河童の国
## 第一章 新宿駅西口、あるいは墜落
僕が河童の国に迷い込んだのは、新宿駅西口の地下通路でつまずいたせいだった。
精神を病んで入院していた僕は、外出許可を得て久しぶりに街に出た。人々はスマートフォンを手に、時折立ち止まっては画面を見つめている。企業の広告には「AIで変わる未来」という文字が躍っていたが、街の風景はまだ僕が入院する前とそれほど変わらないように見えた。
地下通路の階段を降りようとして、僕は足を滑らせた。体が宙に浮き、回転し、どこまでも落ちていく。気がつくと、僕は見知らぬ場所に立っていた。
そこは新宿だった。間違いなく新宿なのだが、何かが違う。歩いている人々の頭には、皿のようなものが乗っていた。いや、人ではない。彼らは河童だった。
## 第二章 バッグ氏との出会い
呆然としている僕に、一匹の河童が声をかけてきた。
「やあ、人間さん。この国は初めてかい?」
河童は流暢な日本語を話した。背広を着て、AIアシスタントのイヤホンを耳につけている。
「僕はバッグと言います。承認技師です」
バッグ氏は僕を新宿の街に案内してくれた。高層ビルが立ち並び、スクランブル交差点には大勢の河童が行き交っている。人間の新宿とほとんど変わらない。ただ、街のあちこちに「AI APPROVED」のマークが輝いていた。
「この国では、ほとんどすべてのことをAIが決めています」とバッグ氏は説明した。「医療も教育も行政も、すべてね。とても効率的です。我々河童は、もう何十年も書類仕事なんてしていません」
「それは素晴らしいですね」
「ええ、人間の世界でもそうなりつつあるんでしょう?」
僕は人間の世界のことを思い出した。AIという言葉は確かによく聞くようになった。だが、まだ多くの人は以前と変わらず働いている。
「まだ、そこまでは……。ところでその、あなたの仕事は?承認技師というのは?」
「ああ、それはAIの決定を承認する仕事です」バッグ氏は誇らしげに胸を張った。「AIは完璧ですが、責任は取れません。だから我々専門職が最終的な承認ボタンを押すのです」
「それだけ、ですか?」
「それだけ、ですよ」バッグ氏は笑った。「保険にもちゃんと入ってますし」
バッグ氏の笑顔には迷いがなかった。
## 第三章 働かない河童
バッグ氏の案内で、僕は河童の国の社会を見て回った。
公園では、多くの河童が昼間からベンチに座って日向ぼっこをしていた。
「あの方々は?」
「ああ、『労働免除認定者』です」バッグ氏は言った。「この国では、働きたくない者は働かなくていいんです。個性の尊重ですよ。彼らは認定証だって持っています」
一匹の若い河童が、誇らしげに胸のバッジを見せてくれた。「労働免除認定証」と書いてある。
「素晴らしい制度でしょう?」バッグ氏が言った。「誰も卑屈になる必要がない。人間の尊厳が何より大切にされているんです」
「河童の尊厳、ですね」僕は訂正した。
「そう、河童の尊厳です」
図書館の前を通りかかると、そこにも大勢の河童がたむろしていた。
「『学習免除認定者』です」バッグ氏が説明した。「勉強したくない者は勉強しなくていい。これも個性ですから」
「でも、社会は回るんですか?」
「もちろん。AIがありますから」
## 第四章 エリートたちの沈黙
ある日、バッグ氏は僕を高層ビルの最上階に連れて行った。そこには「政策研究所」という看板がかかっていた。
中には数匹の河童がいたが、驚くほど少人数だった。
「彼らがこの国を理解している者たちです」バッグ氏は小声で言った。「AIの仕組みも、司法、立法、行政、哲学も、深く理解できるのは彼らだけなんです」
僕は一匹の老いた河童に話を聞いた。教授と呼ばれているようだった。
「我々は気づいています」教授は静かに言った。「この社会の歪みに。AIに依存しすぎていることに。でも、我々がエリート統治をするわけにはいかない。それはリベラリズムに反します」
「では、どうするんです?」
「AIに任せるしかない」教授は疲れた目で窓の外を見た。「我々は理性を信じています。感情ではなく、理性を。そしてAIは究極の理性です」
「でも、AIが間違ったら?」
「間違いに気づくのも、AIの役目です。我々人間……いや、河童が気づかないだけかもしれない問題を、AIはいずれ発見してくれるでしょう」
