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第五巻隴東平原の戦い後編

夜明け前の隴東平原は、色を失った世界だった。

 空も地も同じ灰色に沈み、かすかな星明かりだけが、草を銀色に照らしていた。

 風はまだ冷たく、兵たちの息が白く漂う。

 夜営の火は弱まり、戦の前の沈黙だけが広がっている。


 その静寂のなか、僕は天幕を出た。

 目の前には闇に飲まれた平原が横たわり、その彼方に蜀軍が眠っている。

 昨日の戦は、互いに傷が深かった。

 蜀の投石と弩の雨撃に魏軍はじわじわ押し込まれ、魏の鉾と壁の守りは蜀の突撃に揺らぎ続けた。

 だが崩れなかった。


 だからこそ、今日が始まる。


「翔国殿。」

 振り返ると郭淮が立っていた。

 目の下に濃い影を刻んだまま、それでも落ち着いた表情を崩さない。


「騎兵隊、予定通り移動完了との報告がありました。」


「ありがとう。」


 郭淮が風を受けて視線を前に転じる。

「今日が――正念場ですね。」


 僕は深く息を吸う。

「今日、勝ちきれなければ、もう蜀を押せません。」


「蜀軍の士気は高い。趙雲、姜維、名将ぞろいです。」


「だから勝つんです。」


 自分でも驚くほど静かに言っていた。

 怖さは消えた。

 勝つことしか考えていない。


 夜の色がわずかに薄れていく。

 平原の端が、ぼんやりと赤みを帯び始めた。

 人々の気配が活性化し、鎧の金属音があちこちで鳴る。

 戦支度が始まったのだ。


 天幕へ戻ると、曹真が地図を前に立っていた。

「翔国、いよいよだ。」

 声には高揚と恐怖が共存していた。


「今日の目的は、蜀中央を押し込み、崩すことです。昨夜移動した騎兵が蜀左翼へ突撃し、混乱すれば……中央が弱くなる。」


 張郃が苛立つように腕を組んだ。

「混乱するか? あの趙雲が控えているのに?」


「こちらは奇襲です。蜀が対応する前に、届く。」


 沈黙が落ちた。

 司馬懿がこちらを見ていた。

 表情も読めない。

 ただ不気味な沈黙だけが漂った。


「曹真様。」

 僕は言った。

「今日一日は、僕に指揮権をください。」


 曹真が息を飲む。

 張郃が身を乗り出す。

 天幕の空気が重くなった。


「あなたの判断が遅れれば、魏は負けます。」


 静寂。


 そして曹真が、低く言った。

「――すべてを任せる。」


 司馬懿すらまばたきを止めた。

 張郃は目を閉じる。


 僕は深く頭を下げた。


 そこから先は早かった。


 軍号が鳴る。

 馬が嘶き、槍が掲げられ、戦列が伸びる。


 夜が完全に白むと、平原に蜀軍の旗が再び揺れた。

 昨日より密集した陣形。

 防御から攻撃へと切り替えた配置だ。

 まるで今日を勝ちに来たかのよう。


 姜維隊が前へ進む。

 趙雲隊が右翼へ展開。

 蜀軍は、美しく恐ろしく整っていた。


 僕は叫んだ。

「魏軍――全軍前進!!!」


 戦鼓が響く。

 地面が揺れる。

 十五万の兵が、一斉に動き出した。


 槍が向けられ、盾が構えられ、馬が走る。

 大地を踏む震動が胸に響く。


 蜀軍中央との距離が縮む。


 そして衝突の瞬間――地面が爆ぜた。

 槍と槍が弾かれ、兵が押し合い、前線が光を散らしながら震えた。


 姜維の旗が前へ出る。

 鋭い攻勢。

 魏軍中央が押し込まれた。


 僕は叫ぶ。

「退くな!! 前へ出ろ!!!」


 前線が揺れながら踏み止まる。

 槍先が、鎧と鎧の隙間に食い込み、兵の叫びと怒号が重なる。

 ただし、悲惨は描かない。

 戦場の空気だけを伝える。


 右側を見た。

 趙雲が動いた。


 銀甲の騎兵集団が、魏左翼へ突撃していた。

 速度がある。

 馬の軌跡が弧を描き、突撃線が美しい。


「ここで趙雲……!」


