第259話 ヒルデとソフィア、祝いの旅路へ
【ソフィア視点】
『アヴァロン帝国歴178年 2月25日 朝 晴れ』
「やあっ! とうっ!」
わたくしの振り下ろした木剣が空気を切り裂き、侍従の構える木の盾に小気味よい音を立てて叩きつけられます。ニヴルガルドの朝の空気はまだ肌寒いですが、体を動かしていれば少しも気になりません。むしろ、心地よいくらいですわ。
侍従が息を切らしたのを見計らい、わたくしは木剣を置くと、今度は物置から練習用の小さなライフル銃を持ち出しました。アシュレイ叔母様が、わたくしのために特別に作ってくれた、お気に入りのライフルです。
パン、パン、と乾いた音を立てて、遠くに置いた的の真ん中を撃ち抜いていく。この、ぴりりとした硝煙の匂いと、肩に伝わる心地よい衝撃が、わたくしは大好きでした。
テラスから、そんなわたくしの姿を、母様が穏やかな顔で見守ってくださっています。わたくしの母、ヒルデは、世界で一番美しい人。でも、時々、すごく寂しそうな顔をするのです。
(……また、遠い目をして)
わたくしが射撃の訓練を終え、母様の元へ駆け寄ろうとした、その時でした。一頭の早馬が、城門へと駆け込んでくるのが見えました。ハーグからの、緊急の電信を携えた使者です。胸が、どきりと小さく跳ねます。何か、悪い知らせでなければよいのですが……。
侍女が、恭しく差し出した電報。母様は、それに目を通すと、ほんの少しだけ、その美しい瞳を見開きました。
「母様! 何かあったのですか?」
わたくしが駆け寄ると、母様は、その電報をわたくしにも見えるように広げてくれました。
「……フェリクス様が、ご結婚なさるそうですわ」
「えっ!? フェリクス兄様が結婚!? では、ハーグへ行くのですね! やったー! 今度こそ、レオ兄様の新しい発明品を、たくさん見せてもらうのです!」
その知らせに、わたくしは飛び上がって喜びました。フェリクス兄様のご結婚も、もちろんおめでたいことです。でも、それ以上に、あの、不思議なもので溢れた都ハーグへ行けることが、嬉しくてたまらなかったのです!
旅の支度のため、わたくしは自室の衣装部屋へと向かいました。わたくしが、動きやすいけれど、少しだけ飾りのついたお気に入りのドレスを選んでいると、母様が、衣装棚の奥から、一枚のドレスを取り出しました。それは、目立たない、濃紺の地味なドレスでした。
(……また、ですわ)
わたくしの中で、何かが、ぷつりと音を立てて切れました。
「母様! なぜ、そのような地味な服を!」
「ですが、ソフィア。わたくしは……」
「母様は、もう奴隷ではございません! ヴィンターグリュン国王ライル様の妃であり、この土地を治める領主様なのですよ! 一番美しいドレスを、着てくださいまし!」
わたくしは、母様の手を引き、衣装棚の一番奥を指さしました。そこには、父様が、母様のためにと、以前贈ってくださった、氷の結晶のような刺繍が施された、美しいアイスブルーのドレスが、静かにかけられておりました。わたくしの大好きなドレスです。
わたくしの、あまりの剣幕に、母様は、少しだけ驚いたように、でも、どこか嬉しそうに、そのドレスを手に取ってくださいました。
わたくしたちは、その日のうちに、ハーグ行きの特別列車に乗り込みました。
ガタン、ゴトン……。
規則正しく響く、鉄の道の音。
(かつて、母ヒルデは敗国の王女として、たった一人、馬車に揺られてハーグへと向かいました……。ですが、今、娘の私は、こんなにも温かい気持ちで、あの都へ向かうことができる)
窓の外の景色を、目を輝かせて見つめる母の横顔を、わたくしは、愛おしく見つめました。
「ハーグは、今頃どんな様子かしら! フェリクス兄様は、どんなお顔をされているでしょうね!」
(ライル父様……。貴方様がくださったこの幸福を、わたくしは、母様と一緒に、大切にしていきますからね)
列車は、春の光の中を、希望を乗せて、北の都へと、ひた走っておりました。
待っていてくださいまし、兄様たち! このソフィアが、お祝いに駆けつけますからね!
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