第66話 ライル……帰らないで……
【アズトラン帝国女皇帝 シトラリ視点】
『太陽暦 999年 3月10日 夜』
妾は、アカツキの都に滞在するようになってから、機会を見つけては、ライルに子種をねだった。真の光を導く王の子を宿すこと。それは、偽りの神に民の血を捧げ続けてきた、皇帝としての、唯一の贖罪だと信じていたからじゃ。
「王よ、今宵も……妾の務めを、果たさせてはくれぬか」
ライルはそのたびに、少し困ったように笑いながらも、「しかたないなぁ」という風に、妾の求めに応じてくれた。
その隣に控える、ヴァレリアとかいう銀髪の女騎士の視線が、氷のように冷たく、厳しかったが、そんなものは無視することにした。この男の隣に立つのは、妾じゃ。
数日後、妾は自らの体の確かな変化に気づき、一人、部屋でほくそ笑んでいた。
(ふふっ、よいぞよいぞ、月のものがきておらぬ)
きっと、宿ったに違いない。ライルの、子を。
満足げに果実水を味わっておると、隣にいたライルが、ふと、遠い目をしてぽつりと呟いた。
「ハーグ豚……食べたいな……」
(えっ……?)
妾は、その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。ハーグ豚? なんじゃ、それは。妾の知らぬもの。妾の国にないもの。
この世の全てを持つはずの妾が、この男に与えてやれぬものがある。その事実が、ずしりと重い鉛のように、妾の胸に沈んだ。
そして、ついに、ライルたちが故郷へと帰る日が来た。
結局、このアカツキの都だけは、ヴィンターグリュン王国の海外領土として、なんとか受け取ってもらえた。妾が、半ば無理やり押し付けた形じゃがな。
出航の日。港に並ぶ巨大な船の船倉には、妾が命じて用意させた、ありったけの贈り物が、次々と運び込まれていく。
極上の珈琲豆に、蜜より甘い砂糖。この大陸でしか育たぬ、珍しい果物や野菜の種子とその栽培法……。妾の国に山とある黄金も、積めるだけ積ませた。できるだけすべてを与えたかった。あの、ハーグ豚とやらの代わりになるように。
「ありがとう、シトラリ。こんなにたくさん」
「気にするな。……だが、王よ。いずれ、そのハーグ豚とやらも、妾に献上せよ。今度は、妾がそなたに食べさせてやるからの」
妾がそう言うと、ライルは「うん、わかった!」と、子供のように屈託なく笑った。
錨が上がり、船がゆっくりと港を離れていく。遠ざかっていくライルの姿を、妾は、ただ、じっと見送った。
(泣いてばかりもいられぬ)
艦隊の姿が水平線の彼方に見えなくなった時、妾はきつく唇を噛み締めた。
これから、国は荒れるじゃろう。古くからの太陽神を信じる者たちが、必ずや反旗を翻す。抵抗する者も、妾の命を狙う者も、山と現れるに違いない。
(よい。全て、この手で叩き潰してくれるわ)
妾は、自らの腹を、そっと優しく撫でた。この中にいる、新しい命。ライルが、この地に遺してくれた、唯一の光。この子のためにも、妾は、負けるわけにはいかぬ。
妾は、踵を返し、供回りに向かって、威厳を込めて命じた。
「さあ、帰るぞ。我らが帝都、太陽の都トナティウカンへ」
そして、小さく付け加える。
「……できるだけ優しく、ゆっくりと進め。腹の子を、揺らすでないぞ」
「とても面白い」★五つか四つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★二つか一つを押してね!




