第228話 森の住人 え、こんな可愛い子が出てきていいの? 缶切りで開けてあげたよ!
【ライル視点】
『アヴァロン帝国歴177年 9月30日 昼 曇り』
ランベールの街へ戻った僕は、早速オーギュスト侯爵の元を訪ねた。父である先代侯爵が亡くなり、若くしてこの広大な領地を背負うことになった彼の心労は、察するに余りある。ヴァレリアの兄として、そして、今は家族として、僕にできることはないだろうか。そんな思いを胸に、僕は彼の居城の扉を叩いた。
だが、彼もまた、南の森の向こうに広がるノヴァラ王国については、ほとんど何も知らなかった。
「すまないな、ライル殿。妹の……ヴァレリアの夫である君に、このような顔を見せることになるとは……」
車椅子に座るオーギュストは、申し訳なさそうに眉をひそめるばかりだった。その顔には、領主としての責任感と、思うように動けない自らの体への、どうしようもない苛立ちが滲んでいる。
「気にしないでくださいよ、オーギュスト義兄さん。家族なんですから。大丈夫だよ! 僕たちに任せて!」
僕がそう言うと、彼は少しだけ驚いたように目を見開き、そして、ふっと、その強張っていた表情を緩めた。
「……父上も、あの森の向こうとは、関わりを持つことを固く禁じていた。ただ、不気味な場所である、としか……」
有力な情報は、得られなかった。仕方なく、僕たちは国境近くの村で聞き込みを続けた。だが、村人たちも、森の向こうの話となると、一様に顔を曇らせ、口をつぐんでしまう。得られたのは、ただ一つ。「南の森には、決して入るな」という、古くからの言い伝えだけだった。
(やっぱり……地道に、宴会を続けるしかないのかな)
僕は、再び、あの鬱蒼とした森の前へと戻ってきた。そして、前回と同じように、兵士たちに野営の準備と、盛大な宴会の用意を命じた。
今回は、ハーグから取り寄せた、とっておきの秘密兵器もある。アシュレイ工廠特製の、香辛料がたっぷり効いた『カレー』の缶詰だ。焚き火で温められた鍋から、スパイシーで、食欲をそそる香りが、風に乗って森の奥へと流れていく。
兵士たちの間に、もはや緊張の色はない。誰もが、この奇妙で、しかし最高に楽しい任務を、心から楽しんでいた。
宴がたけなわになった頃、森の影がゆらりと揺れ、ユーディルがすっと音もなく僕の隣に姿を現した。
「ライル様。先日の作戦は成功です。我らが撤退した、その翌日には、ノヴァラの民と思われる者たちが、残した荷を全て森の奥へと運び込んでおりました。警戒しつつも、我らの贈り物を受け取った、ということでございましょう」
「それはいいね。作戦大成功だ。よし、今日も宴会を続けよう!」
僕がエールの杯を高々と掲げると、兵士たちの陽気な歓声が応じる。
だが、その歓声が、突如として止んだ。
宴の最中、森の茂みが、ガサガサと、明らかに大きな音を立てたのだ。何かが、こちらへ近づいてくる。
さすがの兵士たちも、笑い声を止め、一斉に腰の剣の柄に手をかけた。広場に、緊張が走る。焚き火の炎がパチリとはぜ、その揺らめく影が、僕たちの顔を不安げに照らし出した。
森の奥から現れるのは――果たして敵か、それとも……。
茂みから、ひょっこりと顔を出したのは、敵ではなかった。
年の頃は七、八歳くらいだろうか。肌は日に焼け、長く伸びた黒髪が少しだけ顔にかかっている。だが、その大きな黒い瞳は、森の動物のように警戒しながらも、どうしようもない好奇心に、きらきらと輝いていた。一人の、とても可愛らしい少女だった。
彼女は、僕たちが作ったカレーの、たまらない匂いに誘われて、ここまで来てしまったのだろう。その小さな手には、何も握られていなかった。
少女は、僕たち大勢の兵士の姿を見ると、びくりと肩を震わせ、今にも森の中へ逃げ帰りそうだった。
僕は、そんな彼女に向かって、ゆっくりと、そして、できるだけ優しい声で、呼びかけた。
「お嬢ちゃん、お腹が空いてるのかい?」
僕が、まだ封の開いていないカレーの缶詰を手に、一歩、前に進み出る。少女は、後ずさった。だが、その目は、僕が持つ、ブリキの筒に釘付けになっている。
僕は、その缶詰を、僕と彼女との、ちょうど中間の地面に、そっと置いた。そして、両手を広げて、にこりと笑ってみせる。
「大丈夫、取って食ったりしないよ。さあ、どうぞ」
少女は、しばらく僕と、缶詰を交互に見比べていたが、やがて、空腹には勝てなかったのだろう。おずおずと、しかし、素早い動きで地面の缶詰をひっつかむと、すぐに森へ戻ろうとした。
だが、彼女はすぐに足を止め、手の中のブリキの筒を、不思議そうに首を傾げながら眺めている。爪でひっかいてみたり、歯で噛もうとしてみたり。どうやら、開け方がわからないらしい。
やがて、少女は、近くに転がっていた手頃な大きさの石を拾い上げると、その缶詰を地面に置き、力いっぱい叩きつけ始めた!
カン! カン! と、硬い音が響く。だが、アシュレイ工廠が誇る頑丈な缶詰は、少しへこむだけで、一向に開く気配がない。
(ああ、そうか。缶切りを知らないんだ)
僕は、思わずといった様子で、彼女の元へとゆっくり歩み寄った。少女は、僕の姿に驚き、缶詰を抱きしめて後ずさる。
「大丈夫、大丈夫。それを開けてあげるだけだから」
僕は、腰に下げていた革袋から、小さな金属の道具……缶切りを取り出して見せた。そして、少女の目の前で、缶詰の縁に刃を引っ掛け、てこの原理で、ゆっくりと蓋を切り開いていく。
プシュ、という音と共に、封じ込められていたカレーの、スパイシーで芳醇な香りが、あたりにふわりと立ち上った。
少女の目が、驚きと喜びに、これまでにないほど大きく、まん丸に見開かれた。
僕は、開いた缶詰を、彼女にそっと差し出した。
少女は、僕の顔と、湯気の立つ缶詰を、もう一度見比べると、小さな声で、何かを呟いた。言葉はわからない。でも、きっと「ありがとう」と言ってくれたんだろう。
彼女は、缶詰を宝物のように大事に抱えると、一度だけ、僕に向かってぺこりと頭を下げ、そして、リスのように素早く、森の闇の中へと駆け去っていった。
僕は、その小さな後ろ姿が見えなくなるまで、ただ、静かに見送っていた。
僕の、世界で一番平和な外交は、こうして、温かいカレーの匂いと共に、その第一歩を、確かに踏み出したのだった。
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