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第八巻潼関の戦い其の三

夜明け前の潼関は、薄い霧に包まれていた。

 山肌から立つ白い靄が、兵の影を呑み込んでいく。


 魏軍の陣中は眠りが浅かった。

 蜀が太鼓を鳴らしたまま攻めてこなかった――

 その不気味さが、兵の胸を重くしていた。


 僕は地図を眺めながら、夜を越えた思考を整理していた。


 蜀は砦を奪わない。

 砦を壊さない。

 ただ“沈黙”させる。

 その目的は――潼関全体を包囲すること。


「――翔国殿。」


 司馬懿が天幕に入ってきた。

 いつもの冷静な顔が、今日は少し険しい。


「報告だ。東砦も沈黙した。」


「……とうとう、三方が消えましたか。」


「うむ。」


 その瞬間、地図の潼関は孤立した。

 南、北、東――すべての砦が途絶えた。

 残っているのは本陣と中央道のみ。


 司馬懿が僕へ視線を落とす。

「これは、偶然か?」


「いいえ。完全なる計画です。」


「では、そこまで読んでいるな?」


 僕は深呼吸をし、言葉を絞り出した。


「――蜀軍の狙いは、魏軍の団結心の崩壊。」



 その時、天幕が揺れ、兵が駆け込む。


「大変です! 南砦から伝令!」


「南砦も沈黙か?」


「いえ――逆です!」


 兵が息を荒げて続ける。


「南砦の魏軍が反旗を!」


 場が凍った。


「蜀へ寝返ったとの噂が陣内に広がっています!」


 動揺が空気を歪ませる。


 郭淮が低く唸った。

「噂の出所は?」


「不明です!」


 不明――それこそが蜀の戦術。


「翔国殿、意見は?」

司馬懿が問う。


「噂は偽りです。」


 全員が黙り、僕の言葉を待つ。


「南砦の兵は魏の生え抜きです。裏切りはしない。」


 曹真が唸る。

「では何故噂が回った?」


「蜀軍には、情報を操る者がいる。」


 郭淮が目を見開く。

「噂自体が攻撃ということか!」


「はい。」


 蜀は砦を狙っていない。

 兵の“心”を落とそうとしている。



 その時――外から低い地鳴りが響いた。


 天幕が震える。

 魏兵が騒ぐ声が遠くで聞こえる。


 僕らは外へ出た。


 霧を割って姿を現したのは――

 蜀軍の騎兵隊だった。


 馬蹄が地面を叩き、霧を切り裂き、列を成して進む。

 だが――攻めてこない。


 一定距離で止まった。


 旗がゆらりと揺れ、武将らしき人影が前に出る。


 郭淮が呟く。

「挑発か?」


「違う。」


 僕は騎兵を凝視した。


 蜀軍は馬から降り、足元へ何かを置いた。


 小箱だった。


 騎兵は箱を置くと、すぐさま引き上げていく。


 司馬懿が低く言う。

「翔国、どう見る?」


「――情報戦の次の段階です。」


「箱の中身は?」


「魏軍を内部崩壊させる手紙。」



 箱へ向かう兵たちを止め、僕と郭淮が箱を開ける。

 中には紙束が入っていた。

 一枚を広げる。


湛然たる筆跡でこう記されていた――


――魏兵各位へ。

――砦は落ちた。指揮官は逃げた。

――潼関は見捨てられた。降伏せよ。


 郭淮は歯噛みした。

「馬鹿な!」


「馬鹿ではない。」

僕は息を吐く。


「心理を知り尽くした策。」


 司馬懿が紙束を取り、冷静に言った。

「広める意図は明白だ。魏内を混乱させる。」


「はい。」


 僕は紙束を手に握り、言葉を続ける。


「しかし――これは勝機です。」



 司馬懿が目を細める。

「勝機?」


「蜀は情報による混乱を狙っている。

 ならば逆を突く。」


「逆――つまり?」


「蜀軍は“戦わずに勝つ”つもりだからこそ――」


 僕は力強く地図を指す。


「こちらから一撃、砦の沈黙を破る。」


 郭淮の眼に光が宿る。

「敵の計画を逆手に取ると?」


「はい。」


「狙う砦はどこだ?」


 僕は即答した。


「――北砦。」


 司馬懿が唇を上げる。

「良い判断だ。」


 北砦は沈黙している。

 だからこそ、蜀軍は油断している。


 そして――


「奪い返すだけではない。」


「まだ何かあるのか?」


「北砦から狼煙を上げる。」


 場が沸いた。

 曹真が目を見開く。

「潼関が健在だと広めるのだな!」


「はい。心理戦には心理戦で返す。」



 その夜――魏軍は静かに動いた。


 騎馬二百。

 歩兵三百。

 郭淮が自ら隊を率い、北砦へ向かう。


 僕は城壁の上で見送った。


「必ず成功させてください。」


 郭淮は笑った。

「任せろ。蜀の鼻を折ってやる。」


 闇に、軍が消えていく。


 風が冷たい。

 鼓動が早くなる。


「……読まれていないといいが。」


 僕は夜空を見上げ、深く息を吸った。


 蜀軍は情報戦を仕掛けた。

 魏軍は返す。


 ここが勝負の分岐点。


 明日――


 北砦から狼煙が上がるか。

 それとも――潼関が静かに終わるか。


 まだ誰にも分からない。

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