第264話 ハーグは春の訪れを楽しむ
【フェリクス視点】
『アヴァロン帝国歴178年 3月10日 昼 晴れ』
帝都ハーグには、例年より少しだけ早い春が訪れていた。
道端に残っていた雪もすっかり姿を消し、代わりに顔を出した土からは、柔らかな草の匂いが立ち上ってくる。街路樹の枝先には、小さな緑の蕾が膨らみ始め、その下では、カフェやレストランが、待ちかねたように屋外席を並べていた。行き交う人々の服装も心なしか軽やかで、街全体が、長い冬の眠りから覚めたような、明るい活気に満ちている。
そんな、うららかな春の陽気の中、僕は久しぶりに、肩の荷が下りたような、晴れやかな気分でいた。今日から、ノーラちゃんと一緒に、待ちに待った長期休暇なのだ。通信大臣としての、あの、目が回るような忙しい日々から、ようやく解放される!
「でも、その前に、ちゃんと仕事の引継ぎをしなくちゃね」
僕は、少しだけ名残惜しい気持ちで、皇宮の一角にある通信大臣室の扉を開けた。電信機の、あのカタカタという音も、しばらくはお休みだ。
部屋の中には、すでに僕の後任となる二人の女性が、少しだけ緊張した面持ちで待っていた。
「やあ、二人とも、待たせてごめんよ」
僕が声をかけると、まず、凛とした立ち姿の女性が一歩前に進み出て、完璧な礼をした。
「このたび通信副大臣となりましたエレオノーラです。改めまして以後よろしくお願いいたします」
エレオノーラさん。元はヴェネディクト侯爵家のご令嬢で、一時期は白亜の館でメイド長を務めていた才女だ。その、貴族としての教養と、メイド長として培った細やかな気配りは、きっとこの部署でも大きな力になってくれるだろう。
「同じく、通信第二副大臣となりましたヘルガです」
続いて、少しだけぶっきらぼうに、しかし、その瞳には強い意志の光を宿した少女が名乗り出た。ヘルガさん。あの『鉄猪』グルンワルド将軍の孫娘で、父さんを初対面で言い負かした、恐るべき洞察力の持ち主だ。彼女の、物事の本質を見抜く力は、複雑な情報の海を泳ぐ、この仕事にはうってつけかもしれない。
「エレオノーラさん、メイドさんからずいぶん出世したね! ヘルガさんもよろしくお願いします!」
僕がそう言うと、ノーラちゃんも、隣でぺこりと頭を下げた。
「私たちが休みの間、よろしくお願いいたします!」
こうして、僕たちの、つかの間の、しかし、待ちに待った休暇が始まった。
僕とノーラちゃんは、久しぶりに、ただの恋人同士として、ハーグの街を散策することにした。
石畳の道を歩けば、すれ違う人々が、ちらちらと僕たちに視線を向けてくるのがわかる。だが、誰も騒いだりはしない。帝都ハーグの市民は、皇族や、時には外国の要人までが普通に街を歩いているこの状況に、すっかり慣れてしまっていた。有名人を見かけても、騒がずにそっとしておくのが、この街の新しい礼儀になりつつあったのだ。
それでも、好奇の目が僕たち二人に注がれるのは、仕方のないことだった。皇太子と、その婚約者である元村娘。僕たちの物語は、今や帝国中で一番人気の、ロマンスなのだから。
「あ、フェリクス様! 見てください、ハーグ豚の串焼きです!」
「本当だ、もうそんな季節か。よし、一本ずつ買おうか」
僕たちは、香ばしい匂いに誘われて、屋台で熱々の串焼きを買い、二人で分け合って食べた。甘くて、少しだけ焦げた醤油の味が、口の中に広がる。ただそれだけのことが、今の僕には、何よりも贅沢に感じられた。
そんな風に、街歩きを堪能し、買い食いを楽しみながら、夕暮れ時に白亜の館へと戻ると、玄関先で、父ライルが、やけにあわただしく、馬車に乗り込もうとしているところだった。その隣には、母ヴァレリアも、軍服を身につけて控えている。
「父さん、どうしたの? なんだか、慌ててるみたいだけど。非常事態?」
僕が尋ねると、父さんは一瞬だけ、難しい顔をしたが、すぐにいつもの人の良い笑顔に戻った。
「うん、ちょっと電報がね。まあ、大したことじゃないよ。それより二人とも!」
父さんは、懐から一枚の、やけに豪華な紙切れを取り出すと、僕たちの手に押し付けてきた。
「せっかくの休暇なんだからさ、たまには二人きりで、ゆっくり過ごしておいでよ! ほら、これあげるから!」
それは、『ホテル・ハーグ』の、最高級スイートルームの宿泊チケットだった。ビアンカさんが経営する、あの、ハーグの美しい夜景を一望できるという、街一番の高級ホテル。そして、恋人たちのための、最高のデートスポットでもある。
「えっ、父さん、これ……!」
「いいから、いいから! じゃあ、あとはよろしく頼むよ!」
父さんは僕たちにウィンクすると、ヴァレリア母さんを伴って、皇宮の方へと、足早に出かけていった。その背中は、何か、僕たちには告げられない、大きな問題を抱えているように見えた。
僕とノーラちゃんが、手にしたチケットを見つめて、顔を見合わせていると、どこからともなく、いつものように、黒い影が現れた。ユーディルさんだ。
「お休みのところ、申し訳ございません……」
その、ただならぬ雰囲気に、僕は、ごくりと喉を鳴らした。
「ユーディルさん、やっぱり、父さん、何かあったんでしょ? 国のことで、何か。……言ってください」
僕の真剣な問いに、ユーディルさんは、少しだけ躊躇った後、静かに、しかし、はっきりと告げた。
「はっ……。ゼナラで、内紛が発生いたしました。革命軍なる勢力が首都サファリダを占拠。王国軍は南部の港湾都市、ラス・バハールにて抵抗している模様にございます」
ゼナラ……。東方の、あの香辛料と麻薬の国。父さんが、マルコさんの報告を受けて、激怒していた、あの国だ。そこで、内紛……。
僕は、隣に立つノーラちゃんの顔を見た。彼女の瞳にも、不安の色が浮かんでいる。
「ノーラちゃん……。僕たちの休み、少し、短くなるかもしれないね」
休暇は始まったばかりだというのに、もう、終わりが見えてしまった。だけど、後悔はなかった。むしろ、やるべきことがあるのなら、早くそれに取り掛かりたいとさえ思った。
でも……。
「でも、今日だけは……。今日だけは、休もう。父さんがくれた、この時間を、無駄にしたくない。君と、一緒に過ごしたいから……」
僕の言葉に、ノーラちゃんは、一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに、こくりと、力強く頷いてくれた。その瞳には、もう迷いはなかった。
「はい、フェリクス様。わたくしも、もう迷いはありません。精一杯、お尽くしします……」
その夜、僕たちは、ホテル・ハーグの、窓から見える、宝石箱のような夜景を眺めていた。
遠い東の国で始まった戦乱の嵐。その不穏な空気を感じながらも、僕たちの心には、互いを想う温かい気持ちと、これから共に歩む未来への、確かな希望があった。
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