2.
――奥多摩、日本――
リエルは兄を掴むと、そのまま背中に担ぎ上げて前庭へ走った。
「おい、何だよ!? なんで全力疾走してんだよ!」ゼフが叫ぶ。
「だって今、首のないヤバい幽霊見たんだよ!」
「はっ。『幽霊なんていねえ』って言ってたの誰だよ?」
「いるってことが分かったから言ってんだ!」
二人は門までたどり着いた。だが、門は閉まっていて――しかも、鍵がかかっている。
リエルは足を止めた。
「……ロック? なんでだよ。オマルは今出てったばっかだぞ? そもそもあいつ、鍵持ってねえし!」
「なあ」ゼフが遮る。「中に戻ろう。お前が言う“幽霊”を確認して、話をする」
そう言って、ゼフは月の護符を掲げた。
「これでな」
「やめろって。オカルトは効かねえよ」リエルが顔をしかめる。「もし本物なら、乗り移られるだけだろ。俺か、お前か、両方か」
リエルは門を引っ張る。
「いいから、開けるの手伝えって!」
ゼフはため息をついた。
「人間は学ばないな」
その瞬間、冷たい風がすっと通り、門が勝手に開いた。
リエルの背筋がぞわりと震える。
「今の……何だよ?」
「風だ」ゼフが言う。
「でも、家の中から吹いてきたぞ!? 家の中から吹く風って何だよ!」
「不思議な風だ。だから言っただろ。この家は、白黒つく話じゃない。中に入る。必ず」
「死にたいのか?」
廊下の奥に、何かがちらついた。リエルは一瞬だけ、それを見てしまう。
「やべ、やべ、やべ……!」
「玄関に案内しろ」ゼフが命じる。「どうやら、見えてるものが全部じゃない」
「俺、殺されるぞ……」リエルが小声で呟く。「分かったよ。盲目のお前が先な」
「望むところだ」
リエルはゼフを階段へ導き、開いた玄関へ向かわせる。軽く背中を押した。
「どうぞ、先輩」
「いい」ゼフが言った。「事件ファイル第一号の開始だ。名称は――『屋敷の謎』」
「自分で言って自分で満足してんのか?」
「最高に満足だ。いいか、今から俺の指示通りに動け」
「はいはい……」
「今いる部屋は?」
「玄関ホール」
「最初に“それ”を見たのは?」
「二階。浴室っぽかった」
「なら行き先は決まりだ。二階へ案内しろ」
リエルが動こうとすると、ゼフは片手を上げた。
「……その前に、俺のスーツケースを取れ」
――しばらく後/二階――
ゼフが浴室へ入り、リエルは数歩引いた位置で見守る。
ゼフはスーツケースを数分ほど探り、埃をかぶった古い袋を取り出した。中身は補聴器の一組と、音声レコーダー。
「おい」リエルが言う。「それ、マジで使うのか?」
「オカルトマスターに口答えするな」ゼフが言い切る。「お前は役に立て。何が見える?」
リエルは周囲を見回す。
「えー……浴室、普通だな」
「どれくらい普通だ。目につくものは?」
「鏡きれい、浴槽きれい、便器きれい。変なとこ、マジで何もない」
ゼフは指を鳴らした。
「だから変なんだ。親父が死んで八か月だよな? あいつの風呂場が綺麗なわけがない」
ゼフはレコーダーに向かって記録する。
【事件詳細#1:浴室の状態が……不自然に整えられている】
「誰がわざわざ風呂場いじるんだよ」リエルが呟く。
「分からない」ゼフが答える。「だから来た」
ゼフはまた指を鳴らす。
「この浴室に私物はあるか?」
「ねえよ」
「洗面台はどこだ。俺も確認する」
「左」
ゼフは洗面台の縁に膝をぶつけた。
「痛っ」
指先で縁をなぞると、蛇口の近くにかすかな湿り気を見つける。
「……最近使われた」ゼフが言う。「誰が?」
【事件詳細#2:洗面台が……最近使われた形跡】
「でも幽霊って、洗面台使わなくね?」リエルが言った。「洗う肉体がないだろ」
「“自分の”肉体を洗ってたとは限らない」ゼフは考えるように言う。「……だが、推理はまだ早い」
