第222話 ランベール領へ うーん、オーギュストおじさんが、なかなか会ってくれないんだよなぁ……。
【フェリクス視点】
『アヴァロン帝国歴177年 8月3日 昼 快晴』
白亜の館の執務室で、僕は電信機の前に座っていた。父であるライルから命じられた、ランベール侯爵領との石炭の買い付け交渉。この国の未来のエネルギー源を確保するという、通信大臣として、そして皇太子としての、あまりに重い任務だ。だが、肝心の相手が、なかなかハーグまで来てくれない。
ト・ト・ト ツー・ツー・ツー ト・ツー・ト・ツー……
僕は、電信のキーを叩き、返信を待った。しかし、返ってきたのは、いつもと変わらぬ、事務的な拒絶の電文だった。
「はぁ……。どうして、直接、会ってくれないんだろう……ハーグへ来てくれると嬉しいんだけどなぁ……」
この三ヶ月、電信でのやり取りは、まるで空虚な手紙の応酬のようだった。もっと心温まる電信を期待しているのに、返ってくるのは冷たい事務的な言葉の羅列。僕がいくら熱意を伝えても、オーギュストおじさんの心には、一向に届かない。
(やっぱり、僕が直接、ランベール侯爵領へ行かないと、ダメなのかな)
そう思っていた矢先のことだ。僕の隣で、熱心に電文の整理をしてくれていたノーラが、一通の電文を手に、静かに僕を見た。
「フェリクス様……。ランベール侯爵領から、です」
見れば、その紙には、こう記されていた。
『フェリクス殿下、貴殿が会いに来られるのであれば、応じよう。オーギュスト』
「……っ! 来た! ついに!」
その言葉に、僕は、喜びと、そして緊張で、心臓が大きく高鳴るのを感じた。
「ノーラ、ありがとう! すぐに、南へ向かう準備をしよう!」
僕のあまりの剣幕に、ノーラは少しだけ戸惑ったようだったが、すぐに、こくりと頷いてくれた。
ハーグから南へ。列車は、見慣れた田園風景を抜け、やがて、緑豊かで、しかしどこか険しい、山岳地帯へと入っていった。窓の外に広がるのは、ランベール侯爵領。母さんの故郷だ。
この、厳しくも美しい景色を見ているうちに、僕の胸に、ある一つの疑念が芽生えた。オーギュストおじさんが、なぜ、会ってくれないのか。なぜ、ハーグへ来てくれなかったのか。
数時間後。列車は、ランベール領の中心駅に滑り込んだ。そこから、馬車に乗り換えること、およそ一時間。山の中腹に建つ、ランベール侯爵家の居城へと、ようやくたどり着いた。
謁見室の重い扉が、ゆっくりと開かれる。部屋の中は、父さんが言っていた通り、荘厳で、重厚な空気に満ちていた。そして、その中央に、僕の母さん、ヴァレリアと、瓜二つの顔をした男が、静かに座っていた。
「フェリクスか。遠路はるばる、よく来たな」
その、重々しい声。彼が、オーギュスト新侯爵だ。だが、彼は、玉座ではなく、窓辺に置かれた、車椅子に腰かけていた。その脚は、夏用の毛布に覆われ、僕からは、その様子を窺い知ることはできない。
僕は、一歩前に進み出た。
「お初にお目にかかります、オーギュストおじさん。ヴァレリアの息子、フェリクス・フォン・ハーグでございます」
「ふむ……。ヴァレリアに、よく似ておるな」
彼は、少しだけ目を細めると、苦笑した。
「よく来たね、ヴァレリアの息子フェリクスくん。私は御覧の通りでね、あまり外へ出れないんだよ……」
その言葉は、まるで何日も一人で考え続けたかのような、深い寂しさを含んでいた。
「どうしても車いすだと、外へ出るのがおっくうになってしまってね。君を呼びつけるような形になってしまってすまない」
その言葉が、僕の胸を締め付けた。おじさんの寂しさに満ちた行動の理由が、ようやく分かった。この人は、ライル父さんやヴァレリア母さんとの繋がりを、心の底から求めていたのだ。
僕は、この旅の本当の目的を、思い出していた。交渉ではない。ただ、寂しさに満ちた一人の男の心を、開くこと。
「おじさん」
僕は、車椅子に腰かけるおじさんの前に、静かにひざまずいた。
「母さんが、おじさんのことを、ずっと心配していました」
僕の言葉に、おじさんの目が、わずかに揺れた。
「母さんは、言っていました。先代のオーギュスト候が亡くなって、一人で寂しい思いをしているんじゃないかって。それに、おじさん、僕たちを、おじいさんの葬式にも呼んでくれなかったから、すごく悲しんでいました」
「ぐっ……!」
おじさんは、悔しさに顔を歪め、膝に置かれた毛布を、強く握りしめた。
「あれは……、あれは、私のプライドだ……! 父が死んだ悲しみで、一人で領地をまとめられぬ未熟な姿を、妹に見せるなど、できぬわ……!」
その、あまりに不器用な、しかし、切実な告白。
「おじさん」
僕は、顔を上げた。
「僕、一つだけ、お願いがあります」
「……なんだね?」
「おじい様の故郷の山で、一緒に、石炭を掘らせてくれませんか? もちろん、採掘は僕たちが全部やります! その代わり、そこで見つかった珍しい石とか、面白い植物とか、一緒に分け合いましょう!」
その、あまりに突飛で、純粋な提案に、おじさんは、しばらく呆然としていた。だが、やがて、その顔に、今まで見たことのないような、穏やかな笑みが浮かんだ。
「……ふふっ。お前も、ライルに、そっくりだな……。わかった。君の言う通りにしよう」
こうして、僕とオーギュストおじさんの間で、石炭の鉱脈を巡る、奇妙で、しかし、心温まる約束が交わされた。
交渉が成立した後、僕が駅へと戻ろうとした時、おじさんが、後ろから、寂しそうな声で、僕を呼び止めた。
「……フェリクス。ヴァレリアに、いつか、会いに行く、と、伝えてくれるか」
僕は、笑顔で振り返った。
「うん、もちろん! 母さん、きっと喜びます!」
列車が、ゆっくりと南の山岳地帯を離れていく。窓の外の景色は、行きとは違い、寂しさではなく、どこか温かい、新しい希望の光に満ちているように見えた。
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