
外には、ツキコ巡査部長と、十数名の警官がいた。
「署長!」ツキコが息を呑む。「何が――」
「どけ!」高橋正義が叫ぶ。「走れ!」
ツキコは一瞬、花の仮面と、歩いてくる子どもたちを見てしまい、口元を押さえた。
高橋正義は扉を叩き閉める。
「署長……今の、まさか……」
「この家は、ただの“呪い”じゃない」高橋正義は吐き捨てるように言った。「ここでは、恐ろしいことが行われてきた。……そしてオトマールは、それを知ってるはずだ」
ツキコが高橋正義の腕を引いた。
「……見て」
二階の窓。
血のようなもので、文字が書かれていた。
【H…E…L…P…U…S…】
――現在。
高橋正義が話し終えると、ゼフとリエルはしばらく無言だった。
やがてゼフが手を挙げる。
「……俺の父は、あなたに何か言ってた?」
「いや」高橋正義は首を振る。「あいつはいつも言っていた。『口を閉ざすと誓ったことがある。自分より“大きい”ものだ』と」
「パパが……誰かを傷つけるなんて、ありえるのか……?」リエルの声が揺れる。
「ない」ゼフがきっぱり言った。「パパはハエ一匹殺せない」
「その通りだ」高橋正義も頷く。「オトマールは商売人だ。怪物じゃない。だが――何者かに関わった。その代償が、命だった」
「それを知りたい」ゼフが言った。「あなたが見たのは“七つの仮面”の一つだろ。もっと何かあるか?」
高橋正義は重く頷く。
「関わるな。そして夜に廊下を歩くな。部下を送り込んだことがある……誰も戻らなかった」
そのとき、室内を冷たい風がすっと撫でた。
「気をつけろ、坊主ども。見つかる答えが、お前らの望むものとは限らない」
「分かってる」ゼフが答えた。「でも必要だ。……警察の協力も要る」
――