壁を手探りしても異常はない。洗面台下の収納を開けて触るが、中も空だ。
「来たやつは掃除が上手い」ゼフが言った。「だが、隠そうとすればするほど、細部は残る」
「次は?」リエルが聞く。
「さっきの反応で分かった」ゼフが言う。「お前、“それ”をもう一度見た。どこだ」
「……廊下」
「なら移動だ」
二人は廊下へ戻った。玄関の扉は、まだ開いたまま。
「閉めろ」ゼフが言う。
「おい、こんな気味悪い家で、扉を閉めるのかよ!?」
「そうだ。閉めろ」
リエルはできるだけ扉から距離を取りつつ、そっと閉めた。ゼフはその間、周囲を探る。
「よし。今ここに何がある」ゼフが言う。
「タンス。観葉植物。ラグ。……普通のもんだよ」
「普通のものほど、答えは深い」ゼフが返す。「壁は?」
「古い絵がある。ママとパパの」
「一枚よこせ。一番古そうなの」
リエルは絵を外して持ってきた。
「お前と俺と、姉貴と、親のやつ」
ゼフは絵の表面を触る。
「……質感は普通。だが――」
裏返した瞬間、ゼフの手が止まった。
「これは違う。リエル、俺の手の下は何だ」
「……赤い、何か……?」
ゼフは鼻を近づける。
「金属臭……血だ。しかも古い」
【事件詳細#3:廊下の絵の裏に……乾いた血痕】
「だ、誰の血だよ……」リエルの声が揺れる。
「待て」ゼフが言った。「手がかりは揃った。推理する」
【詳細1:浴室が綺麗すぎる】
【詳細2:洗面台が最近使われている】
【詳細3:絵の裏に乾いた血】
【推理:この家で争いが起きた。そして誰か、もしくは“何か”が、それを隠そうとしている】
ゼフの目が見開かれる。
「親父はここで誰かと揉めた。血は偶然じゃない。何かが当たった跡の出方だ。……親父に、だ」
「じゃあ浴室は?」
「片づけた。俺たちが来るのを知っていた」
「ってことは……」
「俺たちは一人じゃない。まだここにいる。探せば見つかる」
ゼフは壁にぶつかった。
「痛っ。次の部屋へ案内しろ!」
リエルが助け起こそうとした、そのとき――見上げた先に、それがいた。
「……」
半透明の影。顔のない、十代の少女の形。
「うわああああ!」
リエルは後ずさり、ゼフを落としてしまう。
「おい、何が――!」
「そいつだ! 戻ってきた! 戻ってきた!」
「捕まえろ! 今だ!」
影はゆっくりと振り返り、廊下を走って逃げた。
「走ってる!」
「逃がすな! 方向を言え!」
「え、えっと、廊下の先!」
ゼフは補聴器のボタンを押し、廊下へ一直線に走り出す。リエルが追う。
ゼフは壁にぶつかり、足を止めた。
「左だ……音が左を指してる!」
左へ曲がり、また壁に何度かぶつかった後、ドアへ額から突っ込んだ。
リエルが起こすと、ゼフはドアノブを掴む。
「ここだ。入ったに違いない。リエル、俺の護符! 今!」
リエルは月の護符を見て顔をしかめる。
「こんなもん、効くかよ……!」
「渡せ!」
ゼフが扉を開け放つ。
中は子ども部屋だった。小さなプレイハウス、車のおもちゃ、線路の玩具。
「リエル」ゼフが言う。「見えるものを言え」
リエルがごくりと唾を飲む。
「……幽霊が……床で泣いてる」
部屋の中央。すすり泣きが聞こえる。
影はゆっくりと顔を上げた。髪が顔を覆い隠している。
リエルはゼフの肩を揺さぶった。
「おい、おい、おい! ヤバい! 立った! 立ったって!!」
「護符を投げろ!」ゼフが叫ぶ。
リエルは護符を渡した。
「……親父が教えた唱え方でいく」ゼフが息を整える。「去りぬ、大地の怒りの霊よ! 去りぬ、大地の怒りの霊よ!」
影が、ぴたりと止まった。
首を、ゆっくり傾げる。
「……オード……」
「やべ、名前知ってる! 走れ、今すぐ――!」
ゼフが返す前に、影が一歩踏み出し――
次の瞬間、廊下へ向かってゼフを突き飛ばした。
「ゼフ!」
――




