第260話 北の若獅子、祝いの旅路へ
【シグルド視点】
『アヴァロン帝国歴178年 2月28日 昼 晴れ』
スカルディアの城壁の上から見下ろす大地は、まだ冬の白さを残していたが、雪解け水のきらめきが春の訪れを告げていた。俺、シグルドは、父ライル様からもらった練習用のライフルを手入れしながら、眼下に広がる塹壕の跡を眺めていた。あれは、この土地がくぐり抜けてきた、戦いの記憶そのものだ。
「シグルド、お客様ですわよ」
母フリズカの声に振り返ると、城門から一台の列車が、ゆっくりとこちらへ向かってくるところだった。ハーグからの定期便とは違う、見慣れぬ車両。やがて、列車から降り立ったのは、よく知った顔だった。
「ヒルデ叔母様! それに、ソフィアも!」
ニヴルガルドから、ハーグへ向かう途中だという叔母様と、従妹のソフィア。俺は、ライフルの手入れもそこそこに、城門へと駆け下りた。
久しぶりに会ったソフィアは、少しだけ背が伸びて、ますます母であるヒルデ叔母様に似て、美しくなっていた。だが、その瞳の奥に宿る、お転婆な光は変わっていない。彼女は、俺の背後にある塹壕の跡を、興味深そうに見つめていた。
「ここが、あの……」
「へへっ、そうだぜ!」
俺は、ここぞとばかりに胸を張った。
「俺は、ここでフェリクス兄ちゃんと一緒に戦っていたんだぜ! このスカルディアを、父さんたちと守り抜いたんだ!」
「まあ、すごいですわね、シグルド兄様!」
ソフィアが、目をきらきらと輝かせてくれる。その、素直な尊敬の眼差しが、たまらなく心地よかった。
だが、その心地よい時間は、母の、実に無粋な一言によって、いとも容易く打ち砕かれた。
「あら、シグルド。あなたはずっと、城壁の上から眺めていただけでしょう?」
「うぐっ……! そ、それは……! 見張りという、大事な役目があったんだ!」
母の、あまりに正論なツッコミに、俺はたじろぐ。だが、ソフィアとヒルデ叔母様は、そんな俺たちのやり取りを、実に楽しそうに、くすくすと笑いながら見ている。
「ぜひ、お聞かせくださいな、兄様! その、戦のお話を!」
(よし、食いついた!)
俺は、咳払いを一つすると、知ったかぶりで、あの冬の戦いを語り始めた。
「いいか、ソフィア。あの戦いは、ただの斬り合いじゃなかった。千メートルも離れた塹壕と塹壕の間で、互いの腹を探り合う、我慢比べだったんだ」
俺の脳裏に、あの光景が蘇る。
夜の闇に紛れて、敵陣深くまで潜入するユーディルさんの『影』たち。雪原に白い布を被って身を伏せ、遥か遠くの敵兵を、一撃で仕留める狙撃兵の、神業のような射撃。そして何より、俺たちの塹壕の遥か後方から、空気を切り裂く音と共に放たれ、敵陣の真上で炸裂する、アシュレイ叔母様が作った『迫撃砲』の、雷鳴のような轟音。
「敵は、飢えと寒さで、日に日に弱っていった。ハーグの缶詰工場を壊してしまった奴らは、温かいスープ一杯すら、飲めなかったのさ。それに比べて、俺たちは、アズトラン大陸からの補給もあって、食料は山のようにあったんだぜ!」
「まあ、すごい……!」
「そして、敵が夜陰に紛れて撤退した、その朝……。俺は、誰よりも早く、その異変に気づいたのさ!」
俺が、少しだけ話を盛りながらそう言うと、ソフィアは、物語の英雄を見るかのように、尊敬の眼差しを向けてくれていた。その横で、母がやれやれと肩をすくめているのが見えたが、今は気にしないことにした。
俺が武勇伝を語り終えた頃には、母も、ハーグへ向かうための旅支度を、すっかり終えていた。
「さあ、お話はそれくらいにして、わたくしたちも参りましょう。あと、敵の異変に気付いたのはユーディルさんでしょう? フェリクス様の結婚式に、遅れるわけにはいきませんからね」
俺たちは、ヒルデ叔母様とソフィアと共に、再びハーグ行きの列車に乗り込んだ。
ガタン、ゴトン……。
車窓から見える塹壕の跡が、ゆっくりと遠ざかっていく。
(待ってろよ、フェリクス兄ちゃん! このシグルドが、最高の土産話を持って、お祝いに駆けつけてやるからな!)
列車は、春の光の中を、希望を乗せて、北の都へと、ひた走っていた。
俺の、新しい冒険が、また始まろうとしていた。
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