第266話 ハーグ貴族院は消極的ながら動きだす
【ライル視点】
『アヴァロン帝国歴178年 3月10日 夜』
帝都ハーグの新しい皇宮。その最も大きな会議室は、シャンデリアの柔らかな光に照らされながらも、どこか張り詰めた空気に満ちていた。市民議会が終わり、今度は貴族院の番だ。
テーブルの中央には、東方の国ゼナラの、不確かな情報しか記されていない地図が広げられている。僕の隣には若き皇帝リアン君が、少しだけ緊張した面持ちで座っていた。
「それでは、貴族院を開く! 各地の諸侯よ、よくぞ参集してくれた! 今宵の議長はオルデンブルク宰相とする!」
リアン君の、少しだけ高い声が響き渡る。その言葉を受け、白髪の老宰相が、ゆっくりと立ち上がり、二通の電信文を厳かに読み上げ始めた。ゼナラの革命軍と、王国軍。どちらもが、我らヴィンターグリュン王国、そしてアヴァロン帝国に対し、支援を求めるラブコールを送ってきている、と。
宰相が読み終えても、しばらくの間、誰も口を開かなかった。遠い国の、よくわからない内輪揉め。それが、ここに集まった貴族たちの、正直な感想なのだろう。
その沈黙を破ったのは、歴戦の傭兵団長あがりの貴族、ゼルガノス卿だった。彼は、わざとらしく大きな咳払いを一つすると、その武骨な顔に、実に実際的な笑みを浮かべた。
「ウォッホン! まあ、つまり、こういうことだろう? 革命軍とやらも、王国軍とやらも、我らヴィンターグリュン王国と、アヴァロン帝国の力を借りたい、と。ワシは傭兵上がりだから、こういう駆け引きはよく知っとる。こういう時はな、一番、利益が上がる方につく。ただ、それだけのことよ!」
その、あまりに明け透けな、しかし、ある意味で真理を突いた言葉。基本に忠実な考え方だ。何人かの、商売に明るい貴族たちが、うんうんと深く頷いている。
「ふーん。じゃあさ、ゼルガノスさん」
僕は、単純な疑問を口にした。
「どっちについた方が、儲かると思う?」
僕の問いに、ゼルガノス卿は、うーん、としばらく腕を組んで考え込んでしまった。貴族たちの視線が、彼一人に集まる。だが、やがて彼は、困ったように両手をひらひらとさせた。
「……いや、それが、さっぱりわからんのだ! アヴァロン帝国や、このヴィンターグリュン王国のことなら、裏の裏まで知り尽くしておるつもりだが、海の向こうの、ゼナラ王国なんて国のことなぞ、正直、さっぱりだ!」
その正直すぎる答えに、議場から、くすくすと笑いが漏れた。僕も、うんうんと頷く。
「だよねえ。僕も、さっぱりだよ。……ゲオルグ卿はどう思う?」
僕は、農業担当大臣として貴族院の席を得た、ゲオルグさんに話を振ってみた。彼は、突然指名されて驚いたようだったが、その実直な顔で、実に彼らしい意見を述べた。
「えっ? わ、私に話をふりますか? そ、そうですな……。これから、ようやく雪が解けて、畑を耕す季節になります。民は皆、今年の豊作を願って、土と向き合いたいと思っているはず。そのような時期に、遠い国へ、大規模な出兵などというのは、正直、少し……気が進みませんな」
「だよねえ。みんな、自分の畑や仕事があるもんね」
僕がそう言うと、今度はリアン君が、心配そうな顔で手を挙げた。
「朕からも、一つ良いか? その、ゼナラとの交易が途絶えた場合、東方から入ってくる茶や香辛料は、どうなるのだ? あれが無くなると、国民の食卓はもちろん、我々の食事も、ずいぶんと貧しいものになってしまうのではないか?」
その、実に皇帝らしい、しかし、切実な懸念。オルデンブルク宰相が、待っていましたとばかりに、一枚の書類を広げた。
「それにつきましては、すでに試算がございます。交易が完全に停止した場合、物価の高騰は避けられず、国民感情も悪化。最悪の場合、経済的な混乱が、国内の不満へと繋がりかねませぬ」
なるほど。無視するわけにも、いかないらしい。
今度は、研究員上がりの貴族、クラウス卿が手を挙げた。彼は、アシュレイの兄弟子で、帝国の兵器開発にも関わっている男だ。
「私からも、よろしいかな? もし、仮に、戦になるのであれば……。アシュレイ工廠が開発した、新型のライフルや野砲など、実戦で試してみたい兵器は、色々とございます。ただし、まだ数は十分に揃えられておりませんが……」
「そうだよねえ。最近、平和だったから、実戦の機会が全くなかったもんね。試すには、ちょうど良い機会かもしれないねえ」
