第220話 白亜の館の畑、ノーラとグアノ
【ノーラ視点】
『アヴァロン帝国歴177年 7月 白亜の館裏庭』
夏の強い陽ざしを浴びた土は、ふかふかで、生き物みたいに温かかった。
わたしは新しいスコップを両手で握りしめ、白亜の館の裏庭に新しく作られた畑の、柔らかい土を掘り返していた。額から流れる汗が、土の匂いと混じり合う。村にいた頃とは比べ物にならないくらい、上等な農具と、よく肥えた土。ここでなら、どんな作物だって、元気に育ってくれるに違いない。
隣では、ライル様が、いつものにこにことした顔で、大きな麻袋から、何か白い粉を両手ですくい出している。
「今日は、これを撒こう、ノーラちゃん」
「……粉、ですか? これは、一体何でしょう」
袋の口からこぼれ落ちたのは、まるで南の島の砂浜の砂みたいに、真っ白で、さらさらとした綺麗な粒だった。わたしは、思わず目を丸くする。
「グアノだよ。海の向こうの、遠い島でね、海鳥が何百年も、何千年もかけて積もらせたフンが、固まったものさ。これを砕いて粉にすると、肥料としては最高級品なんだ」
「鳥のフン……? 肥料になるのは知ってますけど、海の島のものが、こんなに綺麗な、白い粉になるなんて……」
驚きと同時に、わたしの胸が、きゅうっと高鳴った。
海の向こうから運ばれてきた、最新の肥料。こんな珍しいものを使って畑を耕すなんて、まるで、この帝国の農業の、一番新しい場所に立っているみたいだ。
(すごい……! なんだか、ワクワクする!)
わたしが、一人で興奮していると、背中から、優しくて、聞き慣れた声がした。
「ノーラ、手伝うよ」
振り返った先に立っていたのは、わたしが、この館で一番、大切に思っている方だった。
「フェ、フェリクス様!」
スコップを担いで現れたのは、皇太子殿下であらせられる、フェリクス様だった。夏の暑さで、少しだけ額に汗を浮かべているそのお姿すら、今のわたしの目には、きらきらと、眩しく輝いて見える。
(ああ……フェリクス様と、一緒に畑仕事なんて。まるで、本物の夫婦みたい……)
胸の奥で、甘いときめきを必死に噛み殺しながら、わたしは自分の使っていたスコップを、慌てて彼に差し出した。顔が熱い。きっと、夏の陽ざしのせいだ。
「こ、こちらをどうぞ! わたくしと、一緒に、この畑を耕しましょう!」
フェリクス様は、わたしのあまりの剣幕に、少しだけ困ったように笑い、それでも、黙ってそのスコップを受け取ってくれた。
ライル様は、そんなわたしたちの様子を、実に楽しそうに、にこにこしながら見ている。そして、まるで歌でも歌うかのように、軽やかな手つきで、土に白いグアノを撒いていった。
「こうして、土にたっぷりと栄養をあげれば、きっとすぐに、元気な芽を出してくれるよ。そうだ、ノーラちゃん。この肥料、君の実家にも、少し分けてあげたらどうだい?」
その、あまりに優しい一言に、わたしは、はっとしたように両手を打ち合わせた。
そうだ。父様と、母様。二人が、村で必死に耕している、あの痩せた畑。この魔法の粉があれば、きっと、今年の収穫は、素晴らしいものになるに違いない。
「はい! ぜひ、少し分けていただけますか? 手紙を添えて、父様と母様に送ります!」
わたしは、ライル様から麻袋を受け取ると、その中から、ひと握りの白い粉を、小さな布袋に、こぼさないように、そっと移した。そして、この温かい気持ちが、遠い村まで届くようにと、心を込めて、袋の口を、固く、固く縛った。
封をするとき、隣で、力強く土を耕すフェリクス様の横顔が、ちらりと目に入る。
(この人と一緒に畑を耕して、野菜を育てて……。いつか本当に、夫婦として、一緒に暮らせたら……)
そんな、甘い妄想が、心をくすぐり、わたしの顔が、またじわりと熱くなった。
いけない、いけない。今は、畑のことに集中しないと。わたしは、ぶんぶんと頭を振ると、深呼吸を一つして、館のテラスで、ペンを手に取った。
『父様、母様へ。
お元気ですか。わたしは、ハーグで、元気にやっています。
この白い粉は、グアノといって、海の向こうの島から届いた、とても良い肥料です。これを畑に撒くと、作物が、びっくりするくらい元気に育つそうです。どうか、少しですが、試してみてください。
いつか、お二人にも、ハーグの美味しい野菜を、お腹いっぱい食べさせてあげたいです。
――ノーラより』
その日の夕方。
一日の作業を終え、わたしは、すっかり様変わりした畑を、満足げに眺めていた。
すると、夕日に照らされた、柔らかな土の中から、一つの、小さな緑が、ひょっこりと顔を出しているのが見えた。まだ、頼りない双葉だけれど、その姿は、力強く、天に向かって手を伸ばしている。
「がんばれ……」
思わず、そうつぶやくと、隣で汗を拭っていたフェリクス様が、優しく笑った。ライル様も、遠くから、にこにこと頷いてくれている。
この畑の、小さな芽と。
故郷の実家へ送る、希望が詰まった、この布袋。
そして、わたしの胸の中で、日に日に大きく育っていく、まだ誰にも言えない、この温かい想い。
全部が、きっと、これから豊かに、大きく、実っていく。わたしは、そんな確信にも似た予感を、胸いっぱいに感じていた。
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