第344話 雪解けのバーボン
【ルースキア皇帝イヴァン視点】
『アヴァロン帝国歴180年 4月29日 クラスノグラード皇宮 謁見の間』
朕は、怖がりすぎていたのではないだろうか?
玉座に座り、目の前に立つ三人の人物を見下ろしながら、朕は自問していた。
アヴァロン帝国皇帝ライル。その妃ヴァレリア。そして重鎮グレン公。
かつて朕が「西の虎」と恐れ、警戒していた者たちだ。
だが、昨夜、給仕の姿で現れたライルという男には、一片の殺気も、野心的なぎらつきもなかった。
「……して、ライル殿。貴国の要求を聞こう。交易を望むならば、相応の対価が必要であろう?」
朕は努めて威厳を保ち、問いかけた。
我が国が誇る地下資源か、それとも領土の割譲か。どんな無理難題を吹っかけられるかと身構えていた。
しかし、ライルはきょとんとした顔で、とんでもないことを言った。
「条件? うーん、一つだけあるよ」
「申してみよ」
「あの、牢屋に入っているジューコフ将軍って人、解放してあげたら? なんならウチで引き取るよ」
「……は?」
朕は耳を疑った。
ジューコフ。かつての英雄だが、先の戦争での敗戦責任を問われ、朕が投獄した老将軍だ。
政治的な価値など、もはやないに等しい。
「彼だけで、よいのか?」
「うん。優秀な人だって聞いてるし、飼い殺しにするのはもったいないよ。ハーグに来れば、美味しいラーメンも食べられるしね」
ライルは事も無げに笑った。
底が知れない。いや、あるいは本当に底がないほど純粋なのか。
朕はため息をつき、頷いた。
「よかろう。ジューコフの身柄は貴国に預ける。……好きにするがよい」
「ありがとう! 話が早くて助かるよ!」
その夜、宮殿で歓迎の宴が開かれた。
堅苦しい形式は抜きにして、ライルが持ち込んだ酒が振る舞われた。
「さあ、イヴァン君も飲んで!」
ライルがグラスに注いだのは、琥珀色の液体。『ハーグ・バーボン』だ。
一口含むと、芳醇な樽の香りと共に、カッとした熱さが喉を駆け抜けた。
「……美味い」
気付けば、朕の肩から力が抜けていた。
酔いが回るにつれ、これまで抱えていた猜疑心や恐怖が、どうしようもなく馬鹿馬鹿しく思えてきた。
朕は何を怯えていたのだ。こんなに話の通じる相手に、門を閉ざして。
朕は、酔いに任せて、長年の悲願を口にしてみた。
「……ライル殿。我が国は、冬になると海が凍る。……南の、凍らない港が欲しいのだ」
それは、歴代皇帝が血道を上げてきた侵略の動機だ。
言った瞬間、場の空気が凍るかと思った。
だが、ライルはバーボンを煽りながら、軽く手を振った。
「ああ、いいよ。フィオラヴァンテの港、一部貸してあげる」
「……なっ!?」
隣で宰相ヴィクトルがワインを吹き出しそうになっていた。
フィオラヴァンテといえば、西方の要衝ではないか。
「いいのか? あそこは軍事的にも重要な……」
「だからこそ、仲良く使えばいいじゃない。ルースキアの船が来れば、ハーグも賑わうし。ウィンウィンってやつだよ」
ライルはニカッと笑った。
その笑顔を見たとき、朕の中で何かが完全に音を立てて崩れ、そして溶けた。
雪解けだ。朕の心の中の、長い冬が終わったのだ。
「……くっ、ふふっ、ははははは!」
朕は腹を抱えて笑った。皇帝になってから、こんなに笑ったのは初めてだった。
「本当に、本当に朕は……今まで何をしていたのであろうな……」
饗宴は数日にわたって続いた。
そして今日、ライル一行が帰路につく日が来た。
朕は宮殿のバルコニーから、彼らの車列を見送っていた。
広場には、多くの民衆が集まっていた。
彼らはライルの車に向かって手を振り、感謝の言葉を叫んでいる。
「ありがとう、ハーグの皇帝さん!」
「また来てくれよー!」
かつては敵国の王に向けられるはずのなかった歓声。
だが、朕はそれに嫉妬することはなかった。
むしろ、誇らしかった。あのような男と、友になれたことが。
「……達者でな、ライル。また会おう」
遠ざかる背中に、朕は小さく呟いた。
春の風が、心地よく朕の頬を撫でていった。
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