教授の声には、確信が欠けているように聞こえた。
## 第五章 選挙の日
河童の国で選挙があった。
街中にポスターが貼られ、演説が行われている。だが、その内容は奇妙なものだった。
「刑務所の男女平等を実現します!」
「男性収容者を女性と同数になるまで釈放!」
「いや、女性を微罪でも収容して平等に!」
バッグ氏に聞くと、これが今回の選挙の最大の争点なのだという。
「刑務所の収容者は9割が男性、1割が女性なんです」バッグ氏は説明した。「これは明らかに不平等です。AIもそう判定しました」
「でも、それは犯罪率の違いでは?」
「犯罪率の違いこそが、社会の不平等の表れです。AIの分析によれば、この不平等は是正されるべきです」
「どうやって?」
「それが争点なんです。男性を釈放するか、女性を収容するか」
投票日、僕は投票所に行ってみた。河童たちは列を作っていたが、多くが困惑した表情をしていた。
「何に投票しているのか、よくわからないんだけど」ある河童がつぶやいた。
「AIが推薦する候補に入れればいいんじゃない?」別の河童が答えた。
「でも、AIは中立だから推薦しないんだよ」
「じゃあ、どうすれば……」
僕は投票所を後にした。
## 第六章 承認ボタン
ある日、バッグ氏の仕事に同行させてもらった。
彼のオフィスは清潔で、大きなモニターが一台あるだけだった。モニターには次々とAIからの提案が表示される。
「新宿区立第三小学校の給食メニュー変更:承認」
「都庁第二庁舎のエレベーター保守点検:承認」
「歌舞伎町パトロール経路変更:承認」
バッグ氏は内容をちらりと見て、次々と承認ボタンを押していく。
「内容は確認するんですか?」僕は聞いた。
「もちろん、一応は」バッグ氏は答えた。「でも、AIが間違えることはほとんどありません。過去10年で重大な誤りは一度もない」
「もし間違えたら?」
「その時は僕が責任を取ります。それが僕の仕事ですから」バッグ氏は誇らしげに言った。「何より、この仕事には意味がある。AIの決定に人間の……いや、河童の尊厳を与えるんです」
その時、モニターに表示された項目が僕の目を引いた。
「新宿中央病院、患者番号2038447の治療方針:延命治療中止を推奨」
バッグ氏は他の項目と同じように、わずか数秒見ただけで承認ボタンを押した。
「今のは……」
「ああ、医療判断です」バッグ氏は言った。「AIが患者の状態、家族の希望、コスト、ベッドの空き状況、すべてを総合的に判断します。完璧ですよ」
僕は言葉に詰まった。延命治療の中止。それは誰かの命に関わる判断だ。
「でも、もし間違っていたら?」僕は我慢できずに再び聞いた。
「その時は僕が責任を取ります」バッグ氏は再び穏やかに答えた。「それが僕の仕事ですから」
「責任を取る、というのは?」
「賠償です。患者の家族や関係者に」バッグ氏は説明した。「承認技師には全員、責任保険への加入が義務づけられています。医療判断なら最大で一億クレジット。もちろん、保険料は国が負担してくれます」
「つまり、お金を払えばいい、ということですか?」
「そうです」バッグ氏は当然のことのように言った。「それ以上、何ができるでしょう?刑務所に入ることもできますが、それは非効率です。保険で賠償する方が、社会全体にとって合理的です」
「あなた自身は、何も失わないんですか?」
「失いませんよ。だから、この仕事には誇りが持てるんです」バッグ氏は微笑んだ。「個人が犠牲になる必要はない。それがこの国の理念です。人の尊厳を何より大切にしている」
僕は何も言えなかった。河童の尊厳は守られているのかもしれない。だが、その承認ボタンで運命を決められる者の尊厳は、どこにあるのだろう。
## 第七章 人口の減少
バッグ氏と食事をしていた時、僕はふと疑問を口にした。
「この国の人口は増えているんですか?」
バッグ氏は箸を止めた。
「いえ、減っています。ずっと減り続けています」
「それは……問題では?」
「個人の自由です」バッグ氏は言った。「この国では、感情より理性、家族より個人、共同体より自由を尊重します。子供を産むかどうかは、完全に個人の選択です」
