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読書感想文と君

作者: 伊阪証
掲載日:2025/12/10

作品の前にお知らせ


下記リンクに今後の計画のざっくりした概要が書いてあります。余命宣告の話もあるのでショッキングなのがダメなら見ないことを推奨します。

あと表紙はアルファポリスとpixiv、Noteでは公開してます。


https://note.com/isakaakasi/n/n8e289543a069


他の記事では画像生成の詳細やVtuberを簡単に使えるサブスクの開発予定などもあります。

また、現時点で完結した20作品程度を単発で投稿、毎日二本完結させつつ連載を整備します。どの時間帯とか探しながら投稿しているのでフォローとかしてくれないと次来たかが分かりにくいのでよろしくお願いします。

今年の終わりにかけて「列聖」「殉教」「ロンギヌス」のSFを終わらせる準備をしています。というかロンギヌスに関しては投稿してたり。量が多くて継承物語は手間取っていて他はその余波で関連してるKSとかEoFとかが進んではいるけど投稿するには不十分とまだ出来てない状態です。

タイトル

読書感想文と君

英題

Bad Blank Beyond


タグ

#読書感想文 #図書室 #不良男子 #図書委員女子 #すれ違い #会話未満 #言葉にできない関係 #青春 #人間ドラマ #恋愛未満


あらすじ

図書委員の篠原は、他人の感情を「分析して整える」ことでしか向き合えない少女だった。

そんな彼女の前に、読書感想文を依頼しに来たのは──

学校中で怖れられる不良・高城。


代筆として始まった関係は、

「書けるのに書けない」

「読めるのに理解できない」

という矛盾を抱えたまま、互いの心の奥へ踏み込んでいく。


高城は言う。

『俺を“読んでる”だけで、俺とは話してねぇだろ』


分析で守ってきた篠原の世界が揺らぎ、

言葉にしなければ近づけず、

言葉にすると壊れてしまう──

そんな距離で二人は少しずつ歩み寄っていく。


これは、

“読めない相手”と、

“書けなくなった自分”が出会った、

静かで切実な読書感想文の物語。


本編


放課後の図書室は、湿度を剥ぎ取られた人工的な涼しさで満たされていた。

天井の四隅に埋め込まれたエアコンが、低い唸りを上げている。その機械的な振動音が、並び立つ書架の壁に吸い込まれ、古い紙とインクの匂いに混ざって沈殿していた。

窓の外は七月の西日がアスファルトを焼き、運動部の掛け声が陽炎の向こうで揺らいでいる。ガラス一枚を隔てて、そこには暴力的なほどの夏があったが、この場所だけは時間が止まったように静謐だ。

貸出カウンターの内側で、篠原は手元の作業に没頭していた。

返却されたばかりのハードカバーの背を、アルコールを含ませた布で拭う。揮発性の薬品の匂いが鼻腔を突き、すぐに消える。指先に伝わるのは、不特定多数の指が残した微かな湿り気と、それを拭い去ったあとのさらりとした紙の冷たさだ。

一冊を終えるたび、彼女は小さく息を吐く。

誰かの読書という体験の残滓を消して、本を「ただの物体」に戻すこの作業が、篠原は嫌いではなかった。

作業の手を休め、カウンターの隅に置かれた自分だけの領分に目を落とす。

灰色の表紙をした、厚手のノート。

開かれたページには、黒いインクの文字が余白を埋め尽くすほどに密集していた。授業の板書ではない。昨日読んだ小説の構成分析、登場人物の相関図、あるいはすれ違った教師の口癖から推測される家庭環境の考察。

文字の列は整然としていて、乱れがない。

現実の人間関係や感情は、形がなくて掴みどころがなく、すぐに指の隙間からこぼれ落ちる。けれど、こうして文字という規格に押し込め、インクで定着させてしまえば、それは管理可能な標本に変わる。

篠原にとって、書くことは呼吸の次に必要な代謝機能だった。

ペンを指で回し、次の行に何を書き足そうかと思考を巡らせたとき、その静寂が物理的に揺らされた。

足音だ。

図書室にやってくる生徒の多くは、ここが音を立ててはいけない場所であることを知っている。だから、床を擦るような、遠慮がちな歩調を選ぶ。

だが、近づいてくるその音は違っていた。

踵から体重を床に叩きつけるような、重く、鈍い響き。ゴム底がリノリウムの床を無造作に踏みしめる音が、書架の迷路を抜けて一直線にカウンターへ向かってくる。

篠原は反射的にノートを閉じ、顔を上げた。

視界に入ってきたのは、白いシャツの胸元をだらしなく開いた男子生徒だった。

高城だ。

学年でその名を知らない者はいない。素行不良、授業態度怠慢、教師への反抗。生徒指導室の常連であり、廊下ですれ違うだけで下級生が道を空けるような存在。

身長は高く、見上げるような威圧感がある。前髪は長く伸びて目元にかかっているが、その隙間から覗く瞳は、硝子細工のように透き通って鋭い。威圧感の中に、不釣り合いなほど整った顔立ちが隠されていた。

どう見ても、活字の森には似つかわしくない異物だ。

篠原は、無意識にカウンターの下で指を組み合わせた。

「貸出ですか」

極力、事務的な声を出す。感情の揺らぎを悟られないように、あえて視線を彼の喉元あたりに固定した。

「いや」

返ってきた声は低く、変声期を過ぎて久しい男の太さを持っていた。

高城はカウンターの縁に片手をつく。体重をかけられた木製の天板が、微かに軋んだ。

彼はそのままポケットを探ると、くしゃりと折れ曲がった茶封筒を取り出し、カウンターの上に放った。

カサ、と乾いた音がして、封筒が滑る。

中身が入っていることによる、確かな質量と摩擦音がそこにあった。

「頼みたいことがある」

篠原は封筒と、高城の顔を交互に見た。

「あの、ここは図書室で、私は図書委員です。金銭のやり取りは規則で禁止されていますし……」

「カツアゲじゃねえよ」

高城は鼻で笑った。笑うと、目元の鋭さが消えて年相応の幼さが覗く。そこには暴力の匂いというよりは、面倒な手続きを一切合切省略したいという焦燥感のようなものが混じっていた。

「仕事の依頼だ。それ、前払い」

仕事。

その単語と、目の前の不良生徒が結びつかない。篠原が眉をひそめると、高城はもう一方の手で鞄の底から一冊の文庫本を抜き出した。

それは、周囲の古びた本たちとは明らかに異質な輝きを放っていた。

パステルカラーのピンクと水色が混ざり合う装丁。可愛らしいイラストの少女が、切なげに空を見上げている。帯には『初恋は、二度殺される』『全米が泣いた』といった、砂糖菓子のように甘ったるく、それでいて不穏な煽り文句が踊っていた。

恋愛小説。

篠原が最も苦手とし、あえて遠ざけているジャンルだ。

論理よりも感情が優先され、解決しない問いを抱えたまま右往左往する人間たちの記録。読んでいるだけで胸焼けがするそれを、高城の太い指が摘んでいる光景は、悪い冗談のようだった。

「これの読書感想文、書け」

あまりに直球な要求に、篠原は数秒、言葉を失った。

「……読書感想文は、提出自由の課題ですけど」

「知ってる」

「なら、出さなければいいだけでは?」

「出さなきゃなんねえ事情があんだよ」

高城は苛立ったように髪をかき上げた。

「とにかく、俺には無理だ。こういうの読んでると、頭ん中がぐちゃぐちゃになって、何一つ言葉が出てこねえ」

彼は本をカウンターに押し出し、指先で表紙を叩いた。

「お前、得意なんだろ。こういうの」

視線が、篠原の手元にある灰色のノートに向けられる。

心臓が、とくんと跳ねた。

誰にも見せていないはずの中身を、見透かされたような感覚。

篠原は封筒に視線を落とした。

中身は見えない。だが、紙の膨らみ具合と、カウンターに落ちたときの音の重みからして、硬貨ではない。紙幣が複数枚、あるいはそれ以上か。

脳裏に、今朝の食卓の風景がフラッシュバックする。

冷蔵庫に貼られた督促状。母親の疲れた溜息。自分の参考書を買いたいと言えずに飲み込んだ瞬間。

金に弱い。

それは自分の卑しさだろうか。それとも、生存本能だろうか。

指先が微かに震えるのを、カウンターの下で強く握りしめて止める。

「……学校には、絶対に言わないでください」

喉から絞り出した声は、ひどく掠れていた。

「これは、あくまであなたの感想です。私は、その手伝いをするだけ」

高城の表情が、わずかに緩んだ。

「分かってる。口は堅いほうだ」

「期限は?」

「夏休み明け。初日に出す」

篠原は、封筒の上にそっと手を重ねた。

ざらついた紙の感触越しに、現実の重みが掌に伝わる。それは冷房の効いた図書室の空気よりも、ずっと生々しく熱を帯びているように感じられた。

代筆という不正。

恋愛小説という苦手分野。

そして、目の前の不良生徒との秘密の共有。

どれもが篠原の平穏なルーティンを破壊する要素だったが、掌の下にある「生活費」という現実は、それらすべてをねじ伏せる力を持っていた。

「引き受けます」

彼女が告げると、高城は「頼んだぞ」と短く言い捨て、踵を返した。

再び、ドス、ドスと重たい足音が遠ざかっていく。

扉が開閉し、彼がいなくなったあとの図書室には、再び静寂が戻ってきた。

だが、その静けさは先ほどまでとは変質していた。

カウンターの上に残されたのは、パステルカラーの恋愛小説と、厚みのある茶封筒、そして自分のノート。

篠原はノートを開く気になれなかった。

いつもならすぐにペンを走らせて今の出来事を記録し、感情を整理するところだ。けれど、今はまだ、その封筒の重さを言語化するのが怖かった。

ただ、甘い装丁の文庫本だけが、異物のように蛍光灯の光を反射していた。

夜の自室は、白い蛍光灯のハム音と、窓の外から滲む虫の声で満たされていた。

机の上の時計は二十二時を回っている。

湿度を含んだ風が網戸越しに入り込み、カーテンの裾を緩く揺らしていた。

篠原は学習机に向かい、背筋を伸ばして座っていた。

目の前には三つの物体が並んでいる。

パステルカラーの恋愛小説。

まだ一行も書かれていない読書感想文用の原稿用紙。

そして、昼間に高城から渡された茶封筒だ。

篠原は、封筒の上にそっと手を置いた。

糊付けされた口は、まだ開けていない。

指の腹で表面をなぞると、中に入っている紙幣の段差が伝わってくる。その厚みは、彼女のアルバイトの一ヶ月分に相当するだろうか。あるいは、もっと多いかもしれない。

これを開けて中身を数えてしまえば、それは確定した「取引」になる。

生活費の足しになるという安堵と、道徳的な後ろめたさが、天秤の両端で揺れていた。

篠原は数秒間、その重さを掌で味わってから、あえて封筒を机の隅へと追いやった。

今はまだ、見ない。

仕事を完遂してからでなければ、その対価に触れてはいけない気がしたからだ。

代わりに、彼女は文庫本を手に取った。

表紙の少女のイラストと目が合う。

ページをめくる。紙の手触りは柔らかく、何度も読み返されたせいで開き癖がついていた。

物語は、主人公の独白から始まる。

『言葉にする前の恋だけが、誰の指紋もついていない真実だ』

一行目を読んだ瞬間、篠原の眉がわずかに動いた。

(言わないままでいることを、正当化しているだけ)

