第219話 研究所の天才たち、ハーベル・ボッシュマンの場合
【ハーベル・ボッシュマン視点】
『アヴァロン帝国歴177年 7月15日 昼 晴れ』
私の世界は、常にフラスコと、試験管と、そして鼻を突くアンモニアの匂いで満たされている。
アシュレイ工廠の誰もが、私のことを『歩く実験室』と呼ぶ。自分でも否定はしない。この体に染みついた薬品の匂いは、私が科学の深淵に挑み続けてきた、誇りであり、呪いでもあった。
その日、私は自らの研究室で、一つの奇跡を前に、立ち尽くしていた。
目の前にあるのは、無骨な鉄の塊――高圧反応炉。だが、この中で起きていることは、まさに神の領域への挑戦であった。
(ついに、成し遂げた。……空気から、パンを、そして、死を、作り出す方法を)
後に『ハーベル・ボッシュマン法』と呼ばれることになるその技術。それは、この世界のどこにでもある空気を原料とする。空気の約八割を占める窒素は、生命の源でありながら、植物はそれを直接利用できない。私は、そのありふれた窒素を、高温高圧下で水素と化合させ、アンモニアという物質に変換することに成功したのだ。
このアンモニアは、二つの顔を持つ。土に返せば、あらゆる作物を驚異的に育ませる奇跡の『肥料』となる。だが、一度その組成を変えれば、山をも砕く、恐るべき『爆薬』の原料ともなるのだ。
(生命を育む力と、生命を奪う力。この、あまりに強大すぎる力を、私は、世界は、正しく使うことができるのだろうか……)
そんな私の苦悩を知ってか知らずか、嵐は、いつも突然やってくる。
「ヒャッハー! ハーベル! あんた、やっぱり私の見込んだ通りの天才っスよ!」
研究室の扉が、まるで爆発したかのように開かれた。アシュレイ殿だ。彼女は一枚の報告書を、勝利の旗のように振りかざしている。
「見たっスよ、新型爆薬の試験結果! あんたが作ったアンモニアから合成した新型ニトロ化合物、従来のダイナマイトの数倍の破壊力じゃないっスか! これさえあれば、帝国の軍事力は、また飛躍的に向上する! すぐにでも軍事利用の計画を立てるっスよ! 生産ラインを、今すぐ軍需用に確保します!」
その、あまりに物騒で、あまりに純粋な言葉が、私の心を締め付ける。
違う。私は、ただ、殺戮の道具を作りたかったわけでは……。
「ハーベル殿」
私が何かを言い返そうとする前に、今度は静かな、しかし、アシュレイ殿の熱気とは全く違う情熱を秘めた声が、部屋に響いた。農業担当大臣のゲオルグ殿だった。
「……先日、あなたのアンモニアから作った『肥料』を、試験的に撒いた畑の、収穫データです。ご覧ください。小麦の収穫量が、例年の、実に三倍以上に……」
彼は、土の匂いがするその報告書を、まるで聖書のように、私の前にそっと置いた。
「これは、奇跡です。この肥料があれば、この国から、飢えという言葉そのものを、なくすことができるかもしれませぬ。どうか、お願いです。その素晴らしい発明を、民のために、畑のために、使わせてはいただけませぬか」
その瞬間、私は、二つの巨大な力の、奔流の只中に立たされた。
「何を言うんスか、ゲオルグさん! 国防あっての食料でしょ! この技術は、まず、国を守る力として使うべきっス!」
「アシュレイ殿! 腹が減っては戦はできぬ、と申します! 民の腹を満たすことこそが、国を豊かにし、真の平和をもたらすのではありませぬか!」
軍事と、農業。破壊と、生産。
二つの、どちらもがこの国にとって不可欠な『正義』が、私の、たった一つの発明を巡って、激しくぶつかり合う。私には、そのどちらかを選ぶことなど、到底できなかった。
(やめてくれ……! 私の発明は、お二人の争いのためのものではない!)
私は、耐えきれず、手元にあった二種類の無害な液体を、手早くビーカーの中で混ぜ合わせた。
ポンッ、と気の抜けた音と共に、大量の白い煙が、もくもくと立ち上る。
「うわっ!?」「おおっ!?」
突然のことに驚き、言い争いをやめる二人。
私は、煙の向こうで、震える声で、しかし、はっきりと叫んだ。
「お二人とも、どうか、お静まりください! この技術をどう使うかなどという、あまりに大きな決断を、わたくしのような、ただの研究者に、決められるはずがございません!」
私は、眼鏡の位置を直すと、二人を、そして、その向こうにいるであろう、この国の、唯一絶対の裁定者を見据えた。
「これは……副宰相である、ライル様のご判断を、仰ぐべき問題です」
その日の夕刻。白亜の館の、ライル様の執務室。
私は、アシュレイ殿とゲオルグ殿に挟まれ、まるで罪人のように、その場に座っていた。胃が、キリキリと痛む。
ライル様は、私の書いた、専門用語だらけの報告書を、まるで絵本でも読むかのように、にこにことした顔で眺めている。
「うーん、つまり、すごく大きな爆発が起こせて、野菜もすごく大きく育つ、魔法の粉ができたってことだよね?」
その、あまりに単純な要約に、私は、こくこくと、必死に頷くことしかできなかった。
すると、ライル様は、こともなげに、こう言ったのだ。
「だったらさ、別に、どっちか一つに決めなくてもいいんじゃないかな?」
彼は、いつものように、思ったことを、そのまま口にした。
「半分は爆薬にして、半分は肥料にすればいいんだよ。国を守るのも、みんなのお腹をいっぱにするのも、どっちも、すごく大事なことなんだから」
(……え?)
その、あまりに単純明快な一言。
アシュレイ殿とゲオルグ殿は、一瞬、きょとんとした顔でライル様を見たが、やがて、顔を見合わせ、ふっと、同時に笑みをこぼした。
私だけが、その場で、ぽかんとしたまま、固まっていた。
私の、何日も、何週間も続いた苦悩を、この人は、たった一言で、まるで魔法のように、解きほぐしてしまった。
(……ああ、そうか。だから、この人の周りには、天才が集まるのか)
この、常識という名の檻に、少しも囚われない、自由な魂。
私は、初めて、心の底から、安堵のため息をついた。私の発明は、きっと、この人の手の中にある限り、間違った道へは進まないだろう。そんな、確信にも似た予感がした。
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