第九巻潼関の戦い其の四
夜が明けきる直前、潼関の空は深い藍色に沈んでいた。
星は霞み、風は冷たく、兵の息が白く揺れる。
僕は天幕の前に立ち、遠くの北砦を見つめていた。
闇に包まれた砦は、まるで息を潜めている獣のようだ。
――今、この静寂に全てが懸かっている。
「翔国殿、北砦方向に動きあり!」
見張り台から声が届く。
全員が息を呑んで耳を澄ませた。
暗闇の向こうから――狼煙が上がった。
白い煙が空へ向かってゆっくりと伸びていく。
「……成功、した。」
思わず声が震えた。
魏軍だけでなく、周囲の景色そのものが息を吹き返したように見えた。
「北砦奪還! 蜀軍後退!」
天幕へ飛び込んできた伝令の声は、明るく力強かった。
曹真が大きく笑い、司馬懿も眼を細める。
「やったぞ、翔国殿!」
「いや――まだ勝ちは遠い。」
僕は煙を見つめながら静かに言った。
「蜀は北砦を奪われる前提で次の策を打っている。」
◆
昼頃、北砦帰還部隊の報告が届く。
郭淮が馬を降り、兜を外し、笑みを浮かべた。
「奪ってきたぞ!」
「敵の抵抗は?」
「思ったより薄かった。」
司馬懿が低く言う。
「やはり、蜀軍は北砦を餌にした。」
「ええ。」
僕は息を吸い、地図を広げた。
潼関の真北――
蜀軍が散開した痕跡。
郭淮は眉をひそめる。
「どう思う?」
「蜀の狙いは次。」
僕は地図の中央を指した。
「――潼関本陣、正面崩し。」
「正面から?蜀は回り込む軍では?」
「ええ。だからこそ今回、逆を突く。」
司馬懿が静かに頷く。
「中央突破戦か。」
これは、潼関でもっとも危険な攻め方。
しかし、情報戦で揺らいだ兵を束ねるには――
真正面の勝利こそ効果がある。
◆
その時――大地が震えた。
揺れた。
太鼓が鳴り響く。
「敵襲ッ!!!」
叫び声が潼関に走る。
僕らは城壁へ駆け上がった。
地平線――その彼方から蜀軍が迫っていた。
緑の旗が揺れ、槍が列を成し、太鼓が地響きを生む。
先頭――趙雲。
その姿が霧の向こうに鋭く浮かび上がる。
「趙雲……来たか。」
その隣に姜維。
さらに馬謖らが続き、知と胆の軍勢が迫る。
司馬懿が腕を組む。
「真っ向勝負を挑んできたか。」
「違う。」
僕は頭を振る。
「これは、真っ向勝負に見せた――心理攻撃。」
「心理攻撃?」
「本当に狙うのは、中央ではない。」
言い切った瞬間――
陣後方が揺れた。
「後方に敵影ーー!!」
兵が駆け出す。
趙雲の中央軍は囮。
本命は――背面奇襲。
司馬懿が小さく呟く。
「蜀、二段構え……。」
◆
僕は叫んだ。
「郭淮隊は背面へ! 曹真隊は城外へ出て趙雲を止めろ!」
部隊が駆け出す。
空気が震える。
敵は強い。
魏は揺れている。
状況は厳しい。
だが――ここは勝負所。
僕は深呼吸し、司馬懿へ向き直る。
「ここで退けば、潼関は落ちます。」
「退く気は毛頭ない。」
「では――」
「翔国、好きにやれ。」
司馬懿が笑った。
心が熱くなる。
◆
僕は叫んだ。
「伝令! 本陣後方山道へ魏兵を展開! 蜀軍を挟み撃ちにする!」
「了解!」
風が強まり、旗がはためく。
趙雲軍が城壁を射程に捉える。
馬蹄が大地を叩き続ける。
いよいよ、潼関正面戦が始まろうとしていた。
僕は深く息を吸い、心に言い聞かせた。
――絶対に、潼関を守る。
――そのためにここへ来た。
その決意を胸に、僕は高く声を上げた。
「魏軍、前へ!!!」
兵が走り出す。
怒号、太鼓、風、砂塵――全てが混じり合う。
戦が始まった。