そんな冷めた感想が、反射的に脳裏をよぎる。

読み進めていくうちに、その違和感は強まった。登場人物たちは皆、感情豊かで、傷つきやすく、そして驚くほど非効率的だ。

すれ違い、誤解し、察してほしいと願いながら沈黙する。

現実の人間関係もそうだ。形がなく、予測がつかず、触れれば火傷をするような熱を持っている。だから篠原は、生身の人間と深く関わるのが苦手だった。

けれど、本ならば違う。

彼女は視線をページから外し、傍らに置いていた灰色のノートを引き寄せた。

シャープペンシルを握る。

ここからが、彼女にとっての本当の「読書」だった。

――第五ページ、主人公の沈黙。これは拒絶ではなく、好意の裏返し。

――第十ページ、窓の外を見る動作。相手の視線から逃げるための防衛反応。

さらさらと、芯が紙を走る音が部屋に響く。

彼女は物語の中に渦巻く混沌とした感情を、一つずつピンセットで摘み上げるように取り出し、解体し、ノートという標本箱に並べていった。

「悲しみ」という曖昧な言葉を、「過去への執着」と「未来への不安」に分解する。

「怒り」を、「期待外れ」と「自己嫌悪」に仕分ける。

そうやって構造を明らかにしてしまえば、どんなに激しい感情も、恐れるに足らない理屈の塊に変わる。

篠原にとって、それは混沌とした世界を整理整頓する、至福の時間だった。

不可解な他人の心が、因数分解された数式のように綺麗に解ける快感。

ペンを動かす指先が軽くなる。

そのとき、机の上で携帯端末が短く震えた。

ブブッ、という無機質な振動音が、静寂にヒビを入れる。

篠原はペンを止め、画面をタップした。

メッセージアプリの通知欄に、短い文字列が浮かんでいる。

『読んでるか』

登録名はないが、送り主は明白だった。

高城だ。

続けて、もう一件。

『むずいか』

ひらがなだけの、幼さすら感じる文面。

昼間の、あの威圧的な態度とはまるで違う。

画面の向こうで、彼がスマートフォンを握りしめ、返信を待っている姿がなんとなく想像できた。

(感想文の進捗を気にしているだけ?)

それにしては、タイミングが早すぎる。まだ一日も経っていない。

まるで、自分の心臓を手術されている患者が、医師に様子を尋ねるような切迫感が、その短い文字から滲んでいた。

篠原は、なんと返すべきか迷った。

「簡単です」と答えれば、彼の悩みを軽んじることになる。「難しいです」と答えれば、能力を疑われるかもしれない。

彼女は無難な言葉を選んで打ち込んだ。

『少しずつ、読んでいます』

送信ボタンを押す。既読はすぐについた。

しばらく待ったが、返信はない。

画面が暗転し、自分の顔が黒いガラスに映り込む。

篠原は端末を伏せ、再びノートに向き合った。

しかし、ペン先は物語の解釈には戻らなかった。

代わりに、ページの余白に、ふと浮かんだ疑問を書き留めた。

『なぜ、高城はこの本を選んだのか』

彼のような粗暴な振る舞いをする人間が、なぜこんなにも繊細で、女々しいとさえ言える物語を「自分の代弁者」として選んだのか。

その乖離こそが、この依頼の最大の謎であり、解くべき構造だった。

篠原は、その一文の横に小さく「?」マークを書き添えた。

それは彼女が、高城という人間を、一人の男子生徒としてではなく、解読すべき難解なテキストとして認識した瞬間だった。

放課後の図書室には、気怠い西日が射し込んでいた。

六時間目の授業が終わってから三十分。生徒たちの波はすでに昇降口へと引いていき、残っているのは部活動へ向かう生徒の走る音と、遠くで吹奏楽部がチューニングをする不揃いな音だけだ。

篠原はカウンターの中で、一枚の紙と向き合っていた。

読書感想文の下書きだ。

鉛筆で丁寧に書かれた文字は、マス目の中心を正確に捉えている。誤字はない。論理の飛躍もない。

それは彼女にとって、完璧な「仕事」の成果だった。

誰かの感情を解体し、名前をつけ、理解可能な形に再構築する。その工程に間違いがないことを確認し、彼女は小さく息を吐いた。

達成感と同時に、指先には微かな冷えがある。

これを読んだ依頼人が、どんな顔をするか。その予測だけが、まだ空白のままだった。

その空白を埋めるように、扉が勢いよく開いた。

蝶番が軋む音とともに、高城が入ってくる。

相変わらず第一ボタンは外され、ネクタイは緩い。制汗スプレーの人工的なシトラスの匂いが、古い本の匂いを掻き分けるように漂ってきた。

彼は一直線にカウンターへ向かってくる。

「よう」

短く投げられた声は、昨日のメッセージのような迷いを含んでいなかった。

篠原は、手元の用紙をカウンターの上に滑らせた。

「来てたんですね。……これ、下書きです」

高城の視線が、紙の上に落ちる。

彼は椅子に座ろうともせず、立ったまま用紙を取り上げた。

「読むのか?」

「確認してもらわないと、清書できませんから」

高城は面倒そうに鼻を鳴らしたが、その目はすぐに文字の列を追い始めた。

図書室の時計の針が、カチ、コチ、と乾燥した音を刻む。

西日が彼の横顔に陰影を作っていた。

最初は無造作だった紙を持つ指に、徐々に力が籠もっていく。親指が紙の縁を強く押し、そこを中心にして用紙がわずかにたわんだ。

眉間に、深い谷が刻まれる。

視線が一行進むたびに、彼の呼吸が浅くなっているのが分かった。

(気に入らない?)

篠原は、カウンターの下で手を組んだ。

文章の内容には自信があった。主人公がヒロインに対して抱く「言葉にできないもどかしさ」を、「自己防衛のための沈黙」と定義し、その裏にある臆病さを指摘した箇所だ。

それは物語の構造として正解のはずだ。

やがて、高城の手が止まった。

最後の行まで読み終えたわけではない。途中の、ある一文で視線が凍りついている。

「……なんだよ、これ」

漏れ出た声は、怒りというよりも、戸惑いに近かった。

「読みづらかったですか」

「そういうことじゃねえ」

高城は顔を上げず、紙を睨みつけたまま言った。

「こういう……なんか、こういう話じゃねえだろ」

語彙を探すように、彼は言葉を濁す。

「主人公は、もっとこう……うじうじしてて、必死で」

「ええ。ですから、その『うじうじ』の正体を書きました」

篠原は、努めて冷静に説明を加えた。

「彼は言葉にするのを怖がっているんです。言った瞬間に拒絶されるのが怖いから、あえて曖昧な態度を取って、相手に察してもらおうとしている。それは優しさではなく、自分が傷つかないための――」

「逃げ、とかじゃなくてさ」

高城が、強い口調で遮った。

彼は顔を上げ、篠原を睨んだ。その瞳には、焦燥と、ある種の嫌悪感が揺れている。

「お前さ、こいつのこと、馬鹿にしてんだろ」

不意に投げられた言葉に、篠原の思考が止まった。

「……はい?」

「合ってんのかもしんねぇけどさ。なんか……カエルの解剖見てるみてぇで、気持ち悪ぃわ」

高城は用紙をカウンターに放った。

バサリ、と乾いた音が響く。

「『分析』とか言ってっけど、お前、ただ上から眺めてるだけじゃねえか。切って開いて、中身出して、それで分かった気になってるだけだろ」

心臓が、早鐘を打った。

図星だったわけではない。篠原にとって分析は、対象への理解であり、敬意ですらある。

けれど、高城の言葉は、彼女が築き上げてきた「観察者」としての安全地帯を、土足で踏み荒らすような暴力性を持っていた。

論理ではなく、生理的な拒絶。

「気持ち悪い」というシンプルな言葉が、どんな批判よりも鋭く突き刺さる。

「……これは、本の感想です」

声を硬くして言い返すのが精一杯だった。

「私の主観は入っていません」

「入ってねえからだよ」

高城は、吐き捨てるように言った。

それから、乱暴に用紙を掴み、四つ折りにする。

折り目は雑で、角が少しずれていた。

「とりあえず、持ってく。家でまた読む」

そう言った彼の声には、先ほどまでの勢いはなく、どこか疲れのような色が混じっていた。

自分の善意を「悪意」として受け取られた不快感と、それを否定しきれない本能的な動揺。

高城が感じているであろうその「モヤモヤ」が、空気感染したように篠原の胸にも広がった。

「……修正が必要なら、言ってください」

「ああ」

高城は背を向けた。

その背中は、最初に来たときよりも拒絶の壁を厚くしているように見えた。

遠ざかる足音が、図書室の静寂に吸い込まれていく。

篠原は一人、カウンターの中に残された。

西日はさらに傾き、本棚の影が彼女の足元まで伸びていた。

「カエルの解剖」

その言葉が、耳の奥で微かな耳鳴りのように残り続けていた。彼女は無意識に、自分の灰色のノートに手を伸ばし、そして触れる直前で指を止めた。

今、何かを書こうとすれば、それこそが彼を切り刻む行為になってしまう気がしたからだ。

翌日の放課後、空は分厚い雲に覆われていた。

湿度を含んだ風が窓の隙間から入り込み、図書室の空気を重くしている。昨日までの突き刺すような日差しはなく、代わりに世界全体がグレーのフィルターを通したように鈍い色をしていた。

