第22話 食料帝国と皇帝の駒
【ユリアン皇帝視点】
『アヴァロン帝国歴157年 12月1日 夜 晴れ』
帝都フェルグラントの我が執務室は、静寂に包まれていた。手にしたワイングラスの中で、深紅の液体が揺らめいている。その芳醇な香りと共に、先ほど味わった燻製肉の、驚くべき風味が舌の上によみがえってきた。
ハーグから献上されたという、あの『ハーグ黒豚』。コーン由来の甘みを持つ脂身と、凝縮された赤身の旨味。あれは、もはや単なる食料ではない。芸術品であり、そして、恐るべき『力』だ。
(……槍、爆薬、大砲、ポテト……そして、今度は豚肉か。あの辺境の地は、もはや一個の独立した食料帝国ではないか。ライルよ、お前は一体、どこまでいくつもりだ……?)
我がもとに届けられた報告書には、信じがたい事実が記されていた。あの絶品である豚肉が、収穫後に捨てられるはずだったコーンの茎や葉を、発酵させた飼料で育てられているという。そして、その豚の糞尿は、来年の畑を肥やすための極上の堆肥となる。無駄が、一切ない。我が与えた一つの種が、あの辺境の地で、完璧な循環サイクルを生み出す錬金術に変わっていたのだ。
(偶然か? ただの幸運か? いや、偶然にしては、あまりに出来すぎている……! あの男、やはり底が知れん)
我がライルへの評価、いや、警戒心を新たにしていた、その時だった。
「陛下! 申し上げたいことがございます!」
血相を変えて執務室に飛び込んできたのは、保守派貴族の筆頭、ダリウス公爵だった。
「聞き及びましたぞ! あのライルとかいう若造が、今度は豚で莫大な利益を上げ、あろうことか、食糧難にあえぐ周辺国との独自の交易まで始めようとしているとか! あの男にこれ以上の力を与えるのは危険です! 帝国の秩序を乱す前に、その芽を、今すぐ摘み取るべきですぞ!」
我は、ヒステリックに叫ぶダリウス公爵を、冷ややかに見つめた。
「卿は、あの豚肉をまだ味わっておらぬようだな。あれは、帝国の宝となりうる逸品だ。芽を摘むなどと、愚かなことを申すな」
「し、しかし……!」
「それよりも、こちらの問題はどうする?」
我は、机の上の別の報告書を、ダリウス公爵の前に突きつけた。
「東の国境で、砂漠の民による我が帝国領への略奪行為が頻発している。原因は、奴らの国の不作による食糧不足だ。どうする、ダリウス卿? 軍を送るか? 金がかかるぞ。食料を送るか? 我が帝国とて、飢えた蛮族にくれてやるほどの余裕はない」
「そ、それは……」
ダリウス公爵は、言葉に詰まった。そうだ、それでいい。貴様のような旧弊な貴族には、この難局を乗り切る知恵などないのだ。
我は、まるでチェス盤の駒を動かすように、楽しげに言った。
「そこで、だ。面白い手があるだろう? 飢えた獣には、上質な餌を与えて手なずけるのが、最も安上がりで確実なのだ」
我が視線は、地図の上、ハーグのある北方を捉えていた。
「ライルにやらせる。ハーグの『食料』を武器に、東の蛮族を手なずけさせるのだ。成功すれば、帝国は兵を動かすことなく東の脅威を抑えられ、新たな交易路も開ける。失敗したところで、損をするのはあの辺境伯だけ。どちらに転んでも、朕に損はない」
我は書記官を呼ぶと、新たな勅書をしたためるよう命じた。
「『辺境伯ライル・フォン・ハーグに命ず。貴様のその豚肉とやらで、東の砂漠の民を懐柔せよ。見事、これを成し遂げた暁には、褒美として東方交易路におけるすべての独占権をくれてやる』……とな」
やがて、勅使がハーグへ向けて出発していくのを、我は執務室の窓から見送った。
(槍、爆薬、大砲、食料……。我が与えた小さなきっかけから、次々と盤上をひっくり返す、規格外の駒を生み出しおる)
我は、ワイングラスに残った最後の一滴を飲み干した。
(ライルよ、今度は、お前が帝国の東方をどう染め変えるか。見ものよな……)
帝都の夜景を見下ろしながら、我は一人、不敵な笑みを浮かべていた。
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