第78話 狼煙
【ライル視点】
『アヴァロン帝国歴163年 2月10日 昼 雪』
帝都での政治闘争は、泥沼の様相を呈していた。
ダリウス公爵が提案した二つの法案は、ランベール侯爵やヴェネディクト侯爵といった、僕の側に立つ者たちの反対によって、なんとか成立を阻止できてはいる。だが、それは、かろうじて押し返しているだけ。東方諸侯たちの、僕たちに対する敵意は、日増しに強まっているようだった。
(うーん……。話し合えば、いつかは分かってくれると、思うんだけどなあ……)
僕は、執務室の窓から、しんしんと降り積もる雪を眺めていた。こんな寒い日でも、城下では子供たちの元気な声が聞こえてくる。この平和を、どうすれば守れるんだろう。そんなことを、ぼんやりと考えていた時だった。
執務室の扉が、凄まじい勢いで開かれた。息を切らし、肩で息をしながら飛び込んできたのは、交易担当のビアンカだった。その顔は、怒りと、そして悲しみで、青ざめていた。
「ライル様! 一大事にございます!」
彼女が差し出した報告書には、信じがたい事実が記されていた。
ダリウス公爵の支配下にある、東方の港町アイゼンポルト。その街が、昨日、ヴィンターグリュン王国との全ての交易を、一方的に遮断したというのだ。
「なんて、勝手なことを……!」
「それだけでは、ございません……」
ビアンカの声が、震えていた。
「アイゼンポルトに駐在していた、我がヴィンターグリュン商会の代表、アントニオが……。港の遮断に抗議した、その日の夜に……」
アントニオ。ビアンカが、最も信頼していた部下の一人だ。陽気で、仕事熱心で、いつも僕に、東方の面白い土産話を聞かせてくれた、あの男の顔が浮かぶ。
「……荷馬車の事故で、崖から転落した、と。ですが、その日は雪も降っておらず、道が凍っていたわけでもありません。これは……これは、事故などでは……!」
ビアンカは、悔しさに、唇をきつく噛み締めていた。
僕は、報告書を机の上に置いた。指先が、冷たくなっていくのを感じる。
事故に見せかけた、殺人。ダリウス公爵からの、明確な、そして、あまりに卑劣な『宣戦布告』だった。
執務室が、氷のような沈黙に包まれる。
その沈黙を破ったのは、僕の、自分でも信じられないほど、静かで、冷たい声だった。
「……アントニオに、家族はいたのかい?」
「……はい。ハーグの街に、奥様と、まだ小さい娘さんが、一人……」
僕は、窓の外に目をやった。
雪遊びをする、子供たちの無邪気な笑顔が見える。僕の息子たち、レオとフェリクスも、娘のアウロラも、今頃、城の中で、母親たちに囲まれて、笑っているだろう。
アントニオにも、僕と同じように、守るべき家族がいた。帰りを待つ、愛する人がいた。
それを、あの男たちは、ただの政治の駆け引きのために、虫けらのように、踏みにじった。
(……もう、いい)
僕の中で、何かが、ぷつりと、音を立てて切れた。
話し合い? 分かり合う? そんなものは、ただの幻想だったんだ。
言葉が通じない相手には、言葉以外の方法で、教えるしかない。
僕は、振り返り、部屋にいる仲間たちを見回した。ヴァレリア、ユーディル、ビアンカ……。誰もが、固唾をのんで、僕の次の言葉を待っていた。
「これまで、僕たちは、あまりに我慢をしすぎた」
僕は、静かに、しかし、一言一言に、鋼のような意志を込めて、告げた。
「だが、もう終わりだ。僕の民に牙をむく者は、誰であろうと、容赦しない」
僕は、ヴァレリアの目を、まっすぐに見つめた。
「ヴァレリア。王国全軍に、出撃準備を命じてくれ。ユーディルは、東方諸侯領内の、闇ギルドの者たちに、支援を要請。ビアンカは、軍資金と兵站の最終確認を」
僕の、普段とはあまりに違う、冷徹な命令。
だが、誰も、異を唱えなかった。ただ、力強く、頷くだけだった。
「目標は、東方諸侯の、完全なる屈服。僕たちの国の平和を脅かす者は、根絶やしにする」
東方の地に、動乱の狼煙が上がった。
それは、僕が初めて、自らの明確な意志で、他者を滅ぼすために起こす、戦いの始まりだった。
もう、後戻りはできない。
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