「でも、社会が維持できなくなるのでは?」
「AIがあります。生産性は向上し続けています。平均寿命も延びています。人口が減っても、一人当たりの幸福は増大しているんです」
「人口を増やそうとは、しないんですか?」
バッグ氏は不思議そうな顔をした。
「なぜ増やす必要があるんです?人口の多さが目的ではありません。個人の幸福と自由が目的です。我々の社会も、そのために存在しているんです」
「それで、いいんですか?」
バッグ氏は少し考えてから答えた。
「いいんです。そう、AIが判断しています」
その声は、どこか空虚に聞こえた。
## 第八章 気づかない問題
僕が河童の国で過ごすうち、小さな違和感が積み重なっていった。
街にはシャッターを閉じたままの店舗がいくつもあり、学校の統合や縮小が続いてるらしい。だが、誰もそれを問題にしていないようだった。
ある日、僕は教授を再び訪ねた。
「この国は、衰退しているのではないですか?」
教授は長い沈黙の後、静かに答えた。
「そうかもしれません。でも、AIの分析では、すべての指標が改善傾向にあります。一人当たりGDP、平均寿命、幸福度スコア……」
「でも、実際は?」
「我々が気づいていないだけかもしれません」教授は認めた。「AIに頼りすぎて、現実を見る目を失ってしまった。あるいは、問題が起きているのに、AIがそれを問題として認識していないのか」
「なぜ何もしないんですか?」
「何をすればいいのか、わからないんです」教授は苦笑した。「我々はAIを信じることを選んだ。理性を信じることを選んだ。今さら感情に戻ることはできません」
窓の外では、夕陽が新宿の高層ビル群を照らしていた。美しい光景だったが、どこか寂しげに見えた。
## 第九章 帰還
僕の入院していた病院から、戻ってくるようにと連絡があった。外出許可の期限が切れるらしい。
バッグ氏が地下通路まで見送りに来てくれた。
「楽しかったですよ」バッグ氏は言った。「人間の方と話すのは初めてでした」
「僕も」僕は答えた。「でも、バッグさん、一つ聞いていいですか」
「何でしょう?」
「あなたは、本当に幸せですか?」
バッグ氏は少し考えてから、笑顔を作った。
「幸せです。AIもそう言っています。僕の幸福度スコアは平均を上回っています」
「スコアではなく、あなた自身は?」
バッグ氏の笑顔が消えた。彼は何か言いかけたが、結局何も言わなかった。
僕は地下通路の階段を上り始めた。振り返ると、バッグ氏は小さく手を振っていた。
階段を上りきると、そこは人間の新宿だった。
周りを見渡し、深呼吸をした。
## 終章 病室にて
病院に戻った僕は、主治医に河童の国の話をした。
「興味深い妄想ですね」主治医はタブレットに何かを記録しながら言った。「AIによる効率的な社会、個人の尊厳の尊重、理性の優位……現代社会の極端な戯画化と言えるでしょう」
「妄想、ですか」
「ええ。ただ、」主治医はタブレットから目を上げた。「あなたの症状については、最新の研究では……」
主治医はタブレットを操作し、いくつかの論文や統計データを表示した。
「ハーバード大学の研究によれば、あなたのような症例では投薬量を20パーセント減らすことで、寛解率が15パーセント向上するというデータがあります。また、厚生労働省の統計でも同様の傾向が……」
主治医は淡々と説明を続けた。権威ある機関の名前、数字、グラフ。すべてタブレットの画面に表示されている。
「つまり、投薬量を減らす、ということですか?」
「そうです。エビデンスに基づいた判断です」主治医は自信を持って答えた。
僕はタブレットの画面を見つめた。そこに表示されているのは、何千、何万という患者のデータから導き出された統計だ。主治医はそれを信じて、僕の治療方針を決める。
河童の国のバッグ氏は、AIの判断を信じて承認ボタンを押していた。
どこが違うのだろう。
窓の外では、夕陽が新宿の高層ビル群を照らしていた。
僕はまた地下通路を降りて、河童の国に行くことができるだろうか。あるいは、もう行く必要はないのかもしれない。
人間の世界も、河童の世界も、もはや区別がつかないのだから。
**【了】**
芥川龍之介の「河童」を元に、現代新宿だったらどうなるだろうと思いながら。