篠原は、カウンターの中で返却本のバーコードを読み取っていた。

機械的な電子音が、一定のリズムで静寂を刻む。

ピ、という音が鳴るたびに、昨日の高城の顔がフラッシュバックした。

『お前の話だろ』

その言葉が、まだ耳の奥で微弱なノイズとして残り続けている。

作業をする手は動いていたが、思考は霧の中にあった。

もし、彼が気に入らなかったらどうしよう。修正案はいくつか考えてある。もっと一般的な、当たり障りのない感想文に書き換えることは簡単だ。そうすれば、あの鋭い視線に射抜かれることもなくなる。

自動ドアが開く音がした。

反射的に顔を上げると、そこに高城がいた。

いつものように制服を着崩しているが、今日はどこか様子が違う。

肩で風を切るような歩き方ではなく、何か重たいものを引きずるような足取りだった。

視線が合う。

彼は無言のまま、カウンターの前まで歩いてきた。

その距離がゼロになるまでの数秒間、篠原は呼吸をするのを忘れた。

高城は、ポケットから折り畳まれた紙を取り出した。

昨日渡した、読書感想文の下書きだ。

四つ折りにされた紙は、昨日よりもくたびれて見えた。何度も開いては閉じ、また開いては閉じたのだろうか。角が丸くなり、手脂で少し汚れている。

彼はその紙を、カウンターの上ではなく、篠原の目の前に突き出した。

けれど、手放そうとはしない。

指先が震えているように見えた。

唇が動き、何かを言いかけては閉じる。

喉仏が上下し、言葉を探して彷徨っている。

図書室の空気が、張り詰めた糸のように軋んだ。

「……もう」

ようやく絞り出された声は、ひどく掠れていた。

「これ、やめろ」

短く、断定的な一言だった。

篠原の思考が、一瞬停止した。

やめろ。

その三文字が意味する範囲を測りかねて、彼女は瞬きを繰り返した。

「……出来が、悪かったですか」

恐る恐る尋ねる。

「それとも、学校に見つかるのが危険だと判断したなら……」

「違げぇよ」

高城は首を振った。焦燥感が、その動作の端々に滲んでいる。

「文章がどうとか、金がどうとか、そういう話じゃねえ」

彼は突き出していた紙を、篠原の手元に押し付けた。

受け取らざるを得ない。

指先が触れ合うと、彼の体温が紙越しに伝わってきた。それは驚くほど熱かった。

「俺のこと、本の中みたいにきれいに並べるの、もういいから」

高城は、まるで窮屈な檻を見るような、あるいは哀しいものを見るような目で、自分の渡した紙を見た。

「なんか……やだ。これ」

彼の語彙は、そこで限界を迎えたようだった。

嫌だ。

その幼児のような拒絶の言葉が、どんな論理的な批判よりも深く、篠原の胸に突き刺さった。

分析が間違っていたわけではない。文章が下手だったわけでもない。

ただ、生理的に受け付けないと言われたのだ。

彼女が得意とし、唯一の武器だと思っていた「観察と分解」のスキルが、彼にとっては不快な解剖実験でしかなかったということだ。

「……お金は、返します」

篠原は、震える声でそう告げた。

それが、彼女にできる精一杯の誠意だった。

しかし、高城はそれには答えなかった。

「もう、いい」

吐き捨てるように言い残し、彼は背を向けた。

その背中は逃げるように早足で、一度も振り返ることなく出口へと向かっていく。

自動ドアが開き、彼が廊下の向こうへと消えていく。

その隙間から、湿った風が吹き込んできて、カウンターの上の紙を揺らした。

篠原は、手の中に残された紙を見下ろした。

四つ折りの原稿用紙。

そこには、彼女が精魂込めて書いた「正解」の文章が並んでいるはずだった。

けれど今、それはただの紙切れに見えた。

紙に残る折り目の深さが、彼がどれだけこれを読み、どれだけ葛藤したかを物語っている。

汗の跡が滲んで、文字の一部が少し歪んでいた。

(やだ、これ)

高城の声がリフレインする。

篠原は紙を握りしめた。

くしゃり、と乾いた音がして、胸の奥で何かがきしむ音がした。

拒絶された。

その事実だけが、灰色の空のように重く、彼女の上にのしかかっていた。

昼休みの教室は、動物園の檻をすべて開放したような騒々しさに満ちていた。

机を乱雑に寄せ集めた島があちこちにでき、ビニール袋を破る音や、箸が弁当箱に当たる音が不協和音となって反響している。

窓から差し込む真昼の光は遠慮がなく、床の埃まで白日の下に晒していた。

篠原は自分の席で、友人たちが広げたファッション誌のページを眺めるふりをしていた。

視界の端には、黒板の脇にマグネットで貼り付けられたプリントが見える。

『夏季休業課題一覧』

その一番下に、「読書感想文(任意)」という文字が小さく記載されていた。

「ねえ、感想文やる?」

向かいの席で紙パックの紅茶を飲んでいた女子生徒が、ストローを噛みながら言った。

「やるわけないじゃん。任意だよ、任意」

隣の子が即答する。

「てか、このクソ暑いのに活字とか読むの無理。目が滑って寝る自信あるわ」

「だよねー。出したやつには内申点プラスとかあればいいのに」

軽い笑いが起きる。

教室の中では、読書感想文という課題は、蝉の抜け殻ほどの重さも持っていなかった。

やってもやらなくてもいい、暇つぶしか、あるいは物好きのための余興。

篠原は、机の中に隠している茶封筒の感触を思い出した。

あの封筒に入っている金額は、彼女たちの言う「余興」に支払われる額ではない。

高城は、クラスの誰もが見向きもしないこの「任意」の課題に、自身の財布を削り、わざわざ他人を雇ってまで挑もうとした。

それなのに。

『なんか……やだ。これ』

昨日の図書室での拒絶が、不意に蘇る。

四つ折りにされた原稿用紙のくたびれた姿と、高城の苦渋に満ちた表情。

篠原は無意識に唇を噛んだ。

周囲の軽薄な空気と、高城が見せた異常な執着との温度差が、彼女を混乱させていた。

そんなに嫌なら、最初から頼まなければよかったのだ。

あるいは、みんなと同じように「出さない」という選択をすればよかったはずだ。

なぜ、彼はあそこまでして書こうとし、そして書かれたものを拒絶したのか。

「そういえばさ」

紅茶の女子生徒が、思い出したように視線を篠原に向けた。

「篠原、こないだ図書室で高城と話してなかった?」

心臓が跳ねた。

篠原は雑誌のページをめくる手を止め、顔を上げる。

「……え?」

「見たよ、私。なんかカウンターで揉めてるっぽかったけど」

その一言で、周囲の空気が一変した。

好奇心という名の無邪気な熱が、篠原に集まる。

「うわ、マジ? あの高城?」

「カツアゲ? 大丈夫だった?」

「ていうか、高城が図書室とか行くんだ。本なんか絶対読まない顔してるのに」

きゃはは、と乾いた笑い声が弾けた。

彼女たちにとって、高城は「怖い不良」であると同時に、「自分たちとは違う世界の住人」という安全な嘲笑の対象でもある。

本なんて読まない。

繊細な感情なんて持っていない。

そんな決めつけが、教室の空気を支配している。

篠原の脳裏に、あのパステルカラーの恋愛小説を真剣な目つきでめくっていた高城の指先が浮かんだ。

そして、汗で滲んだ原稿用紙の折り目も。

彼がどれだけあの文章を読み込んでいたか、ここにいる誰も知らない。

「……カツアゲじゃないよ」

篠原は、喉の渇きを覚えながら答えた。

「貸出の手続きで、ちょっと手間取っただけ。本を探してたみたいだから」

「ふーん。意外」

「間違えて入っちゃったんじゃない?」

友人たちはすぐに興味を失い、またファッション誌の話題に戻っていった。

篠原だけが、取り残されたように席に座っていた。

周囲の喧騒が、遠くの波音のように聞こえる。

(やっぱり、私は間違っていた)

胸の奥で、黒い澱のような感情が渦巻く。

クラスのみんなが言う通り、彼は本なんて読む柄じゃないのかもしれない――そんな逃げ道は、彼女自身の記憶が塞いでいた。

彼は読んだのだ。嫌になるほど、あの紙を読み返していた。

読んだ上で、拒絶した。

私が自信を持って提示した「分析」を、彼は生理的に受け付けなかった。

図星を突かれたからではない。おそらく、私の解釈そのものが、彼にとっては雑音でしかなかったのだ。

「提出自由」の文字が、視界の端で白々しく光っている。

誰も気にしない課題。

誰にも評価されない文章。

それなのに、あの拒絶の手触りだけが、いつまでも熱を持って掌に残っていた。

昼休みの終了を告げる予鈴が鳴った。

友人たちが席を戻していく中で、篠原は一度だけ小さくため息をつき、机の中の灰色のノートに指を触れた。

いつもなら、このモヤモヤもすぐに文章にして分解してしまう。

けれど今日は、そのノートを開くことすら、何かいけないことのような気がして、彼女は手を引っ込めた。

放課後の図書室は、雨上がりの湿った匂いが立ち込めていた。

窓ガラスには細かい水滴が張り付き、外の景色をぼんやりと歪ませている。

篠原はカウンターの内側で、灰色のノートを広げていた。

その横には、昨日突き返された四つ折りの原稿用紙がある。

彼女は、シャーペンを強く握りしめ、ノートのページに新しい文章を書き連ねていた。

「言葉にできない焦り」を削除し、「素直になれない若さ」へ。

「臆病な自己防衛」を線で消し、「照れ隠しの沈黙」へ書き換える。

鋭すぎた分析の角を削り、誰が読んでも傷つかない、丸く当たり障りのない表現へと研磨していく作業。それはまるで、いびつな形の石を川底で転がして、特徴のないただの石ころに変えるような虚しさを伴っていた。

