第272話 フェリクス、熱病にて倒れる
【フェリクス視点】
『アヴァロン帝国歴178年 4月14日 昼 曇り』
ここ、ゼナラ王国の港湾都市ラス・バハールは、故郷ハーグとは何もかもが違っていた。 じっとりと肌にまとわりつくような、湿った潮風。そして、まだ春だというのに、容赦なく照りつける太陽の熱。
「もっとだ! もっと深く掘れ! 塹壕の深さが、君たちの命を救うんだ!」
僕は、ラス・バハールの郊外に新設された訓練場で、ゼナラ王国軍の兵士たちに檄を飛ばしていた。
彼らの顔には、首都を追われた絶望ではなく、僕たちがもたらした缶詰と、新しい戦術への、確かな希望の色が浮かんでいる。その期待に応えたくて、僕は、ここ数週間、ほとんど不眠不休で彼らの訓練に付き合っていた。
「射撃姿勢が崩れているぞ! 肩で、しっかり衝撃を受け止めろ!」
ライフル射撃の指導にも熱が入る。だが、その声を張り上げた瞬間、ぐらり、と視界が大きく揺れた。
(……あれ? なんだか、おかしいぞ)
立っているのがやっとだった。頭がガンガンと痛み、体の芯が、まるで熱い鉄の棒で焼かれているかのように、熱い。なのに、肌を撫でる風は、氷のように冷たく感じられる。
(まずいな……。北国育ちの僕には、この南の気候は、少し……厳しすぎた、か……)
父さんや母さん、そして、ハーグで僕の帰りを待つノーラちゃんの顔が、脳裏をよぎる。こんなところで、倒れている場合じゃない。
僕が、ふらつく体に必死で鞭を打った、その時だった。
訓練の様子を、厳しい、しかし、どこか満足げな目で見つめていた、あの白い軍服の司令官が、僕の異変に気づいて駆け寄ってきた。
「フェリクス殿! どうされた、顔色が、紙のように白いぞ!」
ザイン殿。その、中性的な美しい顔が、心配そうに僕を覗き込む。
大丈夫だ、と答えようとした。だが、僕の口から出たのは、声にならない、かすれた息だけだった。
視界が、急速に、暗転していく。
「フェリクス殿!」
彼の、悲痛な叫び声を最後に、僕の意識は、ぷつりと途切れた。
どれほどの時間が、過ぎただろうか。
次に僕が目を覚ました時、そこは、見知らぬ部屋の、ふかふかのベッドの上だった。どうやら、王国軍の砦にある、客室の一つらしい。
額に、ひんやりとした、心地よい冷たさを感じる。誰かが、濡れた布を当ててくれているようだ。
(……僕は、倒れたのか……)
意識は、まだ、熱い霧の中にいるようだった。体が、鉛のように重くて、動かない。
ぼんやりとした視界の中で、誰かが、僕のそばを慌ただしく動き回っているのが見えた。 あの、白い軍服。ザイン殿だ。
「……すまない、フェリクス殿。全て、私の責任だ。貴殿の体調管理もできず……!」
その声は、いつもの、凛とした司令官のものではなく、焦りと、罪悪感に、震えていた。 違う、違うんだ。あなたが、謝ることじゃない。僕が、勝手に無理をしただけで……。
そう伝えたいのに、声が出ない。
ザイン殿は、僕が意識を取り戻したことに気づくと、安堵と、しかし、変わらず必死の形相で、僕の額の布を、新しいものに取り替えようとしてくれた。
彼が、身を乗り出す。その、しなやかな体が、僕の腕に、そっと触れた。
その、瞬間だった。
(むにゅっ)
僕の腕に、鎧や、鍛え上げられた軍人の胸板とは、明らかに違う、柔らかく、そして、確かな、二つの膨らみが、当たった。
(……あれ?)
僕は、熱に浮かされた頭で、必死に、思考を巡らせた。
この、感触は……。間違いない。
(ザインさんって……女の人、だったのか……!?)
その、あまりに衝撃的な事実に、僕の意識が持ち直した。
だが、その驚きも、熱病の、抗いがたい睡魔には、勝てなかった。
僕は、その衝撃的な真実を胸に抱いたまま、再び、深い、深い眠りの中へと、落ちていったのだった。
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