第八巻潼関の戦い其の三
夜明け前の潼関は、薄い霧に包まれていた。
山肌から立つ白い靄が、兵の影を呑み込んでいく。
魏軍の陣中は眠りが浅かった。
蜀が太鼓を鳴らしたまま攻めてこなかった――
その不気味さが、兵の胸を重くしていた。
僕は地図を眺めながら、夜を越えた思考を整理していた。
蜀は砦を奪わない。
砦を壊さない。
ただ“沈黙”させる。
その目的は――潼関全体を包囲すること。
「――翔国殿。」
司馬懿が天幕に入ってきた。
いつもの冷静な顔が、今日は少し険しい。
「報告だ。東砦も沈黙した。」
「……とうとう、三方が消えましたか。」
「うむ。」
その瞬間、地図の潼関は孤立した。
南、北、東――すべての砦が途絶えた。
残っているのは本陣と中央道のみ。
司馬懿が僕へ視線を落とす。
「これは、偶然か?」
「いいえ。完全なる計画です。」
「では、そこまで読んでいるな?」
僕は深呼吸をし、言葉を絞り出した。
「――蜀軍の狙いは、魏軍の団結心の崩壊。」
◆
その時、天幕が揺れ、兵が駆け込む。
「大変です! 南砦から伝令!」
「南砦も沈黙か?」
「いえ――逆です!」
兵が息を荒げて続ける。
「南砦の魏軍が反旗を!」
場が凍った。
「蜀へ寝返ったとの噂が陣内に広がっています!」
動揺が空気を歪ませる。
郭淮が低く唸った。
「噂の出所は?」
「不明です!」
不明――それこそが蜀の戦術。
「翔国殿、意見は?」
司馬懿が問う。
「噂は偽りです。」
全員が黙り、僕の言葉を待つ。
「南砦の兵は魏の生え抜きです。裏切りはしない。」
曹真が唸る。
「では何故噂が回った?」
「蜀軍には、情報を操る者がいる。」
郭淮が目を見開く。
「噂自体が攻撃ということか!」
「はい。」
蜀は砦を狙っていない。
兵の“心”を落とそうとしている。
◆
その時――外から低い地鳴りが響いた。
天幕が震える。
魏兵が騒ぐ声が遠くで聞こえる。
僕らは外へ出た。
霧を割って姿を現したのは――
蜀軍の騎兵隊だった。
馬蹄が地面を叩き、霧を切り裂き、列を成して進む。
だが――攻めてこない。
一定距離で止まった。
旗がゆらりと揺れ、武将らしき人影が前に出る。
郭淮が呟く。
「挑発か?」
「違う。」
僕は騎兵を凝視した。
蜀軍は馬から降り、足元へ何かを置いた。
小箱だった。
騎兵は箱を置くと、すぐさま引き上げていく。
司馬懿が低く言う。
「翔国、どう見る?」
「――情報戦の次の段階です。」
「箱の中身は?」
「魏軍を内部崩壊させる手紙。」
◆
箱へ向かう兵たちを止め、僕と郭淮が箱を開ける。
中には紙束が入っていた。
一枚を広げる。
湛然たる筆跡でこう記されていた――
――魏兵各位へ。
――砦は落ちた。指揮官は逃げた。
――潼関は見捨てられた。降伏せよ。
郭淮は歯噛みした。
「馬鹿な!」
「馬鹿ではない。」
僕は息を吐く。
「心理を知り尽くした策。」
司馬懿が紙束を取り、冷静に言った。
「広める意図は明白だ。魏内を混乱させる。」
「はい。」
僕は紙束を手に握り、言葉を続ける。
「しかし――これは勝機です。」
◆
司馬懿が目を細める。
「勝機?」
「蜀は情報による混乱を狙っている。
ならば逆を突く。」
「逆――つまり?」
「蜀軍は“戦わずに勝つ”つもりだからこそ――」
僕は力強く地図を指す。
「こちらから一撃、砦の沈黙を破る。」
郭淮の眼に光が宿る。
「敵の計画を逆手に取ると?」
「はい。」
「狙う砦はどこだ?」
僕は即答した。
「――北砦。」
司馬懿が唇を上げる。
「良い判断だ。」
北砦は沈黙している。
だからこそ、蜀軍は油断している。
そして――
「奪い返すだけではない。」
「まだ何かあるのか?」
「北砦から狼煙を上げる。」
場が沸いた。
曹真が目を見開く。
「潼関が健在だと広めるのだな!」
「はい。心理戦には心理戦で返す。」
◆
その夜――魏軍は静かに動いた。
騎馬二百。
歩兵三百。
郭淮が自ら隊を率い、北砦へ向かう。
僕は城壁の上で見送った。
「必ず成功させてください。」
郭淮は笑った。
「任せろ。蜀の鼻を折ってやる。」
闇に、軍が消えていく。
風が冷たい。
鼓動が早くなる。
「……読まれていないといいが。」
僕は夜空を見上げ、深く息を吸った。
蜀軍は情報戦を仕掛けた。
魏軍は返す。
ここが勝負の分岐点。
明日――
北砦から狼煙が上がるか。
それとも――潼関が静かに終わるか。
まだ誰にも分からない。