僕が、少しだけ不謹慎な相槌を打つと、旧帝都の社交界を牛耳っていたという、ヴァイスハイト伯爵夫人が、優雅に扇子を広げながら、発言した。
「まあ、でも、仮に行かせるとしても、どなたを行かせるのかしら? 国政の中心におられる方を、わざわざ遠い異国へ送るほどのことでもないでしょうけれど、かといって、中途半端な方を送って、失敗されても困りますわよね?」
「そうなんだよねえ。そこも、大きな問題なんだよねえ」
僕が、うーん、と唸っていると、常に流行を追い求める軟弱者のエーデルシュタイン伯爵が、怯えるように小さな声で呟いた。
「わ、わたくしは、絶対に嫌ですぞ! わたくしが行けば、間違いなく負けてしまいます!」
その、あまりに正直な弱音に、議場は、どっと温かい笑い声に包まれた。
その時だった。武骨な軍人上がりのイェーガー伯爵が、勢いよく手を挙げた。
「ならば、それがしにお任せあれ! 千の兵をお与えくだされば、まずは偵察がてら、様子を見てまいりましょうぞ!」
千の兵。ヴィンターグリュン王国の常備兵力はおよそ五万人。その中から千というのは、すぐに動かせる数として、現実的な数字だった。
具体的な数字と出兵案が出てきたことで、議場が、にわかにざわつき始めた。
だが、その勇ましい申し出を、ヴァイスハイト伯爵夫人が、ぴしゃりと一蹴した。
「あら、だめよ、イェーガー卿。貴方はお強いかもしれないけれど、残念ながら、剣と盾の時代の方でしょう? 今の戦は、もっと違うやり方が必要ですわ」
「な、何をっ! それがしも、ライフルや塹壕戦など、最近の戦い方を、日々学んでおるのですぞ!」
二人が、火花を散らし始めた。まずい、このままでは、また議論が紛糾してしまう。
オルデンブルク宰相が、パンパン、と手を叩いて場を収めようとした、その時。玉座のリアン君が、静かに、しかし、有無を言わせぬ響きで、一つの提案をした。
「ならば、こうするのはどうだろうか。ライル、そちの息子、フェリクスを指揮官とする。彼は、先の大戦で実戦経験もあり、新しい戦い方も熟知しておる。そして、その副官に、経験豊富なイェーガー伯爵をつける。若き知恵と、老練な武勇。これならば、万全ではあるまいか?」
その、あまりに絶妙な人選。議場が、おお、と感嘆の声に包まれる。
僕は、うーん、と唸りながら、頭をポリポリとかいた。
「フェリクスかあ……。あの子、いま、ノーラちゃんと新婚休暇中なんだよなあ……」
僕の、父親としての、正直すぎる一言に、またしても議場から、ハハハ、と温かい笑い声が上がった。
「まあ、でも、そうですね。陛下がおっしゃるなら。それに、イェーガー伯爵がついてくださるなら、安心でしょう。……ただし、せめてあと一ヶ月……ううん、二週間でいいから、あの子に休みをあげてください。どちらにせよ、出兵の準備には、それくらいかかるでしょうし」
僕が、そう条件を付けると、オルデンブルク宰相が、満足げに頷いた。
「反対の者は、おられるかな? ……よろしい。なければ、リアン皇帝陛下にご決裁いただくが、よろしいかな? ゼナラ革命派と王軍の両方と接触して、どちらにつくか決めるのが今回の目的だ」
「「「異議なし!」」」
議場の声が、一つになった。
「あいわかった! それでは、この件は、そのように決定する! まずは、偵察と様子見のための出兵、ということだな! ……さて、今宵は、我が皇宮にて、ささやかながら酒と料理を用意しておる。皆の者、存分に楽しんでいかれよ!」
リアン君の、高らかな閉会宣言と共に、会議は終わり、そのまま、華やかな晩餐会へと移行した。
僕は、リアン君と一緒に、カウンターでカクテルを作っていた。シャカシャカとシェイカーを振りながらも、僕の心は、少しだけ重かった。
(フェリクス、ごめんなあ。新婚早々、大変な任務を押し付けてしまって……。でも、お前なら、きっと大丈夫だ)
こうして、遠い東の国の内紛への、ヴィンターグリュン王国としての、最初の、そして、消極的な介入が、決定した。
僕は、出来上がったカクテルをグラスに注ぎながら、その琥珀色の液体の中に、まだ見ぬ未来の嵐の予感を、ぼんやりと見ていた。気分が乗らないのは、そのせいかもしれない。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




