第一巻銭湯で転んだら魏国にいた
人生というものは、不思議だと思う。
朝起きて会社へ行き、数字や言葉と向き合って、帰り道にコンビニへ寄る。
昨日と同じように今日があって、今日と同じように明日が来る。
――そう信じていた。
けれど、あの日。
湯気がぼんやりと漂う銭湯で、湯船を上がろうとしたとき、僕の足は滑った。
そして、世界は音もなく途切れた。
目を覚ますと、空は見知らぬ青。
砂埃の向こうから馬のいななきが響き、鎧に身を包んだ兵士たちが、僕を「軍師」と呼んだ。
どうして僕がここにいるのか。
どうして軍師なのか。
どうして、歴史の本でしか知らない時代に立っているのか。
その理由を、僕自身もまだ知らない。
ただひとつだけ言えることは――
銭湯で転んだ普通のサラリーマンは、魏の軍師として生きることになった。
これは、その記録だ。
湯けむりの世界から、乾いた風の世界へ。
そんな馬鹿みたいな変化が、この身に訪れるとは思ってもみなかった。
最初に聞いたのは、怒号だった。
遠くから響く、荒々しい指示の声。
次に見えたのは、視界いっぱいに広がる荒野。
その灰色の地平線を、僕はただ呆然と眺めていた。
「翔国様! お気づきになられましたか!」
声が耳に突き刺さる。
翔国? 誰だそれは。
けれど、振り返れば兵士が跪き、僕を崇めるように見つめている。
混乱より先に、笑いそうになった。
どう考えても、状況が現実離れしている。
自分の手足を確認すれば、見覚えのない衣服。
肩に重い布が乗り、腰には書板のような道具がぶら下がっていた。
水面に顔を近づけて映る影は――
間違いなく僕だった。
冗談みたいな世界で、冗談みたいに冷静な自分がいる。
「落ちつけ田中翔太。まずは状況整理だ。」
口に出した瞬間、兵士たちはさらに敬意を深めたらしい。
その後、僕は初めて命令らしいことを口にした。
追われている味方がいると聞き、反射で口が動いた。
とにかく落ちつけ。
会社の案件だと思え。
情報を整理し、答えを出せ――
「相手が勢いで攻め込んでいるなら、こちらは回り込め。
……奇襲で包囲すれば勝てる。」
その提案が通り、兵士たちは走り出していった。
――それが勝利に終わったと知ったとき。
僕の胸に広がったのは、誇りでも喜びでもない。
ただひとつ。
ここで生きていけるかもしれない、という予感だった。
でも同時に理解していた。
この時代は、きっと甘くない。
勝てば英雄、負ければ命はない。
歴史知識があるからといって、未来が分かるとは限らない。
だからこそ、僕は今日から記録を書こうと思う。
自分が誰で、何を選び、どこへ向かうのか――
銭湯帰りの普通の男が、魏の軍師として生きた物語を。




