第一話: 口ずさむ群衆
西暦2042年、10月12日、午前8時14分。東京。
その朝も、世界はいつも通りだった。
佐藤拓也(34歳、営業職)は、品川へ向かう横須賀線の窮屈な車内で、昨夜のニンニクと安物のアルコールが混じり合った呼気を、自分のものであると認識しないよう努めていた。彼の意識は、スマートフォンが映し出す株価の無慈悲な赤色と、午前10時から始まる重要なプレゼンテーションのスライド構成、そして週末に娘と約束した動物園の入場料との間で、まるでピンボールのようにめまぐるしく跳ね回っていた。ワイヤレスイヤホンからは、彼が高校時代から聴き続けているロックバンドの、聞き飽きるほど聴いたギターリフが、通勤ラッシュの騒音に対するささやかな防壁として鳴り響いている。それは日常だった。制御され、予測可能で、退屈だが安心できる日常。
ふと、彼は自分の唇が微かに震え、そこから馴染みのないメロディが漏れ出していることに気づいた。
「ふ、ふん、ふふん、ふーん…」
それは鼻歌と呼ぶにはあまりに輪郭がはっきりとしていて、しかし声と呼ぶにはあまりに無意識的だった。ロックバンドの激しいドラムとベースラインとは全く相容れない、どこか郷愁を誘うような、ピアノのアルペジオを思わせる旋律。どこで聴いたのだろう。最近のCMか、あるいは娘が見ているアニメの主題歌か。いや、違う。このメロディには、既視感とでも言うべき奇妙な「聞き覚え」と、全く未知の「新しさ」が同居していた。
「……なんだ、これ」
拓也は小さく呟き、口を閉じた。プレゼンのことで頭がいっぱいなのだ、疲れているのだろう。彼は再び意識をスマートフォンの冷たい画面へと沈め、すぐにその些細な違和感を思考の海溝へと葬り去った。彼は気づかなかった。彼の右隣で、化粧に余念のない若いOLが、全く同じメロディを、アイライナーを引く正確な動きに合わせて口ずさんでいることにも。彼の左隣で、分厚い文庫本を読んでいた老人が、ページの余白を指でなぞりながら、寸分違わぬ旋律を微かな口笛で奏でていることにも。そして、その音が、まるで水面に広がる波紋のように、車両全体に静かに、しかし確実に伝播していることにも。
*
向かいの席に座る女子高生、中村美咲は、その波紋の中心にいた。彼女は、親友との意味のないメッセージのやり取りに飽き、無意識に顔を上げた瞬間、それに気づいた。
目の前に立つ、イヤホンをしたサラリーマン。鼻歌。
斜め隣の、居眠りをしている大学生。寝息に混じるハミング。
ドア付近で、必死にスマホゲームに興じる少年。時折、唇から漏れる音。
――全部、同じメロディだった。
最初は偶然だと思った。よくある流行りの曲なのだろう、と。だが、注意して耳を澄ますと、その異様さが肌を粟立たせた。車両の端から端まで、まるで訓練された合唱団のように、様々な年代、様々な性別の、互いに何の関係もない人々が、同じ旋律を、それぞれの形で奏でている。囁くように、口ずさむように、あるいはただ唇の動きだけで。誰もが自分の世界に没頭し、他人の音に気づく様子はない。彼らは「個」として存在しながら、メロディという見えない糸によって「群」として繋がれているかのようだった。
「…何、これ…キモい…」
美咲は、誰にも聞こえない声で呟いた。ドッキリ番組のカメラでも隠されているのだろうか。彼女は反射的にスマートフォンを構え、震える指で動画の録画ボタンを押した。レンズの向こう側で、人々は依然として無自覚な演奏家であり続けている。その顔には何の感情もない。ただ、空っぽの表情で、その奇妙なメロディを反芻しているだけだった。それが、何よりも不気味だった。
*
午前8時30分、品川駅。
地獄の扉が開いたかのように、電車のドアから人々が吐き出される。巨大なコンコースは、人間という名の川の流れだった。誰もが同じ方向へ、急ぎ足で、無表情で進んでいく。ここでは個人の顔も名前も意味をなさない。誰もが巨大な社会システムを動かすための、匿名化された部品の一つに過ぎない。
だが、その日のコンコースは、いつもと何かが違っていた。
音だ。
無数の靴音、駅のアナウンス、キャリーケースの車輪が床を擦る音。そういった日常のノイズの隙間を縫うように、あのメロディが聞こえてくる。それはもはや、個人の鼻歌の集合体ではなかった。数千、あるいは数万の人々の無意識が共鳴し合い、一つの巨大な「音響現象」となっていた。コンコースの天井に反響し、壁に染み込み、まるで建造物そのものが歌っているかのように聞こえる。それは地鳴りに似ていた。低く、持続的で、逃げ場のない音。
