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第九巻潼関の戦い其の四

夜が明けきる直前、潼関の空は深い藍色に沈んでいた。

 星は霞み、風は冷たく、兵の息が白く揺れる。


 僕は天幕の前に立ち、遠くの北砦を見つめていた。

 闇に包まれた砦は、まるで息を潜めている獣のようだ。


 ――今、この静寂に全てが懸かっている。


「翔国殿、北砦方向に動きあり!」


 見張り台から声が届く。

 全員が息を呑んで耳を澄ませた。


 暗闇の向こうから――狼煙が上がった。


 白い煙が空へ向かってゆっくりと伸びていく。


「……成功、した。」


 思わず声が震えた。


 魏軍だけでなく、周囲の景色そのものが息を吹き返したように見えた。


「北砦奪還! 蜀軍後退!」


 天幕へ飛び込んできた伝令の声は、明るく力強かった。


 曹真が大きく笑い、司馬懿も眼を細める。


「やったぞ、翔国殿!」


「いや――まだ勝ちは遠い。」


 僕は煙を見つめながら静かに言った。


「蜀は北砦を奪われる前提で次の策を打っている。」



 昼頃、北砦帰還部隊の報告が届く。


 郭淮が馬を降り、兜を外し、笑みを浮かべた。

「奪ってきたぞ!」


「敵の抵抗は?」


「思ったより薄かった。」


 司馬懿が低く言う。

「やはり、蜀軍は北砦を餌にした。」


「ええ。」


 僕は息を吸い、地図を広げた。


 潼関の真北――

 蜀軍が散開した痕跡。


 郭淮は眉をひそめる。

「どう思う?」


「蜀の狙いは次。」


 僕は地図の中央を指した。


「――潼関本陣、正面崩し。」


「正面から?蜀は回り込む軍では?」


「ええ。だからこそ今回、逆を突く。」


 司馬懿が静かに頷く。

「中央突破戦か。」


 これは、潼関でもっとも危険な攻め方。


 しかし、情報戦で揺らいだ兵を束ねるには――

 真正面の勝利こそ効果がある。



 その時――大地が震えた。

 揺れた。


 太鼓が鳴り響く。


「敵襲ッ!!!」


 叫び声が潼関に走る。


 僕らは城壁へ駆け上がった。


 地平線――その彼方から蜀軍が迫っていた。


 緑の旗が揺れ、槍が列を成し、太鼓が地響きを生む。


 先頭――趙雲。


 その姿が霧の向こうに鋭く浮かび上がる。


「趙雲……来たか。」


 その隣に姜維。

 さらに馬謖らが続き、知と胆の軍勢が迫る。


 司馬懿が腕を組む。

「真っ向勝負を挑んできたか。」


「違う。」


 僕は頭を振る。


「これは、真っ向勝負に見せた――心理攻撃。」


「心理攻撃?」


「本当に狙うのは、中央ではない。」


 言い切った瞬間――


 陣後方が揺れた。


「後方に敵影ーー!!」


 兵が駆け出す。


 趙雲の中央軍は囮。


 本命は――背面奇襲。


 司馬懿が小さく呟く。

「蜀、二段構え……。」



 僕は叫んだ。

「郭淮隊は背面へ! 曹真隊は城外へ出て趙雲を止めろ!」


 部隊が駆け出す。

 空気が震える。


 敵は強い。

 魏は揺れている。

 状況は厳しい。


 だが――ここは勝負所。


 僕は深呼吸し、司馬懿へ向き直る。


「ここで退けば、潼関は落ちます。」


「退く気は毛頭ない。」


「では――」


「翔国、好きにやれ。」


 司馬懿が笑った。


 心が熱くなる。



 僕は叫んだ。

「伝令! 本陣後方山道へ魏兵を展開! 蜀軍を挟み撃ちにする!」


「了解!」


 風が強まり、旗がはためく。


 趙雲軍が城壁を射程に捉える。

 馬蹄が大地を叩き続ける。


 いよいよ、潼関正面戦が始まろうとしていた。


 僕は深く息を吸い、心に言い聞かせた。


――絶対に、潼関を守る。

――そのためにここへ来た。


 その決意を胸に、僕は高く声を上げた。


「魏軍、前へ!!!」


 兵が走り出す。


 怒号、太鼓、風、砂塵――全てが混じり合う。


 戦が始まった。

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