第57話 遠征準備と鉄の保存食 わあ、アシュレイが缶詰を作ってくれたよ!
【ライル視点】
『アヴァロン帝国歴162年 10月10日 昼 晴れ』
帝都での評議会から数日後。ヴィンターグリュン王国の城では、遠征に向けた第一回の作戦会議が開かれていた。しかし、その空気は、僕が思っていたよりもずっと重苦しいものだった。
「……新大陸までの航海は、順風満帆でも片道およそ一ヶ月。往復で二ヶ月。現地での作戦期間を含めれば、最低でも三ヶ月分の補給が必要となります」
ヴァレリアが、地図を指し示しながら冷静に報告する。
「三ヶ月……。それだけの期間、兵士たちの食料を、どうやって船上で維持するのですか。塩漬け肉や干しパンだけでは、兵たちの士気も、健康も、到底保てません。それに、水も……」
農業担当のゲオルグさんが、頭を抱えてうめく。西の交易を担うビアンカも、難しい顔で腕を組んでいた。
「これだけの規模の艦隊を動かすとなれば、費用は天文学的な数字になりますわ。我が国の財政が、根底から揺らぎかねません」
皆が、それぞれの立場から、この遠征がいかに無謀であるかを語っている。その深刻な雰囲気に、僕もだんだん不安になってきた。
(そっかあ……船で一ヶ月って、ただ行くだけでも、すごく大変なことなんだなあ……)
僕は、皆の難しい話をじっと聞きながら、一つだけ、わかったことがあった。
「うーん……つまり、一番の問題は、長い旅でも腐らなくて、しかも美味しいご飯が食べられないこと、なんだよね?」
僕の、あまりに単純なまとめ方に、会議室にいた全員が、ぽかんとした顔で僕を見た。僕は、そんな皆の顔を見回して、一つの考えに思い至る。
「……そうだ! アシュレイなら、何かいい方法を知ってるかもしれない!」
僕は、作戦会議を途中で抜け出すと、足早にアシュレイの工房へと向かった。
工房の中は、相変わらず様々な設計図や金属部品で散らかっている。その中心で、アシュレイさんは、レオのための新しいからくり玩具でも作っていたのか、楽しそうに鼻歌を歌っていた。
「アシュレイ、大変なんだ! お願いがあるんだけど!」
僕が駆け込むと、彼女はきょとんとした顔でこちらを振り向いた。
「どうしたんスかライル。そんなに慌てて」
「あのね、長旅でも腐らなくて、しかも、ちゃんと美味しい食べ物を、どうにかして作れないかな? 何か、すごい発明でさ!」
僕の無茶なお願いに、アシュレイは一瞬、うーん、と腕を組んで考え込んだ。そして、次の瞬間、彼女の片眼鏡の奥の瞳が、カッと見開かれた。
「……なるほど。食品の、長期保存……。理論上は、可能っスよ!」
彼女は、近くにあった羊皮紙の裏に、炭でさらさらと図を描き始めた。
「金属の容器に、調理した食べ物を詰めて、完全に密閉するんス。その後、容器ごと、よーく加熱して、中にいる悪い菌を、全部やっつけちゃうんスよ。そうすれば、理論上は、半永久的に食べ物が保存できるはずっス!」
僕には難しい理屈はよくわからない。でも、アシュレイが「できる」と言うなら、きっとできるんだ。
僕たちは早速、試作品作りに取り掛かった。
厨房から、ハーグ自慢の黒豚をたっぷり使ったトマトシチューをもらい、鍛冶屋に作らせたブリキの筒に、それをなみなみと注ぐ。そして、アシュレイが半田ごてを巧みに操り、蓋を完全に密閉してしまった。僕たちは、その鉄の筒を、大鍋でぐつぐつと煮込んだ。
そして、数日後。
僕とアシュレイ、そして話を聞きつけたヴァレリアやゲオルグさんが、固唾をのんで見守る中、アシュレイが鉄の筒の蓋を、特別な道具で切り開いた。
ぷしゅ、という音と共に、中から、数日前に嗅いだのとまったく同じ、食欲をそそるトマトシチューの香りが、ふわりと立ち上った。
「すごい! 腐ってない! 匂いも、完璧っス!」
アシュレイが興奮して叫ぶ。僕は、おそるおそる、そのシチューをスプーンですくって、一口、食べてみた。
「……おいしい! 作った時と、まったく同じ味だ!」
その一言に、その場にいた全員から、わっと歓声が上がった。
僕は、この鉄の筒が、新大陸遠征の成否を握る、最高の切り札になることを確信した。
「よし! これだ! アシュレイ、この『缶詰』を、作れるだけ作ってほしい!」
僕は、振り返って、集まった仲間たちに、次々と指示を飛ばした。
「ビアンカは、帝国中から、鉄とブリキをあるだけ買い付けてきて! ゲオルグさんは、缶詰に入れるための、最高のシチューとスープの準備を! ヴァレリアは、兵士たちに銃と弾薬の生産を、さらに急がせるんだ!」
僕の、いつになく力強い号令に、皆が、力強く頷いた。
その日から、ヴィンターグリュン王国は、一つの巨大な工場へと姿を変えた。
城下では、兵士たちが昼夜を問わず銃の訓練に励み、鍛冶場からは、槌の音が絶え間なく響き渡る。そして、城の一角には、大量の缶詰を生産するための、新しい作業場が、急ピッチで建設され始めていた。
来るべき、未知の敵との戦いに向け、僕の国が、一つになって動き出した、その瞬間だった。
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