第244話 メイドになったエレオノーラ
第244話 メイドになったエレオノーラ
【エレオノーラ視点】
『アヴァロン帝国歴178年 1月10日 昼 曇り』
わたくし、エレオノーラ・フォン・ヴェネディクトの新しい一日が、厨房の喧騒と共に始まりました。
これまでの人生で、厨房とは、ただ美しく盛り付けられた料理が運ばれてくる、魔法のような場所でございました。ですが今、わたくしが立つこの場所は、湯気と、焦げ付いた匂いと、そして、わたくしの無力さを突きつける、地獄のような戦場でございます。
「さあ、新人! いつまで突っ立ってるんだい! そこのジャガイモの皮くらい、剥けるだろう!」
古株のメイドにそう怒鳴られ、わたくしは、震える手で、人生で初めて、ジャガイモと、皮剥き用の小さなナイフを握りしめました。
(こ、これを、どうすれば……? 書物で読んだ知識では、薄く、均一に剥くと……)
ですが、わたくしの手の中で、ジャガイモはつるりと滑り、ナイフの刃は、あさっての方向へと向かいます。気づけば、目の前のジャガイモは、無残に抉られ、元の半分ほどの大きさになっておりました。
「まあ、不器用な……! これでは、具材にもなりませんわ!」
周りのメイドたちの、くすくすという嘲笑が、わたくしのプライドに、容赦なく突き刺さります。洗濯をすれば、白いシャツに色のついた衣類の色を移してしまい、掃除をすれば、高価な花瓶を危うく叩き割りそうになる。
わたくしは、この館で、最も役立たずな存在でした。
(なぜ……なぜ、こんな簡単なことが、わたくしにできないの……!)
そんな絶望的な日々が、一週間ほど続いた頃でした。
その日の厨房は、いつにも増して、混乱を極めておりました。夕食の準備で、誰もが自分の仕事に手一杯で、互いに怒鳴り合い、食材や調理器具があちこちに散乱している有様です。
その、あまりに非効率で、無秩序な光景を前にした瞬間、わたくしの中で、何かが、カチリ、と音を立てて切り替わりました。
「あなた! 肉を焼くのはまだ早いです! まず、野菜の下準備を終わらせなさい!」
わたくしは、気づけば、叫んでおりました。
「そこのあなたは、鍋の火加減を見ていて! そっちは、食器の準備を! ああ、もう、そこの棚の香辛料は、種類別に並べ替えなさい! これでは、何がどこにあるのか、さっぱり分かりませんわ!」
わたくしの、普段とはあまりに違う、凛とした、有無を言わせぬ声。
厨房にいた全てのメイドが、一瞬、動きを止め、呆気に取られた顔でわたくしを見つめています。ですが、わたくしの指示が、あまりに的確で、合理的であることに、すぐに気づいたのでしょう。
彼女たちは、戸惑いながらも、一人、また一人と、わたくしの指示通りに、動き始めたのです。
そして、その日の夕食は、これまでにないほどスムーズに、そして完璧な時間通りに、食卓へと運ばれていきました。
その日から、わたくしの館での立場は、少しずつ変わっていきました。
料理や洗濯は相変わらず不得手なままでしたが、代わりに、わたくしは、この白亜の館の、全ての『管理』を任されるようになったのです。
メイドたちの勤務シフトの作成、食料庫の在庫管理と発注、館全体の清掃スケジュールの策定……。
わたくしが、父の元で学んだ、広大な領地を治めるための帝王学が、このような形で役に立つとは、夢にも思っておりませんでした。
そして、転機は、リアン皇帝陛下を招いての、ささやかな晩餐会が開かれた夜に訪れました。
それまでメイド長を務めていた、温厚な老婦人が、急な体調不良で倒れてしまったのです。館内がパニックに陥る中、わたくしは、即座に、全てのメイドたちに指示を飛ばし、見事に、その晩餐会を成功させてみせました。
翌日、わたくしは、ライル様の執務室へと呼ばれました。
そこには、ライル様と、すっかり体調の戻ったメイド長の姿がありました。
「エレオノーラさん。君に、この館の、新しいメイド長を、お願いしたいんだ」
ライル様の、あまりに穏やかな、しかし、確かな信頼を込めた言葉。
隣で、老メイド長が、深く、深く、頷いています。
「あのお方は、メイドではございません。軍を率いる、将軍でございます。この館には、わたくしのような老いぼれよりも、あの方の力が必要なのでございます」
わたくしは、その場で、静かに、ひざまずきました。
それは、敗北の屈辱からでも、生活のための物乞いからでもない。自らの力で、初めて勝ち取った、新しい役目に対する、誇りと、感謝の礼でございました。
こうして、わたくし、エレオノーラ・フォン・ヴェネディクトは、白亜の館の、メイド長に上り詰めたのです。
失われた栄光を取り戻すための道は、まだ遠いかもしれません。ですが、わたくしは、この場所で、わたくしだけの戦い方を見つけたのです。
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