第70話 え~っ、今度は砂糖が流行!? 貿易が追いつかないよ~っ!
【ユリアン皇帝視点】
『アヴァロン帝国歴162年 7月25日 夜』
帝都の夜は、静かだ。
朕は、山と積まれた政務報告書を脇に押しやり、侍従が淹れたばかりの黒い液体……『珈琲』のカップを手に取った。鼻をくすぐる、香ばしくも苦い香り。これを飲むと、不思議と頭が冴える。
(ククク……面白いものよな)
朕がこの珈琲を気に入った、ただそれだけのことで、帝都の貴族どもは、まるで神の御言葉でも授かったかのように、我先にとこれを求め始めた。今や、屋敷のサロンで珈琲を嗜むことが、一流の貴族の証、だそうだ。滑稽な話よ。
だが、正直に言えば、この苦味は、少々強すぎることがある。特に、このように夜が更け、疲労が溜まってくると、な。
朕は、実は微糖派なのだ。
これまでは蜂蜜を少量溶かして飲んでいたが、どうも蜂蜜の強い風味が、珈琲本来の香りを邪魔するように思えてならなかった。
(あの男……ライルは、これをどう飲んでおるのだ? まさか、この苦いだけの液体を、美味い美味いと飲んでいるわけではあるまい。……あるいは、何か、まだ隠しておるのか?)
朕は、侍従を呼ぶと、書記官に命じて、あの『黄金艦隊』が持ち帰ったという、全物資の目録を持ってこさせた。
珈琲豆、カカオ、見たこともない芋や薬草……。その中に、朕の目は、一つの記述を見つけて、釘付けになった。
『サトウキビ:葦に似た植物。茎を絞れば、蜜のように甘い汁が採取できる』
(……ほう。これか)
蜜のように、甘い。しかし、蜜ではない。
朕は、にやりと口の端を歪めた。あの男、またしても面白い玩具を、隠し持っていたようではないか。
朕は、ライルが献上した山のような土産の中から、そのサトウキビなるものを探し出させ、城の料理人に、その「甘い汁」を精製し、結晶化させるよう命じた。
数日後。朕の元には、雪のように白く、陽の光を浴びてキラキラと輝く、小さな結晶の山が届けられた。これが『砂糖』。
朕は、早速、淹れたての珈琲に、銀の匙でその砂糖を一杯、そっと落としてみた。かき混ぜると、結晶はすうっと黒い液体の中へと溶けて消える。
カップを口に運び、一口、味わう。
(……!!)
これだ。
珈琲の持つ豊かな香りを、一切損なうことなく、あの角の立った苦味だけを、見事に和らげている。そして、後に残るのは、上品で、すっきりとした甘さの余韻。蜂蜜とは、まるで違う。これは、珈琲という飲み物を、完成させるための、最後のピースだったのだ。
(ククク……あの男、この飲み方を知っておって、黙っておったか。いや……違うな。あやつは、どうせ何も考えとらん。ただ、別々のものとして、持ち帰ってきただけよ)
その方が、よほど面白い。
翌日、朕は帝城のサロンに、ダリウス公をはじめとする、主だった諸侯を集めた。
まず、いつも通り、珈琲をブラックで振る舞う。諸侯どもは、さも知ったような顔で、その苦味を称賛している。
頃合いを見計らい、朕は、侍女に『砂糖』の入ったクリスタルの器を運ばせた。
「皆、よく聞け。それは『砂糖』という、珈琲豆よりもさらに希少な、新大陸の至宝だ」
朕はもったいぶって、こう宣言した。
「珈琲をそのまま飲むのも良い。だが、真の通人は、この砂糖を少量加え、その味の変化を嗜むものよ」
その一言で、サロンの空気は一変した。諸侯たちの目が、目の前の白い粉に、欲望の色を浮かべて釘付けになる。
そして、彼らが、砂糖入りの珈琲を初めて口にした瞬間、帝都に、新たな熱狂が生まれた。
数日後。朕の元には、面白い報告が、次々と舞い込んできた。
帝都では、珈琲豆の数倍の値で、砂糖が取引されていること。ヴィンターグリュン王国の交易館には、砂糖を求める貴族たちの使者が、昼夜を問わず押し寄せ、門前で騒ぎを起こしていること。
朕は、執務室で、完璧な一杯に仕上げられた珈琲を優雅に味わいながら、その報告書に目を通し、一人、声を殺して笑った。
(ライルよ、今頃、頭を抱えておる頃だろうな。さあ、この新たな騒動、どう乗り切る? 実に、見ものよな)
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