それでも、篠原の手は止まらなかった。

これは仕事だ。

クライアントが不快感を示したなら、仕様を変更して納品する。それが契約というものだ。

消しゴムのカスを掌で払ったとき、頭上から影が落ちた。

顔を上げると、高城が立っていた。

いつものように足音を響かせて入ってきたはずなのに、作業に集中していたせいで気づかなかった。

雨に降られたのだろうか。前髪が濡れて額に張り付き、頬を透明な雫が伝っている。

彼は、濡れたままの手でカウンターに体重をかけ、修正だらけの原稿用紙を見下ろしている。

その美しい双眸に、昨日見たときよりも深い、苛立ちの色が滲んでいた。

「……まだ、やってんのか」

低く唸るような声だった。

篠原は反射的にノートを手で隠そうとしたが、すぐに思い直して手を退けた。

「修正しています」

努めて事務的な口調を作る。声が震えないように、腹に力を入れた。

「昨日の内容は、少し踏み込みすぎていました。もっと一般的な、先生に見せても問題のない範囲に書き直していますから」

これでいいはずだ。

彼のプライバシーを侵害せず、かつ課題としての体裁を保つ。それが彼にとっても一番の解決策になる。

けれど、高城の表情は晴れるどころか、さらに曇った。

「そういうことじゃねえって、言ってんだろ」

「なら、どういうことですか」

篠原は、少しだけ語気を強めた。

「あなたは『書けない』って言いました。頭の中がぐちゃぐちゃになるから、代わりに書いてくれって。だから私は、ちゃんとした形にしようとして……」

「だから!」

高城が、カウンターの上に手を伸ばした。

篠原が握っていたシャーペンの上から、その大きな掌が覆いかぶさる。

ごつごつとした指の感触と、雨の冷たさが一気に伝わってきた。

驚いて顔を上げると、至近距離に高城の瞳があった。

「その『代わり』でなんとかしようとするのを、やめろっつってんだよ」

篠原の思考が、一瞬停止した。

代筆を頼んだのは彼だ。代わりを求めたのは彼のはずだ。

それなのに、なぜその行為そのものを否定されなければならないのか。

高城の手が、篠原の手ごとノートを押し潰している。その瞳には、言葉にならない焦燥と、怒りに似た熱が宿っている。

「俺がどう思ってるかとか、汚いとことか、そういうのを勝手に『きれいな文章』に書き換えて、それで解決したことにすんな」

「解決なんて……私はただ、課題を」

「違う」

彼は短く遮った。

そして、濡れた前髪の隙間から、射抜くような視線を向けた。

「それ、お前のためなんだろ」

心臓を、冷たい手で掴まれたような感覚がした。

「……え?」

「俺のためじゃねえ。お前が、そうやってきれいにまとめねえと落ち着かねえから、やってるだけじゃねえか」

図星だった。

金のためだけではない。

昨日の拒絶が理解できず、その「分からなさ」を解消するために、彼女は再び言葉という枠組みの中に彼を押し込めようとしていた。

理解不能な他者を、管理可能なテキストに変換して安心したい。

その臆病な本能を、この粗暴に見える男子生徒は、野生の勘だけで見抜いている。

「……なんか、むかつくんだよ。それ」

高城は、吐き捨てるように言った。

その「むかつく」という言葉は、篠原の人格に向けられたものではなく、彼女が握りしめている「文章という盾」に向けられているように聞こえた。

「もう、いい。それ以上、俺を勝手に書くな」

彼はそれだけ言い残すと、乱暴に手を離した。

踵を返し、足早に出口へと向かう。

遠ざかる背中は、拒絶の意思表示というよりは、何か得体の知れないものから逃げ出そうとしているように見えた。

篠原は、カウンターに取り残された。

手元には、修正途中のノートと原稿用紙。そして、彼が触れた場所に残る、雨の雫の跡。

「お前のためなんだろ」

その言葉が、鉛のように重くのしかかる。

仕事を否定されただけではない。

文章を書くという行為そのものが、自分のための卑怯な逃避であると突きつけられた気がして、篠原はペンを持つ手の力を失った。

雨の音が、窓の外で強くなっていた。

その雑音だけが、空っぽになった彼女の思考を埋めていった。

五時間目の終了を告げるチャイムが、けだるい午後の空気に溶けていった。

国語の授業が終わったあとの教室は、チョークの粉の匂いと、生徒たちの熱気が混ざり合っている。

教壇に立っていた国語教師の佐久間は、黒板消しで板書を消しながら、帰りの支度を始めた生徒たちに背中越しに声をかけた。

「あー、そうだ。課題の読書感想文だが」

ガタガタと椅子を引く音が、一瞬だけ止まる。

「任意だから無理に出せとは言わん。だが、ネットのあらすじを継ぎ接ぎしたようなのは、出すなよ。読んでてつまらんからな」

数人の男子生徒が「うげっ」と声を上げ、早々に教室を出て行った。

佐久間は苦笑して黒板に向き直る。

篠原は、教科書を鞄にしまいながら、その言葉を聞き流していた。

あらすじの継ぎ接ぎなど、素人のすることだ。自分はもっと深く、構造から解体して再構築する。

その自負が、胸の奥で小さく燻る。

鞄の留め具をパチンと鳴らして立ち上がろうとしたとき、教壇から名前を呼ばれた。

「篠原」

ビクリとして顔を上げる。

佐久間が、チョークで白くなった手を払いながらこちらを見ていた。

「お前、今年も書くのか」

周囲の視線が少しだけ集まる。篠原は小さく頷いた。

「はい。そのつもりです」

「そうか。去年の『こころ』の感想文、あれはよく書けていたな。構成も完璧だった」

教師からの評価は、いつも通りだ。

篠原は安堵し、軽く会釈をして通り過ぎようとした。

だが、佐久間は言葉を続けた。

「ただな、上手すぎるのも考えものだぞ」

篠原の足が止まる。

「……どういう意味でしょうか」

「文章が整いすぎていると、書き手の顔が見えなくなるってことだ」

佐久間は教卓に手をつき、教師としての顔ではなく、一人の読み手としての顔で篠原を見た。

「お前、誰のために書いてる?」

不意を突かれた問いだった。

「誰の……先生に提出するため、ですが」

「点数のためか? それとも、俺を感心させるためか?」

佐久間は首を横に振った。

「違うな。お前の文章は、読んでいる相手を見ていない。自分の中で完結して、自分が納得するためだけに言葉を並べているように見える」

ドキリとした。

心臓の奥を、細い針で刺されたような感覚。

『それ、お前のためなんだろ』

高城の言葉が、脳内で佐久間の言葉と重なった。

まったく違う立場の二人が、まるで申し合わせたかのように同じ箇所を指差している。

「自分の思考を整理するのは大事だ。だが、感想文ってのは本来、本を通した他者との対話だろ」

佐久間は、出席簿を脇に抱えた。

そして、篠原が強く抱え込んでいる鞄――その中にある灰色のノートを見透かすように言った。

「お前のは『対話』じゃなくて『独り言』だ。……綺麗な言葉で整頓された独り言ほど、他人を拒絶するもんはないぞ」

篠原は、返す言葉を持たなかった。

喉の奥に、乾いた塊がつかえている。

他者を拒絶する独り言。

その言葉が、今抱えている「代筆」という行為の矛盾を暴き立てる。

高城のために書いているつもりだった。彼が言葉にできない思いを、代わりに形にしてあげているつもりだった。

けれど、それは本当に彼のためだったのか。

彼という難解な素材を使って、自分がパズルを解いて楽しんでいただけではないのか。

「……期待してるぞ」

佐久間は篠原の沈黙を肯定と受け取ったのか、ポンと軽く肩を叩いて教室を出て行った。

篠原は、誰もいなくなった廊下に出た。

鞄の重さが、いつもよりずっしりと肩に食い込んでくる。

その中には、灰色のノートと、高城に突き返された原稿用紙が入っている。

「独り言」

廊下の窓から見える空は、昨日よりも高く、青かった。

その透明な青さが、今の篠原にはひどく遠いものに感じられた。

誰のために書くのか。

その問いへの答えは、まだ見つからないまま、彼女はノートが入った鞄を抱き直して歩き出した。

放課後の昇降口は、雨上がりの独特な匂いが立ち込めていた。

濡れたアスファルトが熱を帯びて蒸発していく匂いと、泥の混じった運動靴の匂い。

外はまだ雲が低く垂れ込めているが、西の空の一部だけが裂けたように明るく、そこから強い夕日が差し込んで、濡れた地面を乱反射させている。

篠原は上履きを脱ぎ、ローファーに履き替えた。

靴のかかとをトントンと地面に打ち付けていると、視界の端に影が落ちた。

下駄箱の金属製の支柱に、誰かが背中を預けている。

制服の着崩し方だけで、顔を見なくても誰だか分かった。

心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。

高城だ。

昨日の今日だ。また何か文句を言われるのだろうか。あるいは、手付金代わりの封筒を返せと催促に来たのか。

篠原は身構えながら、気づかないふりをして通り過ぎようとした。

「おい」

呼び止められる。声のトーンは、予想に反して低く落ち着いていた。

「……帰るのか」

篠原は足を止め、恐る恐る振り返った。

「はい。図書室も閉館時間ですから」

「ふうん」

高城は支柱から背中を離し、ポケットに手を突っ込んだまま歩き出した。

「じゃあ、途中まで」

その言葉の意味を理解するのに数秒かかった。

一緒にか。

拒絶されたり、怒鳴られたりすると思っていた相手が、当たり前のように隣を歩こうとしている。その距離感の不可解さに、篠原は目を丸くした。

「……怒ってないんですか」

「あ?」

「昨日、あんなに……」

「別に怒ってねえよ。ただ、嫌だって言っただけだ」

彼はぶっきらぼうに答え、先に立って歩き出した。

篠原は慌ててその後を追う。

校門へと続く並木道は、雨粒を纏った葉が夕日を弾いてきらきらと光っていた。

二人の靴音が、湿った地面の上で不規則に重なる。

会話はない。けれど、その沈黙は昨日のような張り詰めたものではなく、雨上がりの空気のように少しだけ緩んでいた。

不意に、高城の視線が篠原の鞄に向けられた。

口の開いた鞄から、灰色のノートの背表紙が覗いている。

「今日も、それ持ってるんだな」

篠原は咄嗟に鞄を抱き寄せ、手で蓋をするようにノートを隠した。

「……これがないと、落ち着かないので」

正直な言葉が口をついて出た。

言い訳めいているとは思ったが、事実だった。このノートがあれば、どんなに複雑な感情も、理解不能な他者も、すべて分解して整理できる。これは彼女にとって、世界と対峙するための唯一の武器であり、鎧だった。

