エルフの集落へ
森を抜けると、空気が変わった。
霧が薄れ、湿った土の匂いの中に焚き火の煙が混じる。
見渡す限りの木造の小屋。 苔むした屋根の間から、黄昏色の光がこぼれていた。
どこか幻想的で、それでいて――居心地の悪いほど静かな場所だった。
「ここは……?」
「私たちの集落。 〈エレルの森〉の外れにある、ダークエルフの村よ」
リディアは淡々と答える。
その声音には、誇りよりも“疲れ”が滲んでいた。
村の入り口で、数人の魔族がこちらを見張っていた。
彼らの視線が、リディアを見た瞬間に険しく変わる。
「……忌み子が、また帰ってきたぞ」
「黒い肌を見ただけで不吉だ」
ひそひそとした声が、刃のように突き刺さる。
リディアは表情を変えず、ただ黙って歩いた。
その背中が、ほんの少し震えて見えた。
「……彼ら、リディアのことを……?」
「気にしないで。 生まれつきの色で、罪人扱いされてるだけよ」
彼女は強がっていたが、その表情は暗いものだった。
それを見て、私は胸がきゅっと締めつけられた。
「でも、あなた……不思議ね」
リディアが横目でこちらを見る。
「人間の言葉を話してるはずなのに、私にはちゃんと意味が分かる」
「……うん。私も不思議。 たぶん……そういう力があるんだと思う」
その言葉を、リディアは少しだけ驚いたように聞いた。
「力、ね。まあ、あんたが敵じゃないなら、それでいいわ」
◇
村の奥――苔に覆われた大木の根元に、小さな館が建っていた。
リディアはそこに立つ扉をノックする。
「リディアです。長に報告が」
「入れ」
低く響く声。
扉を開けると、長老と思しき男が炉の前に座っていた。
白髪と長い耳。 瞳は灰色に濁っているが、底に鋭い光が宿っている。
「ほう……人間か。 実に珍しいものを連れてきたな」
「森で倒れていました。魔獣に襲われていたようです」
「そうか」
長と呼ばれた男はゆっくり立ち上がると、私を観察するように見つめる。
その視線には冷たさがあるのに、声は妙に柔らかかった。
「怖がらずともよい。私はこの村の長、エルネスという。君の名は?」
「アリス=クロフォードです。 助けてくださってありがとうございます」
「礼など不要。 我らは外との交流がとぼしく、客人など久しい。 しばらく滞在していくといい」
その言葉に、私は少しだけ安堵した。
けれど、隣のリディアがほんの一瞬だけ眉をひそめたのを、私は見逃さなかった。
エルネスは、ゆっくりと椅子に腰掛ける。
「それにしても……実に面白い。 君の言葉が、私にははっきりと理解できる。 人間の言語を、私の耳がそのまま“我らの言葉”として認識している。 これは……人間特有の魔術か?」
「え……? 私、魔術なんて使ってないです。 ただ普通に喋ってるだけで」
「ふむ……」
長の瞳が光を帯びる。
その奥に、一瞬だけ獣のような興奮が宿ったのを、私は感じ取った。
「アリス。君は特別な力を持っている。 神が授けた祝福かもしれん。 この魔族の大陸では“異なる言葉”が大きな壁となっておる。 君の力は……実に価値がある」
価値、という言葉に、微かな違和感が刺さる。
でも、私は疲れ切っていて、それを深く考える余裕もなかった。
「ありがとうございます……」
「リディア。 お前はこの娘の世話係だ。 外の連中には近づかせるな。 余計な噂が立つと面倒だ」
「……わかりました」
リディアの声は冷ややかだった。
その背中を、長は慈父のような笑みで見送っていたが……その笑顔の奥で、何かが蠢いていた。
─
リディアの家は、村の外れにあった。
他の家々からわざと距離を取るように建っている。
壁には無数のひび、窓からは風が漏れていた。
「ここ、私の住処。……落ち着かないだろうけど」
「ううん、助かる。ありがとう、リディア」
私はほっと息をついた。
松明の光がリディアの髪を照らすと、闇に溶けるような銀髪が美しく揺れた。
ダークエルフ特有の彼女の銀髪は美しかった。 でもその美しさが、彼女にとっては呪いなのだろう。
「長さん、穏やかな人だったね」
私の言葉に、リディアは一瞬黙り、かすかに笑った。
「……あの人を信じるなんて、よほどの物好きね」
「え?」
「見た目は穏やかでも、彼は“価値”でしか人を見ない。 私みたいに価値のない者は、存在ごと見えないのよ」
その声に、わずかな震えがあった。
私は言葉を失い、ただ薪を見つめた。
パチパチと火が弾ける音が、沈黙を埋める。
「それに、あなた……危機感が足りないわね」
「危機感?」
「通訳できるなんて、誰もが欲しがる力。 あの人が“優しい”のは、今だけよ。 きっと何かに利用される。
……もし、そうなったら」
リディアは言葉を切り、炎の奥を見つめた。
「……まぁ大丈夫でしょ」
「楽観的ね……でも覚えておいて。 絶対にあの人を信頼してはだめ」
「う……うん」
リディアの真剣な表情に私は小さく頷くのだった。
─
翌夜。
リディアは水汲みの帰りに、偶然聞いてしまった。
長の屋敷の裏で、兵士たちが話している。
「人間の娘、どうするんだ?」
「長は笑ってたぜ。 “あの娘の力が本物なら、王城に献上する。 通訳奴隷としてな”ってな」
「ははっ。忌み子が拾ってきたってのが笑える話だ」
水桶が手から滑り落ちた。
リディアの心臓が早鐘を打つ。
(やっぱり……あの人、最初から……!)
夜風が頬を刺す。
焚き火の残り香の中で、リディアは静かに息を呑んだ。
「アリス……。次の朝が来る前に、出るわよ」
そう呟いた声は、決意と恐怖の入り混じった震えを含んでいた。




