表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

8/11

第七巻潼関の戦い其の二

潼関の空は朝から薄く霞んでいた。

 山と谷の境を越える風が、妙に冷たい。

 その風が魏軍の陣幕を揺らし、兵の肩に沈黙を落とす。


 昨夜から蜀軍の動きは途絶えており、谷の向こう側は静かだった。

 だが、静けさは戦場では吉兆ではない。

 静けさは、何かが近づいている証だ。


 僕は朝の軍議を開くために天幕に入った。

 司馬懿、曹真、郭淮、張郃――

 錚々たる武将が地図を囲んで座している。


「報告がある。」

 司馬懿が唇を開く。

「夜間、砦のひとつ――“西砦”の烽火が消えた。」


 場が凍りついた。


「連絡は?」


「途絶えている。」


 その一言の重さは、剣より鋭い。

 烽火が消えるということは、砦の異常。

 そして夜明けまで戻らないということは――


「翔国殿、どう見る?」

 曹真の声が低く落ちた。


「――偽装の可能性が高い。」


「偽装?」


「蜀軍が砦をそのまま奪い、内部から魏本隊の配置を覗く意図です。」


 誰も反論しなかった。

 この戦場では、信じ難い推測ほど現実になる。


 郭淮が眉間を寄せた。

「しかし敵が夜間、砦を奪い返す理由は……?」


「魏軍の布陣、兵数、守備の弱点を知るため。」


 僕は地図の“谷”を指でなぞった。


「蜀は攻めてこない。まずは、勝てる保証を整えている。」


 司馬懿が静かに息を吐いた。

「つまり、蜀軍は情報戦を選んだと。」


「はい。ここから数日は攻めてきません。」


「ではこちらから砦を奪い返すか?」


「いえ――行かない方がいい。」


 場がざわつく。


「敵の意図が読めないまま動けば、潼関の守備線が瓦解します。砦は囮です。」


 司馬懿が頷く。

「賛成だ。」


 曹真が腕を組み、深く目を閉じた。

「……蜀は強くなっている。」


 その言葉が残響となって天幕に揺れた。



 軍議が終わる頃、外が騒がしくなった。

 兵が天幕に駆け込んで来る。


「報告! 蜀軍砦へ魏軍旗が掲げられました!」


「魏旗?」


「はい! 西砦は無事との狼煙も!」


 場が揺らぐ。


 だが、僕は即座に言った。


「行かないでください。」


 全員がこちらへ目を向ける。


「それは――蜀の罠です。」


 兵が震える声で言う。

「ですが、旗は魏旗でございます……。」


「魏旗を奪って掲げればいい。」


 鼓動を抑えながら続ける。


「狼煙も、合図は簡単に真似できる。」


 天幕が静まり返る。

 もう誰も反論しない。


 類推だ。

 しかしこの戦場では、類推が命を救う。


 司馬懿が短く言う。

「翔国の言う通りだ。動くな。」


 郭淮が小さく息をついた。

「……蜀の策士は本気ですね。」


 僕は心の奥に、奇妙なざわめきを覚えていた。

 まるで向こう側に、こちらを知り尽くした者がいるような――

 そんな冷たい視線を感じた。



 昼過ぎ、蜀軍がついに動いた。


 谷の向こうで旗が揺れ、兵列が伸びる。

 太鼓が鳴り、空気が震える。

 谷間に、歩兵と騎兵が波のように陣を敷いた。


 魏兵が緊張で喉を鳴らす。


「来るか?」


「いや……動かない。」


 蜀軍は前へ進んだだけで止まった。

 距離を詰めただけ。

 挑発。


 長い沈黙が戦場に流れる。


 郭淮が僕へ目を向ける。

「翔国殿、どう見ます?」


「……まだ動かない。」


「なぜ?」


「蜀は潼関そのものより、指揮官を狙っている。」


 郭淮は息を呑む。


「あなたの命が狙われている。」


 その言葉は冗談ではない。

 心臓が静かに脈打つ。

 ここまでの戦歴を考えれば、当然。

 蜀が最も嫌う魏軍の軍師――


 僕。



 夕暮れ。


 また報告が来る。


「北砦が、沈黙しました!」


「またか!」


 魏軍内の空気が濁り始める。


 疑問、不安、怒り――

 兵は強いが、人は脆い。


「翔国殿、北砦救援隊を出さねば!」


「出せません。」


 郭淮が拳を握る。

「理由は?」


「救援は、蜀が最も望む形。」


 蜀は魏の“焦り”を作り出している。

 砦を落とす必要なんてない。

 ただ沈黙させればいい。

 疑わせればいい。


 その疑念は、兵と将の心を蝕む。


 曹真が俯く。

「……蜀は砦を奪わず、破壊せず、ただ黙らせている。」


「はい。潼関を戦場にするための準備です。」


「戦場に?」


「ええ――この先、潼関全体が包囲されます。」


 軍議の空気が変わった。


 もう誰も楽観視していない。



 夜。


 僕は天幕の外に立ち、山を眺めた。

 谷の向こう、かすかに灯りが揺れている。

 あれは焚き火だろうか。

 囮だろうか。

 偽りか、真実か。


 風が髪を揺らす。

 郭淮が後ろから声をかける。


「翔国殿。何を見ているのです?」


「蜀が、僕らの何を知っているのか考えていた。」


 郭淮が沈黙する。


「蜀は僕の策を理解している。

 ただの偶然ではない。」


「つまり?」


「内部に、魏の誰かが蜀側に情報を渡した可能性がある。」


「内通者、ですか。」


「多分。」


 風が沈黙を運ぶ。


 郭淮は静かに笑った。

「難しい戦になりそうですね。」


「難しいどころじゃない。」


 僕は夜空を見上げた。


「これは――人智の戦だ。」


 遠く、山の向こうで太鼓が鳴った。

 二度、三度。

 低く、深く響く。


 ついに蜀が、戦の幕開けを告げた。


 潼関攻防戦の、本当の始まりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