高城は、呆れたような、それでいてどこか諦めたような顔をした。

「どんだけ頼ってんだよ、その紙切れに」

「紙切れじゃありません。私の記録です」

「記録ねぇ」

彼は鼻を鳴らし、少しの間、空を見上げた。

夕日が雲の切れ間から強く射し込み、彼の横顔を黄金色に染め上げる。

長い睫毛の影が頬に落ち、眩しそうに細められた瞳が、硝子玉のように透き通って光っていた。その横顔は、不真面目な不良とは到底思えないほど、綺麗で、静かだった。

「じゃあさ」

視線を戻さずに、彼が言った。

「いつか、一回でいいから、それ置いて来いよ」

篠原の足が止まった。

「……え?」

「ノートとか、感想文とか、そういうの一切なしで。手ぶらで話しに来いって言ってんの」

高城も足を止め、振り返った。

逆光を背負った彼の表情は影になっていて、よく見えない。けれど、その声は真っ直ぐに篠原に届いた。

「なんで、そんな条件を」

「その時は、ちゃんと聞いてやるから」

聞いてやる。

その言葉が、篠原の胸の奥に小さく響いた。

私の分析を? それとも、感想を?

いや、ノートなしで話すということは、分析も感想も存在しないということだ。なら、彼は何を聞くつもりなのか。

「……何を話せばいいのか、分かりません。準備なしでは」

「準備なんかいらねえよ」

高城は、少しだけ笑ったように見えた。

それは冷笑ではなく、迷子を諭すような、困ったような笑みだった。

「綺麗な言葉で誤魔化されるとさ……なんか、遠いんだよ。お前が」

ボソリと呟かれたその一言は、夕暮れの風に乗って、すぐに消えた。

けれど、篠原の耳には、どんな大声よりも鮮明に残った。

遠い。

自分は整理して近づこうとしていたつもりだった。正しく理解するために、言葉を尽くしていたつもりだった。

けれど彼には、それが「壁」に見えていたのだ。生身の自分を見せず、文字というフィルターを通してしか接してこない、卑怯な防壁として。

「じゃあな」

高城は片手を軽く上げ、校門の分かれ道で方向を変えた。

篠原はその場に立ち尽くしていた。

遠ざかる背中は、夕日に溶けて輪郭が曖昧になっていく。

鞄の中のノートが、急に重たく感じられた。

それを「置いていく」という選択肢など、今の今まで考えたこともなかった。

けれど、「置いてきたら聞いてやる」という約束が、妙に熱を持って胸に残っている。

雨上がりの湿気の中で、篠原は自分の鞄を強く握りしめた。

ノートを持たない自分の姿を想像しようとして、うまくいかずに首を振る。

ただ、夏休みが近づいている予感だけが、その背中を押している気がした。

夏休みに入って三日目の午前、篠原の部屋はうだるような暑さに包まれていた。

窓を開けても風はなく、代わりに油蝉の鳴き声だけが、粘り気のある空気と一緒に流れ込んでくる。

机の上には、いつものセットが広がっていた。

パステルカラーの恋愛小説。

まだ一行も埋まっていない、新しい読書感想文用紙。

そして、書き込みで膨れ上がった灰色のノート。

篠原はシャープペンシルを握り、真っ白な原稿用紙の上で手を止めていた。

ペン先が、紙から数ミリ浮いたところで凍りついている。

二の腕が汗で机に張り付き、動かそうとすると不快な音がした。

もう三十分、この状態だった。

いつもなら、こんなことはありえない。

彼女にとって文章を書くことは、呼吸をするように自然な循環作用だった。

本を読み、感情の構造を分解し、ノートに設計図を引き、それを清書する。そのルーティンは工場のように正確で、そこに迷いが入り込む余地などなかったはずだ。

けれど今日、最初の一文字目がどうしても決まらない。

「主人公の葛藤は」と書き出そうとすると、脳裏に高城の顔がちらつく。

『お前のためなんだろ』

『俺のこと、本の中みたいにきれいに並べるの、もういいから』

彼の低い声が、蝉の声に混じってリフレインする。

篠原は眉を寄せ、ペンを置き直した。

これは物語の感想だ。高城への私信ではない。彼の言葉など気にせず、ただテクニカルに、教師が喜びそうな分析を書けばいいだけだ。

そう自分に言い聞かせても、指先が言うことを聞かない。

「言葉にできない想い」と書けば、それが自分自身の「言えなさ」を指している気がして、胸がざわつく。

「すれ違い」と書けば、下駄箱での彼とのやり取りが重なって、思考が濁る。

何を書いても、そこには高城の影が落ちていた。

篠原は短く息を吐き、恋愛小説を裏返して伏せた。

この本がいけないのだ。

彼から渡されたという事実が、分析の邪魔をしている。

彼女は机の脇に積んであった、別の本を手に取った。夏休みの宿題用に借りておいた、海外の古典ミステリだ。

これなら感情移入などせず、トリックの構造だけを冷静に記述できるはずだ。

ページを開く。

活字を目で追う。

……頭に入ってこない。

文字の列が、ただの黒い模様に見える。

登場人物たちが誰を殺そうが、どんな密室を作ろうが、そこには何の熱も感じられなかった。

砂を噛むような味気なさ。

篠原は数ページでその本を閉じた。

本がつまらないのではない。自分のセンサーが壊れているのだ。

あの不器用で、乱暴で、でも妙に切実な高城の依頼以外、今の彼女の心は反応しなくなっている。

視線を机に戻す。

そこには、残酷な対比があった。

右側にある灰色のノートは、びっしりと黒い文字で埋め尽くされている。高城のこと、彼が選んだ本のこと、その分析、推測、迷い。膨大な思考の残骸がそこに堆積している。

けれど、左側の提出用紙は、雪原のように白いままだ。

たくさん書いているのに、何ひとつ書けていない。

自分の中にある言葉は、すべて誰かに見せるための整った形を失い、ただの泥のような感情の塊になってノートの中に閉じ込められている。

『いつか、一回でいいから、それ置いて来いよ』

高城の言葉が蘇る。

篠原は、無意識にノートの表紙を撫でた。

ざらりとした紙の感触。

これがなければ、自分は空っぽになってしまうと思っていた。

だが今、これを持っているせいで、自分はどこへも行けず、何も生み出せなくなっているのではないか。

そんな予感が、背筋を冷たく撫で上げた。

篠原はペンを机に置いた。

カタリ、と乾いた音がして、プラスチックの筒が白紙の上を転がっていく。

その転がる音だけが、静止した部屋の中でやけに大きく響いた。

夏休み中の登校日は、校舎全体が奇妙に静まり返っていた。

生徒の数がいつもの三分の一にも満たないせいか、廊下を歩く上履きの音が、やけに高く反響する。

窓の外では、入道雲が沸き立っていた。

篠原は昇降口の階段を上がりながら、肩にかけている鞄の軽さに、何度も意識を引き戻されていた。

今朝、家を出てバスに乗った瞬間に気づいたのだ。

いつもの灰色のノートが入っていないことに。

取りに戻ろうか迷ったが、図書委員会の集まりに遅れるわけにはいかない。今日は貸出業務もなく、ただの事務連絡だけだと言い聞かせて、そのまま来てしまった。

けれど、背中を守る甲羅を失ったような心もとなさは、学校に近づくにつれて増していく。

手持ち無沙汰な左手が、無意識にスカートのプリーツを握っては離す動作を繰り返していた。

二階へ続く踊り場で、上から降りてくる影と鉢合わせた。

重たい足音。

高城だった。

彼はまだ眠そうに目を擦りながら、気怠げに階段を降りてきていた。制服のシャツは相変わらずラフで、大きく開いた襟元から覗く鎖骨を、透明な汗が伝っている。

篠原の足が止まる。

逃げ場のない狭い階段の途中。

高城も彼女に気づき、足を止めた。

「……よう」

短い挨拶。

それだけで、篠原の心臓は早鐘を打った。

いつもなら、すぐに鞄を抱き寄せ、ノートの感触を確かめて心を落ち着かせるところだ。

だが今日、その動作は空を切る。

彼女の腕は、薄い鞄の感触だけを掬い上げ、行き場を失って宙を彷徨った。

高城の鋭い視線が、その不自然な挙動を見逃さなかった。

彼の目が、篠原の鞄の口元に向けられる。

いつもなら背表紙が覗いているはずの場所に、今日は何もない。

「……今日は、持ってねえんだな」

指摘された瞬間、篠原は小さく肩を跳ねさせた。

「わ、忘れただけです」

慌てて言い訳をする。

「寝坊して、確認する時間がなくて。だから、わざとじゃありません」

なぜ必死に否定しているのか、自分でも分からなかった。

ただ、「置いてこい」と言われた約束を、意図せず守ってしまったことが、なんだかズルをしているような、くすぐったい後ろめたさを連れてきたのだ。

