表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/11

第五巻隴東平原の戦い前編

 戦場の風は、冷たい。

 けれど本当に冷たいのは風ではなく、そこにいる人間の心だ。


 誰もが恐れていた。

 蜀軍との決戦――隴東平原の衝突。

 魏と蜀の兵が真正面からぶつかり、互いが互いの歴史を塗り替えようと、牙を向け合う。


 勝つ者は生き、負ける者は去る。

 ただそれだけのことだ。


 けれど、僕にとっては違う。

 僕は、勝たなければ家に帰れない。

 銭湯で転んだサラリーマンが、ふざけた運命で魏の軍師だなんて笑い話、勝てなきゃそこで終わりだ。


 東門攻防戦に勝っても、不安は消えない。

 魏の誰もが皮肉っぽく笑った。

 「偶然の勝利だ」

 「戦略の再現性は薄い」

 「諸葛亮には通じないだろう」


 僕を支えてくれる人間は、ほんの一握りだった。


 だがいい。

 理解されなくて腕が鈍るほど弱い人間じゃない。


 隴東平原。

 そこは蜀と魏が、真正面からぶつかり合える巨大な舞台。

 逃げ場はない。

 誤魔化しもない。


 すべての兵が、すべての命をかけて、

 ただ勝利だけを欲しがる場所。


 この巻は――戦が始まる巻だ。

 諸葛亮軍八万と、魏軍十五万が、初めて顔を合わせる巻。

 運命の門が開く瞬間を描く巻だ。


 僕は蜀を止める。

 止めて、勝って、生き残る。

 それが魏の軍師になった僕の、初めての答えだ。

隴東平原は広く、風が抜けた。

 草原の匂いが鼻をくすぐり、遠くでは雲が流れ、空は果てしなく青かった。

 大地は緩く波打つように続き、馬が走れるほど固く、弓矢が届き合うには十分平坦だった。


 ここは戦うための土地だ。

 蜀も魏も、そのためにここへ来た。


 魏本陣――天幕の中心で、曹真、司馬懿、張郃、郭淮ら武将が揃っていた。

 軍議の空気は重い。

 卓上の地図には赤と黒の石が置かれ、どちらが死ぬかわからないほどに拮抗していた。


 僕は地図に指を滑らせた。

「平原は蜀に向く地形です。彼らは長距離射撃を武器にしてくる。」


 張郃が腕を組み、唸る。

「だが魏は騎兵が主力だ。ここで攻めずして、どこで攻める。」


 僕は静かに首を振った。

「まだ動けません。蜀が先に撃ってきます。」


 司馬懿が目を細めた。

 この人の目は、笑っても怖い。


「撃ってくると、なぜ断言できる?」


「彼らは諸葛亮。挑発し、射程で削り、魏軍の自信を奪うことで開戦を優位に進めます。」


 僕の言葉に、軍議の空気がわずかに揺れた。

 東門攻防の勝利が、僕へわずかな信頼をくれたらしい。


 曹真はうなずいた。

「では防御陣形で迎え撃つ。」


 これで魏軍の初日方針が決まった。


 その直後、偵察兵が駆け込んだ。

「報告! 蜀軍本隊が十五里先、陣形展開を確認!」


 天幕内の空気が揺れ、兵のざわめきが伝播した。


 ついに――来た。

 諸葛亮。

 姜維。

 趙雲。

 馬謖。

 蜀の英雄が揃っている。


 魏軍十五万が、一気に動いた。

 地鳴りのような足音が平原を揺らした。

 戦鼓が鳴り、金属音と馬の嘶きが空を裂いた。


 戦が始まる。


 僕は城壁の石段から平原を見下ろした。

 蜀軍の旗が翻り、雲のような陣列が横へ広がる。

 彼らの中央には、投石車。

 その後方には三段構えの弩兵部隊。

 戦線は完璧に整っていた。


 そして――轟音。


 石が空を飛んだ。

 まるで巨大な星を投げたような音だ。

 風を切る轟きがぬるりと耳を通る。


 魏本陣へ重石が落ちる。

 土が吹き上がり、馬が暴れる。

 兵の列が乱れ、陣幕が崩れる。


 魏軍初撃――衝撃的に不利。


「すぐ整列を立て直して! 恐れるな! 後退するな!」

 僕は直に声を張り上げた。


 蜀の投石は続き、弩兵が射撃を開始した。

 長い距離を越えて矢の雨が降る。

 魏軍の盾が火花を散らし、悲鳴が上がり、土煙が舞った。


 その攻撃を三度受け、ようやく蜀軍は攻勢を止めた。


 僕は息を吐く。

「これは序盤。この程度では崩れません。」

 兵がうなずく。

 しかし声は震えていた。


 次に蜀は歩兵を押し出した。

 槍と盾が揃い、規律は美しかった。

 その先頭に立つ旗――姜維。


 そして右側面に趙雲の姿。

 銀甲が陽光を反射していた。


 本当に来た。


 魏軍内に緊張が走る。


「趙雲の騎兵が出たぞ!!」


 僕は周囲を見た。

 曹真の拳が震えていた。

 張郃は前へ出ようとしていた。


「まだ動かないでください。」

 僕は再び言った。


「蜀軍が渡ってきた浅瀬――そこは足場が悪い。彼らは射撃後の突撃で一気に崩すつもり。でも――」


 僕は微笑んだ。


「魏軍は今、陣形が整っている。」


 蜀軍歩兵が距離を詰める。

 矢が飛んできた。

 槍の音が響く。


「耐えて!!」


 魏軍が踏み止まった。

 槍と盾がぶつかる衝撃が伝わり、平原が震えるほどの密度で前線が押し合った。

 互角――いや、わずかに押し込まれている。


 姜維の部隊は強い。

 配置も完成されている。

 蜀軍の士気は高い。


 だが、崩れない。


 魏軍全体が持ちこたえ始めた瞬間――

 風が変わった。

 蜀軍の弩兵が弦を巻き、残り少ない矢を射出したのだ。


 矢が尽き始めている。

 蜀軍補給線は伸びている。

 その弱点がここで出る。


「郭淮将軍。弩射撃、もうすぐ止まります。」


「……! なら、この戦は持つ!」


 夜になった。

 戦は中断した。

 しかし緊張は消えない。

 炎が燃え、空気が熱く、兵は眠れなかった。


 曹真が僕の天幕へ来る。

「明日からは攻勢に出る。」


 僕は頷いた。


「夜のうちに、魏騎兵を回り込ませます。」


「お前の采配に任せる。」


 その夜、魏騎兵は密かに移動した。

 平原の奥深くへ。

 蜀軍に気づかれることなく。


 諸葛亮はまだ沈黙している。

 だが沈黙が一番怖い。


 僕は空を見上げた。

 夜風が冷たい。

 星が高い。

 自分がどれだけ異世界人で、どれだけ不自然な存在かを思い知る。


 それでも立つ。


 なぜなら――勝たないと帰れない。


 明日は蜀軍中央と衝突する。

 魏騎兵を信じる。

 明日勝つ。


 自分へ言い聞かせる。


 天幕が風に揺れた。

 外では見張りが交代する足音。

 遠くで武具が触れ合う金属音。

 夜明けが近い匂いがした。


 僕は呟く。


「明日、決戦が始まる。」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