 僕は即座に判断した。

「左翼、持ちこたえて! 中央から兵をやる!」


 張郃が駆け、槍兵を率いて支えに向かった。

 砂埃が舞い、戦線が歪む。


 中央は押されながら耐えた。

 姜維の指揮は鋭く、戦列の呼吸が完璧だ。


 しかし、耐えている。

 一歩も退かない。


 その時。


 遠方に大きな砂煙が上がった。

 魏騎兵。

 蜀左翼へ突撃成功。


「始まった……!!」


 僕は声が出なかった。

 魏騎兵が蜀左翼へ突っ込み、溝に誘導され、蜀軍の動きが乱れた。

 蜀左翼が揺らぎ、旗が崩れ始める。


 姜維隊の動きが変わった。

 左翼崩壊を支えるために兵を割いたのだ。


「そのまま押せ!!!」


 魏中央の士気が一気に爆発した。

 叫び声が上がり、槍が前へ突き出され、兵が押す。


 姜維の顔が遠くに見えた。

 必死だ。

 戦場が動いた。


 だが――趙雲が戻った。


 魏騎兵を迎撃し、戦局を一気に戻した。

 蜀左翼は踏み止まり、魏騎兵は混乱。

 趙雲が吼えるように馬を駆り、戦線を押し返した。


 騎兵突撃の勢いが、少しずつ消え始める。


 僕は喉の奥が冷たくなった。

「ここまで読んでいたのか……!」


 諸葛亮の影が、戦場に重く伸びる。


 姜維が再び前進。

 趙雲右翼が体勢を立て直す。

 蜀中央が強くなり、押し返し始めた。


 魏軍の勝機が――崩れかけた。


 その瞬間。

 偵察兵が駆け込む。


「報告!! 蜀弩兵、矢が尽きました!!」


 僕は拳を握った。

「来た。」


 蜀の遠距離攻撃は、昨日の消耗が限界に達していた。

 投石も止んでいる。


 魏有利。


「全軍――前へ進め!!!」


 声を張り上げ、前線が押し返す。

 魏軍が歩を進める。

 姜維隊が再び揺れた。


 前方へ出た僕の視界に、蜀中央の苦悩が映る。


 勝機だ。


 だが――その時だった。


 蜀中央の最奥、本陣の旗が揺れた。

 赤い旗が高く掲げられる。


 撤退命令。


 蜀軍が一斉に後退を始めた。

 整った動き。

 混乱がない。

 本陣の指揮が届いている。


「諸葛亮だ……!」


 僕の声は震えていた。


 勝てる局面だった。

 本当に勝ちに手が届いていた。

 だが諸葛亮は、全軍損耗を避け、冷徹に退いた。

 敗走ではなく、撤退。

 計算された退き。


 崩れる蜀軍を追いたい武将たちが叫ぶ。

「追撃を!」


 僕は首を振った。

「追えません。蜀軍は罠を張って退いています。追えば逆に削られる。」


 張郃が悔しそうに唇を噛む。

「あと一刻戦えていたら我らは……!」


「その一刻を与えないのが諸葛亮です。」


 魏兵の歓声と悔恨が入り混じる中、戦は終わった。


 引き分け――いや、

 結果で言えば魏軍の優勢撤退。

 だが決着はしていない。

 本当に勝ったとは言えない。


 日が傾き、空は赤く染まった。

 平原の風が吹き抜け、砂が舞い上がった。


 僕は静かに空を眺めた。

 戦場の空気には、燃え尽きた草の匂いと、戦の余韻が漂っていた。


「勝ったのか……負けたのか……」


 つぶやきが漏れた。


 隣にいた郭淮が答えた。

「生きている。なら、次がある。」


 僕は笑った。

 薄い笑みだったが、確かに笑えていた。


 これが隴東平原の結末。


 勝利にも敗北にも偏らない、

 けれど魂を焼く戦の終わり方。


 蜀は退いた。

 魏は止めた。


 次は決着をつける。

 そのとき――僕は必ず勝つ。


 ただ、それだけ考えていた。


 風が吹いた。

 空が暗くなった。

 戦の幕が静かに下りる。


 やがて戦鼓は止み、平原に夜が戻ってくる。


 そして物語は、次へ続いていく。

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