人々は、気づかない。あるいは、気づかないふりをしている。自分の耳がおかしくなったのか、それともこれは新しいタイプの環境音楽なのだろうか、と。東京という都市に住む人々は、理解できない現象を無視することにかけては天才的だった。彼らはメロディの中を、まるで雨の中を歩くように、ただただ通り過ぎていく。パニックは起きない。悲鳴も上がらない。その整然とした異常こそが、かつて誰も経験したことのない、未知の恐怖の始まりを告げていた。
*
その日の昼過ぎ、「#口ずさむ群衆」「#品川駅の歌」「#集団鼻歌」といったハッシュタグが、SNSの片隅で産声を上げた。
最初は、美咲が投稿した短い動画だった。
「マジでヤバい。朝の山手線、全員同じ歌うたってたんだけど」
「フェイク乙」「音源被せただけだろ」「お前も疲れてんだよ」
コメント欄は、いつものように冷笑と無関心で埋め尽くされた。
だが、堰を切ったように、証拠が溢れ出した。新宿駅のホームから、渋谷のスクランブル交差点から、大手町の地下通路から。異なる場所で、異なる人々が撮影した、同じ現象の動画や音声が、次々とアップロードされていく。あるデータ分析に長けた匿名のユーザーは、それらの投稿の位置情報と時間をマッピングし、驚くべき事実を突き止めた。
「午前8時10分から8時40分の間。JR、私鉄、地下鉄の主要路線で、同時多発的に発生。これは自然現象じゃない。何者かによる、広域への音響送信…。一種の放送テロか?」
その書き込みは、憶測と陰謀論に火をつけた。新手のプロモーションだという説。外国による認知攻撃だという説。集団ヒステリーだという説。あるいは、新しい都市伝説の誕生を面白がる声。デジタル世界のノイズは増幅し、誰もがそのメロディの正体を知りたがった。だが、誰もそのメロディの出典を見つけられなかった。それは、この世界のどこにも、まだ存在しないはずの歌だったのだ。
*
都心から離れた、静かな住宅街に建つアパートの一室。
壁一面を埋め尽くす複数のモニターの光だけが、暗い部屋を照らしていた。
ルイ・アマノは、キーボードを打つ手を止め、流れていくSNSのタイムラインを冷たい目で見つめていた。彼の自作したプログラムが、ネット上に氾濫する「口ずさむ群衆」に関する音声データを、リアルタイムで収集し、フィルタリングし、解析していく。
彼の目の前のメインモニターには、一般的な波形ソフトとは全く異なる、複雑なグラフが表示されていた。収集された何千もの音声データからノイズを除去し、その旋律の「純粋な情報的構造」を可視化したものだ。常人が見れば、それはただの無機質な線の集まりにしか見えないだろう。
だが、ルイには見えていた。その線と線の間に、驚くほど高度な数学的秩序が隠されていることを。それは音楽のそれではない。自然界のフラクタル構造、あるいは量子力学の確率分布図に似ていた。美しく、完璧で、そして、ありえなかった。
彼はモニターの前に立ち上がり、そのグラフを睨みつけた。SNSでは誰もが「歌」の正体を探している。だが、それは根本的に間違っている、と彼は直感していた。
ルイは、誰に言うでもなく、静かに、しかし確信を込めて呟いた。
「違う。……これは、歌じゃない」
彼の指が、モニター上の波形の一点をなぞる。そこには、わずかな「ゆらぎ」があった。本来、均一であるはずのパターンの中に生まれた、微細な誤差。
「これは、波だ。そしてこれは、その干渉パターンだ」
テレビのワイドショーが、専門家と称する人物の「集団心理によるものです」という凡庸な解説を流し始める。だが、ルイはもうそれを見てはいなかった。彼の脳裏には、数年前に姿を消した恩師、アリスガワ博士の言葉が、あの奇妙なメロディのように反響していた。
『いいかね、ルイ君。人間の意識は、観測されていない時、波として存在するのかもしれないのだよ』
その日、世界は変わった。
ほとんどの人間がそれに気づかないまま、物語は静かに、その幕を開けた。
《硅素の街/Silicon Eden》は、文字数制限オーバーになることが多く、アルファポリスへ移行しました。
https://www.alphapolis.co.jp/novel/598665531/822990888




