第92話 皇帝陛下、ハーグへ行く
【ライル視点】
『アヴァロン帝国歴163年 10月21日 夜』
その夜、僕は、ほとんど一睡もできなかった。
皇帝のしつこい要求からどう逃げるか、考えを巡らせていたから……というわけではない。理由は、もっと単純で、そして、ひたすらに迷惑なものだった。
コン、コン……。
夜更けに、控えめなノックの音がしたかと思うと、侍女に案内されて、一人の女性が部屋に入ってきた。絹のように薄い衣を一枚まとっただけの、とても綺麗な人だった。彼女は、僕に妖艶な笑みを向けてくる。
「ライル侯爵様。陛下より、今宵のお相手を、と……」
「お待ちください」
女性が言い終わるよりも早く、僕の部屋の隣室から、氷のように冷たい声が響いた。いつの間にか、音もなく現れたヴァレリアが、その翠色の瞳で、女性を射抜くように見つめている。
「我が主は、長旅でお疲れです。お引き取りを」
その有無を言わさぬ迫力に、女性は青ざめて、慌てて部屋から逃げ出していった。
だが、それで終わりではなかった。一時間後には、また別の、今度は活発そうな雰囲気の女性が。さらにその一時間後には、二人組の、双子だという美女たちが……。
そのたびに、どこからともなく現れたヴァレリアが、全員を、問答無用で追い返していく。
(……ユリアン皇帝、あの手この手で、僕を懐柔しようとしてるんだ……。でも、一番迷惑してるのは、眠れない僕なんだけどなあ……)
そんな攻防が、夜明けまで続いた。
翌朝。すっかり寝不足で、目の下にクマを作った僕の前に、ユリアン皇帝は、実に楽しげな顔で現れた。
「どうだ、ライル。昨夜は、よく眠れたか?」
その、からかうような一言に、僕の中で、何かが、ぷつりと切れた。
「陛下! そんなにあの銃が欲しいなら、僕に言ったってダメです!」
「ほう?」
「あれは、妻のアシュレイが、僕の国の兵士たちのために、一生懸命考えて作ったものなんです! だから、陛下がどうしても欲しいって言うなら、ハーグまでご自分で買いにきてください! そして、作ったアシュレイ本人に、直接お願いしてください!」
僕が、半ばヤケクソでそう言い放つと、皇帝は、きょとんとした後、腹を抱えて笑い出した。
「ククク……面白い! よかろう! ならば、今すぐハーグへ行くぞ!」
その、あまりに軽い決断。僕も、そしてその場にいた衛兵たちも、あっけに取られていた。
僕と皇帝が、慌ただしくハーグへ向かう準備をしている、その様子を、宮殿の廊下の隅から、二人の貴族が、深いため息と共に見つめていた。ランベール侯爵と、ヴェネディクト侯爵だ。
「……やれやれ。陛下を、あのような得体の知れぬ若造と、二人きりで行かせるわけにはまいりませんな」
「うむ。帝国の財政と、未来の軍事技術が、あの北の地で、衝動買いの如く取引されては、たまったものではない。我々も、同行するとしよう」
こうして、僕と皇帝、そしてなぜか帝国の重鎮である二人の侯爵様まで加わった、奇妙な一団が、首都ハーグを目指すことになった。
数日後。ハーグの城、アシュレイの工房。
僕たちの突然の帰還と、皇帝陛下ご一行の来訪に、アシュレイは、少しだけ面倒くさそうな顔をした。
「ふーん、それで、私の最高傑作を、陛下がお望みだと」
彼女は、工具を置くと、腕を組んで、じろりと皇帝を見据えた。
「お断りっスね」
「なっ……!」
「だって、思い出してくださいよ。前に、私が火縄銃を開発した時、陛下はそれを帝国の標準装備として、勝手に量産しましたよね? その時、この私に、銅貨一枚たりとも、入ってこなかったんスけど! 発明家への敬意ってものが、なさすぎじゃないスか!?」
アシュレイの、あまりに率直で、正当な不満。皇帝は、ぐっと言葉に詰まっている。
彼女は、ふんと鼻を鳴らすと、続けた。
「だいたい、この新型銃は、そんなに簡単には作れないんスよ。言葉で説明しても、どうせわからないでしょうから……」
アシュレイは、にやりと、挑戦的な笑みを浮かべた。
「ついてきてください。貴族のお歴々には、退屈な工場見学かもしれませんが、我がヴィンターグリュン王国の、本当の力の源泉を、見せてあげますよ」
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