高城は、ふうん、と鼻を鳴らした。

「別に、責めてねえよ」

彼は階段を一段降りて、篠原と同じ高さに立った。

それだけで圧迫感が増す。

ふわりと、制汗剤と体温が混ざった匂いがした。

「……委員会か」

「はい」

「何時に終わんだ」

「三十分くらいで、終わりますけど」

「そっか」

会話が続かない。

いつもなら、ここでノートの内容や、本の感想を盾にして言葉を紡げるはずだった。

けれど、そのフィルターがない今、何を話せばいいのか正解が分からない。

沈黙が落ちる。

遠くでセミの声だけがジリジリと響いている。

篠原は視線のやり場に困り、自分の爪先を見つめた。

間が怖い。

何か話さなければと思うほど、言葉が喉の奥で詰まって出てこない。

そんな彼女の様子を見て、高城がぽつりとこぼした。

「ノートねえと、やっぱ落ち着かねえ?」

図星を突かれ、篠原は顔を上げた。

彼の表情には、嘲笑の色はなかった。むしろ、少しだけ安堵したような、満足げな色が混じっている。

「……はい。なんだか、裸で歩いているみたいで」

正直に答えると、高城は口の端を緩めた。

「いいじゃん、それくらいで」

彼は一度視線を外し、また戻した。

「お前さ、文章ねえと全然しゃべんねえのな」

「そんなこと……」

ある、と言いかけて飲み込む。

実際、今の彼女は借りてきた猫のように縮こまっていた。

「まあ、いいけど」

高城は、それ以上追及しなかった。

彼はポケットに手を突っ込み、階段の下を顎でしゃくった。

「俺、ジュース買ってくるわ」

会話の終わりを告げる合図だった。

篠原がホッとして道を空けようとすると、すれ違いざまに彼が足を止めた。

顔は前を向いたまま、声だけを落としていく。

「じゃ、また。次は“わざと”持ってこない日も作れよ」

え、と篠原が振り返ったときには、彼はもうタッタッと軽い足取りで階段を降りていた。

その背中越しに、ひらりと片手を振るのが見えた。いつもの拒絶の空気はなく、どこか次を楽しみにしているような軽快さがあった。

篠原は踊り場に取り残された。

夏の日差しが窓から差し込み、埃が光の中で舞っている。

鞄の中身は軽いはずなのに、高城の残した言葉だけが、ずっしりと重くその底に沈殿していた。

次は、わざと。

それは単なる忘れ物ではなく、自分の意志で武器を捨ててこいという、明確な「条件」だった。

篠原は空っぽの鞄を抱きしめ直した。

その軽さに、少しだけ胸が高鳴っている自分がいることに気づき、彼女は慌てて首を振って階段を上がった。

非常階段の踊り場は、蒸し風呂のような熱気に満ちていた。

コンクリートの壁が昼間の日差しを吸い込み、逃げ場のない熱を放射している。窓は閉め切られ、隅には埃と虫の死骸が干からびて転がっていた。

篠原は、階段の手すりを強く握りしめていた。

掌の汗が鉄の冷たさを奪い、生温かくなっている。

その数段上に、高城が立っていた。

彼は篠原を見下ろしている。逆光で表情は見えにくいが、その立ち姿からは明らかな苛立ちが滲み出ていた。

すれ違おうとした篠原の進路を塞ぐように、彼が足を動かしたからだ。

「……どいてください」

篠原は視線を合わせずに言った。

「なんだよ、お化け見てえな避け方しやがって」

高城の声が、狭い空間に反響する。

「避けてません。急いでいるだけです」

「嘘つけ」

彼は一段、降りてきた。靴底がコンクリートを叩く乾いた音が、篠原の心臓の近くで響く。

「感想文、どうなった」

不意を突かれた問いに、篠原の喉が詰まった。

机の上に転がっていたペンの音と、白紙の原稿用紙が脳裏をよぎる。

「……まだ、考え中です」

「またなんかこねくり回してんのか」

「推敲です。あなたのために、最善の表現を探して……」

「あー、それだ」

高城が遮った。

彼は髪をかきむしり、焦燥と不快感が混ざったような顔で篠原を睨んだ。

「俺さ。お前の書く文章読むと、なんかムカつくんだよ」

「失礼ですね。依頼したのはそちらでしょう」

「そうだけどよ! なんかこう……『分かった気』になってんのが、すげぇ鼻につく」

高城は手すりをバンと叩いた。鉄骨が微かに振動し、その震えが篠原の手にも伝わる。

「偉そうに分析するくせに、昨日ノート持ってなかったときのお前、全然しゃべれなかったじゃねえか」

痛いところを突かれ、篠原は顔を上げた。

「それは……言葉を選んでいただけです。私は、あなたの役に立とうと思って」

「役?」

「あなたが自分で言えないことを、私が代わりに言葉にしてあげられたらって」

正論の鎧を着て、自分を守ろうとした。

けれど、高城はその鎧を素手で引き剥がしに来た。

「違ぇよ」

彼の声が低く、鋭く落ちた。

彼はもう一段降りてくる。顔のすぐそばまで、彼の熱気が迫った。

「お前さ、俺のこと書く時だけ、ちゃんと俺を見るんだよ」

至近距離で、透き通った瞳が篠原を射抜く。

「でもさ、それって『俺を読んでる』だけで、『俺と話してる』わけじゃねぇだろ」

篠原の思考が停止した。

「……え?」

「俺をダシにして、自分の世界で遊んでるだけじゃねえか」

ドクン、と心臓が跳ねた。

高城の言葉は、論理的ではない。けれど、動物的な勘だけで、篠原が一番触れられたくない核心を暴き出している。

「私は、あなたのために――」

「自分のためだろ」

高城は、篠原の反論を許さなかった。

そこには、いつもの乱暴な色はなく、残酷なまでの透明な事実があった。

「お前さ。……俺じゃなくて、自分から逃げてるだけじゃねえの」

逃げている。

その言葉が、熱気の中で氷の礫のように突き刺さった。

誰かのために、作品のために、誠実に言葉を尽くしていると思っていた行為。

それが実は、生身の人間と向き合うことから目を逸らすための、卑怯な防波堤だったのか。

反論しようとして口を開いたが、声が出なかった。

図星を突かれたときの生理的な反応として、指先が震えた。

高城は、震える彼女を見て、ふっと力を抜いた。

「……だからもう、文章でなんとかしようとするの、やめろって言ってんだよ」

彼はそれだけ言い捨てて、篠原の横を通り過ぎていった。

肩がぶつかりそうな距離で、彼の汗とシトラスの匂いが鼻を掠める。

階段の下へ向かう足音が遠ざかっていく。

篠原は踊り場に一人、取り残された。

まとわりつくような熱気の中で、自分の鼓動だけがうるさく耳に響いていた。

「自分から逃げている」。

その言葉の棘が、深く、抜けない位置に刺さったまま、彼女は動けずにいた。

ご共有ありがとうございます。編集者として拝読しました。

全体評価:第三章の結末クライマックスとして、完璧なカタルシスです。 「ビリ、と乾いた音」が、これまでの彼女の葛藤を断ち切る音として非常に効果的に響いています。また、第一条2項(五感) の「紙と埃と夏の熱気」という空気感が、青春の焦燥感を煽り、読者の没入感を高めています。

このシーンをさらに完璧にするために、第四条1項(キャラクター造形・台詞) と 第七条キャラクターデザイン の観点から、高城の台詞と表情に最後の磨きをかけましょう。

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カテゴリーごとのフィードバック

1. 台詞のブラッシュアップ(第四条・第一条)

* 原文: 「なんか、やっと……同じ場所に立てた感じがするわ」

* 課題: 「同じ場所に立つ」という表現は少し詩的・文学的で、言語化が苦手な高城の台詞としては「作者の言葉」っぽく聞こえてしまいます。

* 提案: 彼はもっと物理的な感覚で「邪魔なものがなくなった」ことを表現するはずです。

* 修正案: 「紙っぺら一枚あるだけで、お前、すげぇ遠くにいたからな」

* これにより、「文章=壁」だったというこれまでの文脈を回収しつつ、彼の実感としての「距離感」を表現できます。

2. キャラクターの魅力演出(第七条)

* 原文: 彼は少しだけ口角を上げ、夏空のような、からりとした表情で笑っていた。

* 提案: ここは読者を「恋に落とす」重要な笑顔のシーンです。第七条1項(明るく・可愛く・美しく) に基づき、ただ笑うだけでなく、少年らしい「無邪気さ」や「照れ」を視覚的に加えます。

* 修正案: 悪戯が成功した子供のような、あるいは眩しいものを見るような、くしゃっとした笑顔にします。

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編集後のテキスト(修正版)

