胸は控えめ
1
「旅行? こんなときに?」
橘幸助は、教室の窓側にもたれかかってコーヒー牛乳を飲みながら目を剝いていた。それを俺は見ながら、そんなオーバーリアクション、取らなくても、と思っていた。
今日は夏休みの補習だ。本当は俺は休みたかったのだが、父親の目も光っているので、参加せざるを得なかった。
「いいか、俺たちは受験生だ。何度も言ってるようにお前には将来があるし、ゲームだけがすべてじゃない。それに、秋月さんも受験がある。少しは遠慮というものをだな——」
「はいはい。分かってるって。飼い主のことは飼い犬が一番分かってるから」
そしたら橘が俺の胸ぐらを掴んでくる。
「……悪い……」
「もういいよ」
橘はそう言い残して教室の前方へと向かっていった。
「くそっ、何なんだよ。受験生だとか……将来だとか」
妹の眞衣は、そんなもの全部諦めてしまっているんだよ。なのに、俺だけ大学や専門学校に入校して、安全圏でゲームを制作したものを眞衣にやらせて、なんのメッセージが伝えられるんだよ。
気分を変えるために窓を開けた。じりじりと蝉の鳴く声が聞こえる。熱波が顔を撫でる。もう夏だ。
「ねえ、ワンコ君——」
「えっ」
俺は、唐突に声を掛けられて(もう自分のことを犬だと認知しているのは、残念なことだが)振り向いた。
「明日、一緒に海水浴に行かない?」
「あっ、だったら和歌山県にロケハンに行かないか? 大竹や水穂さんを誘って」
俺がそう言うと、海水浴に行かない? と言ってきた秋月が唇を尖らせて拗ねるアピールをした。それがどこか可愛らしかった。
すると、彼女は人差し指で俺の胸にハートを描いた。「本当は、二人きりでデートのつもりだったんだけどな」
「そう、そんな……マジっすか」
そしたら意地悪な笑みを浮かべて、「バーカ、ワンコの散歩のつもりだっただけよ」なんて言ってくる。
「俺は、いったいいつになったら人間になれるんだ?」
「そうねえ……」
そして、彼女は満面の笑みを見せた。
「妹さんをゲームで泣かせたら、じゃない?」
俺はその言葉を聞いて、心から安堵した。まだ俺の生き方に賛同してくれる人がいるんんだ。
たとえ、その選択が間違っていたとしても。
妹のためだったら、人生なんて詰んでもいいから、妹をただただ救いたいんだ。
その覚悟を認めてくれる人がいてくれることが、今の俺にはとても嬉しかった。
2
ロケハンという名の、旅行が八月三日に訪れた。
俺は、いま欲情という性欲と格闘している。
……そのわけは——。
「うっ、はあ、はあ、んっ」
こんなにも喘いでいるのは、秋月だ。現在、海水浴に来ていて秋月の背中に日焼け止めを塗っているのだが、例によって彼女は体に触れられるのが弱い。
そして、俺も股間が痛い。
「はあ、ありがとっ。じゃあ泳いでくるわね」
「ああ。行ってこい」
彼女は豊満な胸を揺らしながら海に入っていった。
すると肩を小突かれた。振り返ると顔を真っ赤にしている大竹がいた。
「えっ? どうした?」
「菜穂ちゃんの肌に触れて、嬉しがってるんじゃないわよ」
俺の恋人が、ぷんすかと怒っている。
両手を合わせて俺は謝った。もう勃起は収まった。
「ごめん。ごめん」
そしたら大竹は俺が座っていたレジャーシートの上に座って、持っていたカゴの中からサンドウィッチを取り出した。
「ありがとう」
サンドウィッチを齧ると、マヨネーズの酸味とマスタードの辛みが舌を転がった。美味い。咀嚼していると彼女は羽織っていたパーカーを脱いだ。胸は控えめだ。もう一度言う。胸は控えめだった。
「今、失礼なこと考えていたでしょ」
「い、いやあ……」
「胸が小さいなあ、とか。ごめんなさいね、菜穂ちゃんのほうが大きいもんね」
「いや、違うんだ。俺は尻とタッパのでかい女が好きなんだ」
「どっちとも私とは違うじゃない。このアホ‼」
ふん、とそっぽを向く大竹。俺はその様子もどこか可愛くて笑った。
「なに笑ってるのよ」
「いや、可愛いなって思ってさ。さすが俺の恋人だ」
すると大竹の顔が真っ赤になった。「ば、馬鹿にしてんじゃないわよ……うう、本当に思ってる?」
「ああ。最高の恋人だあ」
「ああ‼ 菜穂ちゃんが‼」
「えっ、どうした」
突然、大竹が海のほうに指差した。秋月が溺れているのかと、視線を海へと移すと頬に違和感が起こった。やわらかい感触が触れてきたのだ。その数秒後、俺はキスをされたのだと感じた。彼女のほうを見ると、照れながら上目遣いで、「ファーストキス、どう?」と訊ねてきた。いや、どうと言われても……困るんだが……。
「いや、その、俺もこういうの初めてだったから……」
俺も照れてしまって彼女のほうから目線を逸らしてしまった。
ぎこちない空気が流れる。
「ふたりとも、なにしてんの?」
自販機でジュースを購入してきていた、水穂が様子を窺ってきた。
「いや、別になあ。ねえ、大竹」
「そ、そうだねえ。俊くん」
すると穿った目で「本当にい?」と訊ねてきた。
「まあ、別にキスしようが“裸見せ合おうが"どっちでもいいんだけどね」
「えっ、それはキモイ」
「……」
沈黙が、少しのあいだ場を占領した。




