第269話 歓迎・捧げ筒~港湾都市ラス・バハール入港~
【フェリクス視点】
『アヴァロン帝国歴178年 4月6日 昼 晴れ』
旗艦『ユリアン皇帝』の艦橋から見下ろす海は、どこまでも穏やかだった。
首都サファリダでの血生臭い光景を後にしてから数日。僕らヴィンターグリュン王国偵察艦隊は、ゼナラ王国南部に位置するという港湾都市、ラス・バハールの沖合へと、ようやくその姿を現した。
陽光を浴びて白く輝く砂浜、緑豊かな丘陵地帯、そして、その麓に広がる、活気ある港町の姿。望遠鏡越しに見えるその光景は、サファリダでジークさんが報告してくれた地獄絵図とは、まるで別世界のようだった。
「……うん。サファリダのように、血の匂いはしないようだね」
僕が安堵のため息混じりにそう呟くと、隣に立つイェーガー伯爵も、深く頷いた。
「そのようですな。沖合には、何隻か漁船も出ておりましたし、港の様子も、いたって平穏に見えまする。どうやら、革命の混乱は、まだこの南の地までは及んでおらぬと見えますな」
その時、沖合で網を引いていたのであろう数隻の小さな漁船が、僕らの巨大な艦隊の姿に気づき、慌てたように帆を張り、蜘蛛の子を散らすように港へと引き返していくのが見えた。まあ、無理もないだろう。こんな、鉄の怪物のような船団が、突然現れたのだから。
「全艦、錨を下ろせ。これ以上近づけば、無用な警戒心を煽るだけだ」
イェーガー伯爵の号令一下、重い錨が、次々と海中へと投下される。
さて、これからどうするか。革命軍とは違い、こちらは王国の正規軍が立て籠もっているはずだ。いきなり乗り込んでいって、戦闘になるのは避けたい。
「あ、あの? ジークさん? いるかな?」
僕は、艦橋の隅の影に向かって、少しだけ声を張った。すると、まるで最初からそこにいたかのように、音もなく、影が揺らめいた。
「……はい、ここに」
ジークさんが、扉を開けて艦橋へと入ってくる。その無表情な顔は、何を考えているのか、相変わらず全く読み取れない。
「ちょっと悪いんだけど、ラス・バハールの様子を見てきてくれないかな? サファリダのように血の匂いはしないし、普通に漁もしていたようだし……。できれば、僕たちが敵ではないことを伝えて、入港の許可を取り付けてくれると、すごく助かるんだけど」
「……かしこまりました。入港許可の手配も、試みてまいりましょう」
ジークさんは、僕の少し曖昧な依頼の意図を、完璧に汲み取ってくれたようだ。さすがは、ユーディルさんが推薦するだけのことはある。彼も、このラス・バハールには、サファリダのような狂気はないと踏んでいるのだろう。夜陰に紛れるまでもなく、彼は、南国の強い日差しの下、一隻のカッター(ボート)に乗り込むと、迷いなく、堂々とラス・バハールの港へと向かっていった。
「さて、あとは待つだけか……」
それから、どれほどの時間が過ぎただろうか。艦橋の時計の針が、ゆっくりと時を刻む。窓の外では、カモメがのんびりと飛び交い、遠くに見える港町の喧騒が、潮風に乗って微かに聞こえてくる。あまりに平和な光景に、僕の意識も、少しずつ遠のいていくようだった。
(ノーラちゃん……元気かな。お腹の子は、順調だろうか……)
新婚早々、こんな遠い異国まで来てしまったことへの申し訳なさと、愛しい人への想いが、胸の中で交錯する。
「司令。少し、お休みになられては? ジーク殿が戻られましたら、すぐにお知らせいたしますぞ」
イェーガー伯爵の、気遣うような声に、僕ははっと我に返った。
「ああ、すまない、伯爵。少し、考え事をしていたようだ。……そうだな。少しだけ、仮眠を取らせてもらうよ。もし、何かあったら……いや、ジークさんが戻ってきたら、すぐに起こしてくれ。……そうだ、もし緊急の事態だったら、遠慮なく、水をぶっかけてくれて構わないから!」
「はっ、かしこまりました!」
伯爵の、少しだけ困惑したような、しかし、頼もしい返事を聞きながら、僕は船室へと戻った。
だが、結局、眠ることはできなかった。
数時間後。艦橋から、慌ただしい連絡が入った。
「司令! 港に動きが! 儀仗兵らしき部隊が、整列を始めました!」
僕は、急いで艦橋へと駆け上がった。望遠鏡を覗くと、確かに、ラス・バハールの港の埠頭に、白い、清潔そうな軍服に身を包んだ兵士たちが、寸分の狂いもない隊列を組んでいるのが見えた。そして、その隊列の前を、一隻のカッターが、こちらへ向かってくる。ジークさんだ。
彼は、すぐに旗艦『ユリアン皇帝』へと乗り込むと、艦橋へやってきた。その顔に、疲労の色はなかった。
「……フェリクス司令。ラス・バハールは、我らを歓迎する、とのことです。王国軍司令官ザイン殿が、直々に出迎える、と。……このまま、入港されたし、とのことにございます」
「よし、分かった! ありがとう、ジークさん!」
僕は、大きく息を吸い込み、全艦隊に向けて、号令を発した。
「全艦、抜錨! ラス・バハール港へ、入港せよ!」
汽笛が、高らかに鳴り響く。ヴィンターグリュン王国偵察艦隊は、白い航跡を描きながら、ゆっくりと、しかし、堂々と、ラス・バハールの港へと進んでいった。
港に接岸し、タラップが降ろされる。
僕は、副官であるイェーガー伯爵と、数名の儀仗兵だけを伴い、そのタラップを降り立った。
埠頭には、先ほど見た、白い軍服の儀仗兵たちが、捧げ筒の体勢で微動だにせず、僕たちを迎えている。そして、その中心に、一人の人物が立っていた。
白い軍服姿。だが、その立ち姿は、まるで彫像のように美しかった。短く切りそろえられた黒髪が、夕暮れの風に、さらりと揺れる。切れ長の大きな瞳は、夕日の赤い光を映して、宝石のように輝いていた。男にしては、あまりに線の細い、しなやかな体躯。女にしては、あまりに凛々しく、人を惹きつける、強い眼差し。
その、中性的な、息をのむほどの美貌を持つ人物こそが、この港を守る、王国軍司令官だと推測できた。
夕日が、僕と、その人物の顔を、劇的な赤色に染め上げていた。
僕たちの、ゼナラ王国における、本当の交渉が、今、始まろうとしていた。
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