高城の台詞をより「彼らしく」修正し、ラストの笑顔の破壊力を高めました。

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蝉時雨が、耳の奥で反響するほど激しく降り注いでいた。

夏休み中盤の校舎は、まるで巨大な廃墟のように静まり返っている。廊下の窓から差し込む日差しは白く眩しく、床のリノリウムを熱く焼いていた。

篠原は図書室の鍵を握りしめ、廊下を歩いていた。

右肩にかかる鞄が、いつもより遥かに軽い。

今朝、玄関を出る直前の光景が脳裏をよぎる。

机の上に置かれた灰色のノート。一度は無意識に手が伸びた。あれがないと、言葉の弾倉が空になった銃を持って戦場に行くような不安に襲われる。

けれど、彼女はその手を強く握りしめ、空中で引き戻した。

『次は“わざと”持ってこない日も作れよ』

あの不器用な宿題を果たすために、彼女は自分の意志で武器を置いてきた。

その決断の重さが、逆に鞄の軽さを際立たせている。

図書室の前に着くと、壁にもたれかかっている影があった。

高城だ。

彼は文庫本を読んでいるわけでもなく、ただぼんやりと窓の外の入道雲を眺めていた。

篠原の足音に気づき、ゆっくりと顔を向ける。

「……よう。今日、当番なんだろ」

なんでもないことのように言うが、額にはうっすらと汗が滲んでいる。冷房の効いていない廊下で、どれくらい待っていたのだろうか。

彼の視線が、自然と篠原の鞄に向けられた。

膨らみのない、薄い鞄。

高城の目がわずかに細められた。

「お。今日は、持ってきてねえんだ」

その声には、勝ち誇ったような色はなく、どこか安堵したような響きがあった。

条件は満たした。

篠原は黙って頷き、鞄の中から一通の封筒を取り出した。

中に入っているのは、お金ではない。

何度も書き直し、そして突き返された、あの四つ折りの読書感想文だ。

彼女はその紙を封筒から抜き出し、高城の目の前に差し出した。

「……これ」

高城は受け取ろうとせず、ただ紙を見つめている。

篠原は深く息を吸い込んだ。

図書室の前の空気は、紙と埃と、夏の熱気で満ちている。

彼女は両手で紙の端を持った。

折り目のついた、くたびれた原稿用紙。そこには彼女が「正解」だと信じて疑わなかった分析が、整然とした文字で並んでいる。

指先に力を込める。

ビリ、と乾いた音が静寂を裂いた。

高城の目が少しだけ見開かれる。

篠原は躊躇わずに、もう一度、さらに細かく紙を引き裂いた。

完璧だった論理が、意味をなさない紙片へと変わっていく。

それは、自分が築き上げてきた安全な殻を、自らの手で破壊する儀式だった。

破り終えた紙片を、彼女は廊下のゴミ箱には捨てず、自分の鞄のポケットに乱暴に押し込んだ。

そして、顔を上げる。

喉の奥が震えていたが、言葉は不思議と詰まらなかった。

「もう、あなたの読書感想文は書きません」

はっきりとした声だった。

高城は何も言わず、じっと篠原を見ている。

「あなたのために書いてあげるふりをして、私が安心するのは、もうやめます」

言ってしまった。

自分の弱さを認める言葉は、どんな鋭い分析よりも重く、そして痛かった。

これまでなら、ここで彼が怒るか、あるいは戸惑って距離を取るだろうと予測していただろう。

他人に弱みを見せれば、つけ込まれるか、軽蔑される。それが彼女の持っていた「人間関係の公式」だった。

けれど、高城の反応は、そのどちらでもなかった。

彼は、ふっと息を吐き出し、肩の力を抜いたのだ。

「……やっと、言ったな」

その声は、待ちくたびれた友人にやっと会えたときのような、温かい響きを含んでいた。

「それでいい」

彼は壁から背中を離し、一歩だけ篠原に近づいた。

「紙っぺら一枚あるだけで、お前、すげぇ遠くにいたからな」

遠くにいた。

その言葉で、篠原は理解した。彼が苛立っていたのは、分析されたことではなく、その紙切れ一枚分の距離が埋まらないことだったのだと。

篠原は、空っぽになった両手を握りしめた。

ノートはない。完成した感想文もない。

今の彼女には、彼と繋がるための道具が何一つ残されていない。

その不安を見透かしたように、高城が言った。

「じゃあさ。ここから先のことは、ノートじゃなくて、ちゃんと口で言えよ」

篠原は視線を彷徨わせた。

「……言えるか、分かりません。整理されていない言葉なんて」

「分かんなくていいから、そうしろ」

高城は、照れくさそうに視線を逸らし、また戻した。

「そん時は、俺も……ちゃんと聞くから」

その「聞く」という言葉は、以前下駄箱で言われたときよりも、ずっと確かな約束として響いた。

文章の向こう側に隠れていた彼が、初めて文章を取り払ったこちらの領域に踏み込んできた感覚。

廊下の窓から風が吹き込み、熱気を少しだけ揺らした。

篠原の鞄のポケットからは、破れた原稿用紙の端がわずかに覗いている。

それはもう、誰かのための代筆ではなく、彼女自身が選んだ残骸だった。

高城の横顔を見る。

彼は悪戯が成功した子供のように、くしゃりと目を細めて笑っていた。

その無防備な笑顔を、篠原はどう形容していいか分からなかった。

まだ、言葉にする必要はない。

ノートのない手で鍵穴に鍵を差し込むと、カチャリと小さな音がして、新しい扉が開く音がした。

二学期の始まりを告げる始業式の日は、夏休みの気怠さと、久しぶりに再会した友人たちの高揚感が教室の中で混ざり合っていた。

窓の外からは、まだ盛夏の余韻を残した蝉の声が聞こえるが、吹き込む風には秋の乾いた匂いが微かに混じっている。

ホームルームの時間。

教壇に立った国語教師の佐久間が、出席簿を脇に挟んだまま、軽く手を叩いた。

「よし、連絡事項は以上だ。……あー、あと最後にひとつ」

彼は思い出したように、黒板の端を指差した。

「夏休みの課題図書、感想文の提出だ。任意だが、書いてきた奴は今ここで回収する。後ろから回せ」

教室の空気が、ふっと緩んだ。

「書いてねーし」

「任意ってことは、ゼロ枚でもいいってことだよな?」

あちこちから安堵と私語が漏れる。

三十人以上いるクラスの中で、鞄を開けてクリアファイルを取り出したのは、最前列の真面目な女子生徒と、数人の文芸部員だけだった。

大半の生徒にとって、読書感想文は夏休みの思い出の片隅にも残らない、取るに足らない紙切れに過ぎない。

篠原は、自分の鞄の上に手を置いていた。

その中には、真っ白なままの原稿用紙が入っている。

書こうと思えば、書けたはずだ。

高城のことではなく、別の本を選び、当たり障りのない構成で、教師が満足するような綺麗な文章をでっち上げることは、彼女の技術なら造作もないことだった。

「図書委員の篠原」という優等生の仮面を守るなら、そうすべきだったかもしれない。

佐久間の視線が、教壇から教室を見渡す。

その目が、篠原の席で止まった。

(お前は出すだろうな)

そんな無言の期待が、視線に乗って飛んでくる。去年までの彼女なら、誰よりも早く完璧な一枚を提出していただろう。

篠原は、鞄の上の手を握りしめた。

体が条件反射で立ち上がりそうになるのを、意志の力で押さえつける。

椅子の座面が微かに軋んだ。

彼女は佐久間の目を見て、小さく首を横に振った。

佐久間は一瞬だけ眉を上げた。

だが、すぐに何かを悟ったように、微かに口元を緩めた。

「……まあ、いい。気が向いて書きたくなったら、いつでも持ってこい」

彼はそれ以上追求せず、集まった数枚のレポート用紙だけをトントンと揃えた。

篠原は、ふうと短く息を吐いた。

肩の荷が下りたような、それでいて、守るべき場所を自ら手放したような、奇妙な浮遊感があった。

ふと、視線を窓際へ向けた。

一番後ろの席。

高城が、肘をついて窓の外を眺めていた。

彼の机の上には、何もない。鞄を開ける素振りすらない。

茶封筒も、パステルカラーの文庫本も、そこには存在しなかった。

彼は約束通り、「書かない」ことを選んだのだ。

周囲の生徒たちが「だるいから書かない」と選んだのとは違う。書くべき言葉を持ちすぎて、それを安易な紙の上に定着させないことを、意志を持って選んだ空白。

その横顔を見た瞬間、篠原の胸の内にあった罪悪感が、静かな連帯感へと変わった。

(あの人も、出さなかった)

