第268話 ライル、畑を耕す ~いやぁ、春といったら、やっぱりこれだよなぁ~
【ライル視点】
『アヴァロン帝国歴178年 4月2日 昼 晴れ』
ようやく訪れた春の日差しは、まだ少しだけ頼りないけれど、白亜の館の裏庭に新しく広げた畑の土を、優しく温めてくれていた。
ザクッ、ザクッ……。
久しぶりに握る鍬の感触が、なんだかすごく懐かしい。冬の間に固くなった土を、丁寧に掘り返していく。土の匂い、草の匂い、そして、ほんの少しだけ混じる、春の匂い。やっぱり、僕は、これが一番好きだなあ。
「みんなー、たまには、こうやって体を動かしたほうが、健康にいいんだよ!」
僕は、額の汗を手の甲で拭いながら、後ろで不満そうな顔をしている二人の天才に、声をかけた。
「むー……。こんなことしてる暇があったら、研究所で新しいエンジンの設計図を完成させたいんスけど……」
アシュレイが、泥がつくのも構わず、畑のあぜ道にぺたんと座り込んでいる。その隣では、息子のレオが、慣れない手つきで鍬を振るいながら、ぜえぜえと息を切らしていた。
「うん……鍬って、こんなに重かったっけ……? 父さん、これ、本当に人力でやる必要あるの? 小型の蒸気耕うん機くらい、すぐに作れるんだけど……」
「こら、レオ! 土をいじることに意味があるんだよ!」
僕がそう言うと、アシュレイが、むくりと起き上がり、自分のお腹のあたりを、ぽんぽんと叩いた。
「むー、まあ、そういえば、冬の間についたこのお肉が、ちょっと気になるっスかね……。よし! レオ! アンタも、母さんに負けずに、真面目にやるっスよ! これは、ダイエットっス!」
「ええっ!? 僕まで!?」
アシュレイは、研究者モードから一転、なぜか燃え上がり、ものすごい勢いで土を掘り返し始めた。その隣で、レオは「やれやれ」と肩をすくめながらも、母親には逆らえないようだった。
「ふふっ、皆様、なかなか様になってきましたわね」
そんな僕たちの様子を、実に涼しい顔で、寸分の狂いもない正確さで畝を立てながら、ヴァレリアが微笑んでいた。さすがは、元騎士団長。日頃の鍛錬が違う。彼女だけは、息一つ乱していない。
畑の隅に置かれた椅子では、ノーラちゃんが、お医者様から安静にするよう言われ、少しだけ残念そうにしながらも、僕たちに声援を送ってくれていた。
「すみません、ライル様。わたしも、お手伝いしたいのですが……」
「ははっ、ノーラちゃんは、気にしなくていいんだよ! 元気な赤ちゃんを産むのが、君の一番大事な仕事なんだから!」
僕がそう言うと、彼女は「はいっ!」と、顔を真っ赤にしながらも、嬉しそうに頷いた。
今日は、春の種まきだ。まずは、土壌を豊かにしてくれるという豆類から。それから、寒さに強い根菜……カブやラディッシュの種も、丁寧に蒔いていく。ゲオルグさんから教わった通り、指で浅い溝を作り、そこに、未来への希望を込めて、小さな種を、一つ一つ、落としていく。
和気あいあいとした雰囲気の中、僕たちの、ささやかな畑仕事は、夕暮れ時まで続いた。
翌朝。白亜の館の、朝食の席。
昨日とは打って変わって、そこには、実に情けない光景が広がっていた。
「あたたたた……。昨日は、ちょっと、はりきりすぎたっスね……。足腰が、もう、ガクガクっス……」
アシュレイが、まるで生まれたての子鹿のように、ぷるぷると震えながら、椅子に座ろうとしている。
「僕もだよ、母さん……。腕が、上がらない……」
レオもまた、スプーンを持つ手が、小刻みに震えていた。
そんな二人を見て、ヴァレリアが、実に楽しそうに、くすくすと笑っている。
「ふふっ、いい運動になったではありませんか。日頃の、運動不足の賜物ですわね」
「もう、ヴァレリアまで……!」
僕が、苦笑しながらも、パンに手を伸ばすと、ノーラちゃんが、申し訳なさそうな顔で言った。
「あの、ライル様。畑の世話……」
「ああ、大丈夫だよ、ノーラちゃん。あとの世話は、僕が一人でやっておくから。みんなは、ゆっくり休んでて」
「ありがとうございます! 来年は、わたしも、絶対に、参加しますからね!」
その、健気な言葉に、食卓が、温かい笑い声に包まれた、その時だった。
いつの間にか、部屋の隅の影の中に、ユーディルさんが立っていた。その手には、一枚の電信文が握られている。
「ライル様、これを……」
ユーディルさんが差し出した紙に目を通した瞬間、僕の背筋に、冷たいものが走った。フェリクスからの、ゼナラ王国に関する、続報だった。
『サファリダ、血ニ染マル。革命軍、恐怖政治ヲ開始セリ。我ラ、コレヨリ南ヘ転進ス。フェリクス』
「……そうか。ゼナラの首都サファリダは、血で染まったのか……」
僕の、静かな呟きに、食卓の和やかな空気が、ぴしりと凍りつく。アシュレイも、ヴァレリアも、息子の報告の重大さを、瞬時に理解したのだろう。その顔から、笑みが消えていた。
僕は、電信文をテーブルの上に置くと、ユーディルさんに向き直った。
「……わかった。フェリクスには、こう返信してくれ。『状況判断ハ、司令官タル君ニ一任スル。タダシ、決シテ無茶ハスルナ。君ノ無事コソガ、我ラノ一番ノ願イナリ』と」
「はっ!」
ユーディルさんは、深く一礼すると、再び、影の中へと消えていった。
僕は、何気なく、窓の外に目をやった。春の柔らかな日差しが、昨日、僕たちが耕したばかりの畑を、優しく照らしている。
(フェリクスのことだ。きっと、大丈夫。あの子なら、正しい判断をしてくれるはずだ)
そう、頭では分かっている。なのに、この朝食の席に、あの子がいない。ただ、それだけのことが、どうしようもなく、寂しかった。父親としての、どうしようもない不安が、小さな棘のように、僕の胸の奥に、ちくりと刺さった気がした。
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