第47話 赤い果実の誘惑と、厨房の革命 要はトマトの話っス
【アシュレイ視点】
『アヴァロン帝国歴160年 8月10日 昼 快晴』
最近の私は、火薬や金属の匂いではなく、息子のレオが放つ、ミルクの甘い匂いに包まれる毎日を送っていた。発明家としての血が騒がないわけではないけれど、この腕の中にある小さな温もりは、どんな大発明にも代えがたい宝物だ。
(……でも、まあ、ちょっとだけ、ウズウズするっスよね)
工房の片隅で、レオのための新しいからくり玩具の設計図を眺めていた、その時だった。農業担当のゲオルグさんが、興奮した様子で駆け込んできた。
「アシュレイ様! ついに、ついに……! 皇帝陛下から賜った、あの『赤い果実』が、収穫の時を迎えましたぞ!」
彼が差し出したカゴの中には、太陽の光を吸い込んで、ルビーのように輝く、つやつやとした赤い実が山盛りになっていた。トマト、だったね。未知の植物。未知の成分。未知の可能性……!
私の発明家としての魂が、久々に、激しく燃え上がるのを感じた。
その日の午後。城の厨房は、ただならぬ熱気に包まれていた。
テーブルの中央に置かれた真っ赤なトマトを、ヴィンターグリュン王国が誇る女性陣が、ぐるりと囲んでいたのだ。
「まずは、生で安全性を確認すべきっス! 毒性がないか、アレルギー反応は出ないか、きっちり分析しないと!」
私がそう主張すると、フリズカさんが腕を組んで言った。
「まあ、見た目は美味しそうですけれど。煮込み料理にすれば、きっと良い出汁が出ますわ」
「東方の我が国では、これを薄く切って、天日で干し、保存食といたしますのよ」
ファーティマちゃんが、故郷の知識を披露する。
「……万が一、毒があってはなりませぬ。奴隷のわたくしが、まず、毒見を……」
ヒルデさんが、いつもの調子で申し出る。
皆が好き勝手なことを言う中、私は「まずは成分分析っス!」と、トマトの一つを掴み、すり潰すための乳鉢を用意した。
その、まさにカオスな会議の場に、ひょっこりと顔を出したのは、我らが王様、ライルさんだった。
「あれ、みんな集まって何してるの? ……わ、なんだか綺麗な実だね!」
彼は、私たちの議論などお構いなしに、テーブルの上のトマトを一つ、ひょいとつまみ上げた。
「あ、ライル様! まだ安全性が確認できていま……!」
私の制止の声も届かず、ライルさんは、その真っ赤な果実を、りんごでもかじるように、がぶりと一口でいった。
「ん! これ、甘くて酸っぱくて美味しい!」
その、あまりにも単純明快な一言で、厨房の空気が変わった。
ライルさんの「美味しい」という、最高のお墨付きを得た私たちは、一気に調理実習へと雪崩れ込んだ。
大きな鍋にトマトを放り込み、木べらでかき混ぜる。ぐつぐつと煮詰めていくうちに、酸っぱい香りが、やがて芳醇で、食欲をそそる香りへと変わっていった。
「見てください! なんだか、とろりとしたソースのようになってきましたわ!」
「すごい! これ、パンに塗ったら絶対美味しいっスよ!」
私たちは、出来上がったばかりのトマトソースを、焼きたてのパンにたっぷり塗って、一斉に口に運んだ。
「「「……おいしいっ!」」」
全員の声が、綺麗にハモった。
トマトの自然な甘みと、爽やかな酸味。加熱することで生まれた、深いコク。それは、私たちが今まで知らなかった、まったく新しい味覚の世界だった。
さらに、そのソースを、こんがりと焼いたハーグ黒豚のソテーにかけると、もはや言葉にならないほどの、衝撃的な美味しさが口の中に広がった。
その夜、私はレオを抱きながら、厨房での革命の余韻に浸っていた。
爆薬が戦争を変えたように。銃が騎士の時代を終わらせたように。この小さな赤い果実が、人々の食卓を、暮らしを、根底から変えるかもしれない。
(そっか……。発明って、何かを壊したり、守ったりするだけじゃないんスね)
人々の生活を豊かにし、笑顔にする。そんな「発明」も、あるんだ。
私は、隣で満足そうにトマトソースのついたパンを頬張るライルさんの顔を、そっと盗み見た。
この、常識にとらわれない王様の隣にいれば、私の発明家としての世界も、きっと、もっともっと、面白く広がっていくに違いない。
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