言葉にしないことで、二人は初めて同じ答えを選んだ。

クラス中の誰もが提出しなかったとしても、篠原と高城の「提出なし」だけは、全く別の意味を持って響き合っている。

視線を感じたのか、高城がゆっくりとこちらを向いた。

目が合う。

彼は篠原の手元――提出されなかった鞄の上――を一瞥し、それから自分の何もない机を顎で示した。

『一緒だな』

声には出さず、口の形だけでそう告げると、彼は悪戯っぽく片目をつぶってみせた。

チャイムが鳴る。

佐久間が教室を出て行き、生徒たちが一斉に椅子を引いて立ち上がる。

騒がしさが戻ってきた教室の中で、篠原は鞄の中の白紙の用紙に、もう一度だけそっと触れた。

そこには何も書かれていない。

けれど、その空白こそが、今の彼女が提出できる唯一の、そして最大の「感想文」だった。

彼女は鞄を閉じ、顔を上げた。

紙の上ではなく、これからの時間を使って答えるべき相手が、窓際の席で待っていた。

始業式後の放課後は、解放感と湿度が入り混じっていた。

昇降口は、久しぶりに会う友人同士の話し声や、部活動へ急ぐ足音で満ちている。

篠原は上履きを脱ぎ、ローファーに足を入れた。

踵をトントンと鳴らして顔を上げると、下駄箱の列の向こうに、見慣れた影があった。

高城だ。

彼は柱に背中を預け、スマートフォンをいじるでもなく、ただ行き交う生徒たちの流れをぼんやりと眺めていた。

目が合う。

彼は軽く顎をしゃくり、出口の方へ歩き出した。

「待っていた」とも「行こう」とも言わない。けれど、その背中が示す方向は明確だった。

篠原は鞄のベルトを握りしめ、その後を追った。

鞄の中には、灰色のノートが入っている。

いつもなら、その重みが彼女の背骨を支えていた。けれど今日は、その中身が空っぽであることを、背中の皮膚を通して感じていた。

二人は校舎の裏へと回った。

体育館の影になり、西日が遮られたその場所は、表の喧騒が嘘のように静かだった。

室外機の低い唸り声と、遠くのグラウンドの掛け声だけが届く。

並んで歩きながら、高城が前を向いたまま口を開いた。

「……出したか」

主語のない問い。けれど、何を指しているかは明白だった。

「いいえ。出しませんでした」

篠原は短く答えた。言い訳も、補足もしない。

「だろうな」

高城は、ポケットに手を突っ込んだまま鼻を鳴らした。

「俺もだ」

彼は足元の小石を蹴った。乾いた音がして、石がフェンスの方へ転がっていく。

「あんな紙一枚でさ、『高城ってこういうやつなんだ』って決められんの、なんか違うだろ」

その言葉は、彼が以前、篠原の分析に対して抱いた拒絶感と同じ根を持っていた。

けれど今の声には、あの時のような刺々しさはない。

「そういうの、いちいち誰かに見せなくていい。点数つけられる筋合いもねえし」

「……そうですね」

篠原は頷いた。

誰かのために分かりやすく整えられた言葉など、本当の感情の抜け殻でしかない。

そんな抜け殻を提出して評価されることに、何の意味があるというのか。

二人は、以前感想文のやり取りをした、あの場所で立ち止まった。

篠原は、鞄から灰色のノートを取り出した。

手癖のように表紙を撫でる。指先に馴染んだ感触。

高城の視線が、そのノートに注がれる。

以前なら、彼はそれを見ただけで不機嫌になっていただろう。

「……捨てられませんでした」

篠原は、独り言のように呟いた。

「置いてこようと思ったんです。でも、これがないと、やっぱり私が私じゃなくなってしまう気がして」

高城は何も言わず、ただ彼女の手元を見ている。

篠原は、ゆっくりとノートを開いた。

最初のページから中盤までは、黒いインクの文字がびっしりと埋め尽くしている。彼の性格分析、本の構造図、推測の羅列。

パラパラとページを繰る。

そして、最新のページで手を止めた。

白かった。

日付もなければ、見出しもない。

ただ、罫線だけが淡々と引かれた、空白のページ。

書こうとして、書かなかったのではない。

「書かないこと」を書いた、意思ある空白だった。

高城が、横からそのページを覗き込んだ。

「お」

彼の喉が小さく鳴った。

彼は躊躇なく手を伸ばし、その真っ白なページに指先で触れた。

ざらり、と指が紙を擦る音がした。

文字という棘がないから、彼は安心して触れることができる。

「別に、捨てなくていいよ」

高城は、紙に触れたまま言った。

「たださ、その中身で俺から逃げるの、やめろってだけ」

「……はい」

篠原はノートを開いたまま、彼の方へ向けた。

白紙のページが、二人の間に壁としてではなく、広場として存在している。

高城は、その白さを眩しそうに見つめ、それからゆっくりと視線を上げ、篠原の目を見た。

「……やっとだな」

彼は口の端を緩め、少し照れくさそうに頭を掻いた。

「やっと、紙の向こうにいないお前と、しゃべれる感じがする」

その言葉を聞いた瞬間、篠原の胸の奥で、張り詰めていた何かが音を立てて解けた。

ノートに守られていた頃の安心感とは違う。

もっと心もとなくて、頼りなくて、けれど風通しの良い何かが、そこにはあった。

この真っ白なページこそが、彼女が出せる精一杯の返事だったのだ。

篠原は、ノートをパタンと閉じた。

閉じる音が、静かな校舎裏に響く。

その音は、物語の終わりではなく、本当の会話の始まりを告げる合図のように聞こえた。

校舎裏の空間は、夕方の光が傾き、柔らかなオレンジ色に染まっていた。

室外機が時折立てる低い唸り声と、夏の終わりを惜しむような、かすかな虫の羽音が聞こえる。

二人は、誰も来ないブロック塀の陰に立っていた。

しばらく、他愛のない雑談が続いたあと、静寂が訪れる。その沈黙は、居心地の悪いものではなかった。

篠原は、閉じたままの灰色のノートを膝の上に置いている。もう、開こうとはしなかった。

高城も、何かを急かすような様子はない。ただ、両手をポケットに突っ込んだまま、遠くの雲を見つめている。

沈黙の中で、篠原の胸の奥で決意が固まった。

ノートの重さに頼らず、自分の足で立ち上がった今、次に言葉を発するのは、自分の意志でなければならない。

彼女は小さく喉を鳴らし、口を開いた。

「……書こうとすると、止まってしまうんです」

高城は空を見ていた視線を、ゆっくりと篠原に向けた。

「あなたの読書感想文を」

その声は、震えていなかった。

「本のことじゃなくて、あなたのことばかり考えてしまって、どうにもならなくて」

高城は、何も言わずに聞いている。その真剣な眼差しが、篠原の言葉を促した。

「きれいにまとめようとしたら、それは嘘になる気がしたんです」

彼女は、一度目を閉じた。

あの時、彼に言われた「お前の話だろ」という言葉が、胸の中で反響する。

「“分かってるふり”をして書くのが、あなたに対して失礼だと、初めて思ったんです」

そして、最も怖い、核心の言葉を絞り出した。

「それに……文章にしたら、そこで全部終わってしまいそうで、こわくて」

言葉の力を信じていた彼女にとって、「言葉にしたら終わる」という感覚は、それ自体が最大の告白だった。

だから、私は、書きませんでした。

高城は、すぐに反応しなかった。

彼は沈黙を破らず、数秒間、その言葉を咀嚼するように黙っていた。

やがて、口の端を緩める。

「だから、俺、あのとき“やめろ”って言ったんだよ」

彼は、小さな声で言った。

「お前が書く感想文ってさ、読んだら『高城ってこういうやつです』って、俺の知らない俺に決まりの札を勝手に貼られたみたいで、息苦しかった」

彼は、自分の胸元を軽く叩いた。

「でも、本気でこうやって悩んで、文章を投げ出したなら……それはそれで悪くねえな」

高城は、一歩だけ篠原に近づいた。

二人の間に、熱を持った空気がわずかに流れる。

彼は、これまで誰にも言わなかった、自分の本音を口にした。

「文章でごちゃごちゃやってないお前の話を、俺は聞きたかったんだよ」

それは、ただの欲求だった。

誰にも分析されない、生身の篠原と向き合いたいという、シンプルな願い。

そして、彼はその願いを、最も排他的な形で伝えた。

「誰かに話せなんて、別に言ってねえ。そんなの、俺にだけでいいから」

その言葉が、篠原の胸にストンと落ちた。

「君」とは、不特定多数ではなく、この目の前の高城一人を指すのだと、はっきりと理解した。

高城は、ポケットから片手を出した。

その手が、篠原の膝の上のノートに、優しく触れる。

「これから、お前が本の話するとき、隣で聞いててやる」

彼は、ノートを触ったまま、目を上げて篠原を見た。

「その代わり、俺の話もちゃんと聞けよ」

彼は一度言葉を区切り、照れくさそうに片手で頭を掻いた。

「だから、この続きは、俺とお前で一緒に作ろうぜ」

それは、言葉にせずとも、「付き合う」のニュアンスをはるかに超えた、未来の関係の宣言だった。

ノートを間に挟んだまま、二人の手が触れることはない。

だが、その一瞬の接触が、文章の終焉と、新たな物語の始まりを告げていた。

夕方の光の中で、二人の間に漂っていた不安や迷いが、ゆっくりと収束していく。

篠原は、高城のその言葉を、反論も分析もせずに、ただ受け止めた。

二学期が始まって数日後の放課後、空は高くなり、湿気が引いた乾いた風が吹いていた。

篠原と高城は、校門を出て駅へと続く並木道を、特に約束をしたわけでもなく並んで歩いていた。

二人の間にあったのは、以前のような緊張感や分析の糸ではなく、ただの日常的な空気だった。

高城が、前の時間の授業の進め方について、気怠そうに愚痴をこぼす。

「あのさ、佐久間先生の現代文の解釈、なんかムカつかねえ?」

「ムカつくって、どういう意味ですか」

「言葉は生き物だから、って。そんなの分かってるっての。なのに、結局最後は『答えは一つ』ってまとめようとするじゃん。アレがなんか、キツい」

高城の言葉は、以前よりも論理的になっていた。言葉にできなかった塊を、自分の口で少しずつ掘り出そうと努力している証拠だった。

篠原は、それに笑って返す。

「でも、そうしないと点数がつけられないからでしょう。先生も、自分のためにやってるわけじゃない」

「まあな」

高城は頷いた。

二人の会話は、もう「ヤンキーと図書委員」という役割の型にはまっていなかった。ただの、少し特別な同級生同士の、くだらない日常の続きだった。

しばらく歩いて、本屋の看板が目に入ったとき、高城がふと思い出したように言った。

「あ、そうだ。この前の本、返しに行かなきゃな」

「自分で返しに行くんですね」

「おう。あんなもん、お前にもう触らせらんねえよ」

彼は笑って言った。

その言葉には、本への羞恥心ではなく、あの代筆を通じて生まれた二人だけの秘密を、これ以上汚されたくないというような、独占的な響きがあった。

篠原は、少しだけ冗談めかして言えるようになっていた。

「じゃあ、私が選んだ本の感想は、ちゃんと口で聞かせてくださいね」

「ノートには書かなくていいので」

「はいはい」

高城は呆れたように笑った。

「ちゃんと聞いてやるから、心配すんな。……いつか、“お前の話”の意味も書けるくらい、ちゃんと言葉を噛み砕ける努力はしてやるよ」

彼は、遠い未来への約束を、軽く、しかし明確に言葉にした。

そして、彼は立ち止まった。

校門を出てすぐの、大きなくすのきの木の真下だった。

風が枝葉を揺らし、木漏れ日が二人の足元で揺れる。

高城は、真剣な目つきで篠原を見つめた。

「お前さ、いつか“自分のためだけ”の読書感想文、書いてみろよ」

篠原は、一瞬息を止めた。

それは、教師に言われた「誰かに読ませるために書け」とも、彼に言われた「文章でごまかすな」とも違う、新しい命題だった。

「自分のためだけ……誰の本で、ですか」

高城は、少し考えて、意図的に言葉をぼかした。

「そのとき、お前の隣にいるやつの話で、いいだろ」

直球の「付き合ってください」という言葉は、あえて使わなかった。

けれど、その言葉が持つ意味は、空気を通して伝わった。

文章にしたら、そこで終わってしまう。

だから、言葉にしないまま、その次の時間を生きていく。

二人の間に、新たな沈黙が訪れる。それは、先ほどまでの日常の延長線上にある、特別な沈黙だった。

篠原は、その言葉を反芻するように唇を噛んだ。

文章にせずとも、もう二人の関係は始まっている。

高城は、それ以上何も言わなかった。

ただ、少しだけ口角を上げて、先を促すように歩き出した。

「ほら、行くぞ。もう夕方だ」

篠原は、彼の背中を追う。

その背中が、以前よりも頼もしく見えたのは、もう文章のフィルターを通して見ていないからだろうか。

その日の夜、篠原は自室の学習机に向かっていた。

机の上には、未提出のまま残された感想文の用紙がある。

彼女は、あの灰色のノートを開いた。

最後の白いページ。

彼女は、シャープペンシルを握った。もう、何かを分析したり、分解したりするための筆記ではない。

ペン先が紙に触れる。

けれど、本文は書かない。

ただ、ページの隅に、小さな文字で、心を込めてタイトルだけを書き記した。

『読書感想文と君』

彼女はペンを置いた。

その本文は、これから始まる二人の時間の中で、ゆっくりと書かれていくのだろう。

その予感だけが、夏の終わりと秋の始まりの夜の空気の中に、静かに満ちていた。


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