第217話 真実を知っている娘、ヘルガ
【フェリクス視点】
『アヴァロン帝国歴177年 6月16日 昼 曇天』
父ライル・フォン・ハーグが、発明されたばかりの自転車で皇宮から逃走するという前代未聞の事件の後、残された玉座の間は、まるで時間が止まったかのような、気まずい沈黙に支配されていた。
居並ぶ貴族たちは、今の今まで目の前で起きていたことが信じられないという顔で、ただ呆然と立ち尽くしている。若き皇帝リアン陛下は、最初こそ驚きに目を丸くしていたが、やがてこらえきれなくなったのか、ぷっと噴き出し、肩を震わせて笑い出した。
「はははっ! いや、すまない。だが、ライル殿らしいではないか!」
その一言で、凍りついていた場の空気が、ようやく動き出す。僕は、内心で深いため息をつきながらも、一歩前に進み出た。
(やれやれ、父さんの後始末は、いつだって僕の役目だ……)
僕は、皇太子として、そしてこの国の通信大臣として、できるだけ落ち着いた、威厳のある声で告げた。
「皆様、お見苦しいところをお見せいたしました。父は少々、昔のことを思い出して感傷的になったようです。本日の式典は、これにてお開きとさせていただきます。ヘルガ男爵家への支援に関しましては、このフェリクスが責任をもって、滞りなく行うことを保証いたします」
僕の言葉に、貴族たちはようやく我に返り、ざわめきながらも、それぞれの持ち場へと戻っていく。
さて、この、ヘルガさんどうしよう?
父さんが、ただの幸運な凡人であると、初対面で見抜いてしまった、恐ろしく勘の鋭い少女。彼女をこのままにしておくわけにはいかない。僕は、まだ一人で呆然と立ち尽くしている彼女の元へと歩み寄った。そして、隣で心配そうに僕を見守ってくれていた、僕の副官に声をかける。
「ノーラ。少し、街へ出よう。ヘルガさんも、ご一緒しませんか?」
僕の誘いに、ヘルガさんは少しだけ驚いたように目を見開いたが、こくりと静かに頷いてくれた。
そう、僕の隣に立つこの快活な少女、ノーラは、この春にハーグの学校を首席で卒業し、今では正式に、僕の副官として、公私にわたって僕を支えてくれる、かけがえのないパートナーとなっていた。
僕たちは、皇宮の喧騒を後に、帝都ハーグの街へと繰り出した。
向かった先は、西通りに新しくできた、若い女性に大人気だというアイスクリーム屋だ。色とりどりのアイスが並んだガラスケースの前で、ヘルガさんは、物珍しそうに目をぱちくりさせている。
「さあ、好きなものを選んで。僕のおごりだよ」
僕とノーラは定番のミルク味を、ヘルガさんは、少しだけ迷った後、真っ赤なイチゴ味を選んだ。
近くの公園のベンチに三人で腰を下ろす。ひんやりと甘いアイスが、火照った頭を心地よく冷やしてくれた。ちょうど、公園のスピーカーから、お昼のラジオ放送が流れ始めたところだった。
『はーい、皆さんこんにちは! 帝都ハーグの胃袋を鷲掴み! 新人パーソナリティ、エミリアとマルクがお届けする、『まんぷくハーグ・ネクストジェネレーション』! 今日のテーマは……』
僕とノーラが司会をしていた番組は、後進に道を譲る形で、この春から新しいコンビが担当していた。
「ふふっ、新しいラジオの人たち、ちょっとまだ、慣れていないですね。声が、少し上ずってる」
ノーラが、アイスを頬張りながら、楽しそうに笑う。その横顔は、僕が初めて村で会った頃の、素朴な少女の面影を残しながらも、帝都の洗練された空気にすっかり馴染んでいた。
「ははっ、僕たちも最初はこんなものだったろう? マイクの前で、二人してガチガチになって」
僕たちが、懐かしい思い出話に笑い合っていると、ヘルガさんが、不思議そうな顔でこちらを見ていた。その視線に気づき、僕は、少しだけ真面目な顔で、彼女に本題を切り出した。
「ところでヘルガさん。……父が凡人なの、気付いていますよね?」
僕の、あまりに率直な問い。ヘルガさんは、一瞬、驚きにスプーンを止めたが、すぐに、観念したように、小さな声で答えた。
「え、ええ、まあ……。あの方の武勲や成功は、そのほとんどが、幸運の産物であると、そうお見受けしました」
その正直な答えに、僕は、なぜか嬉しくなって、にこりと笑った。
「やっぱり。……でも、ぼく、思うんですけど、ウチの父みたく、ここまで幸運が続く人って、もはや幸運っていうか、運そのものに愛されているような気がするんですよね。一つの奇跡は偶然でも、奇跡を起こし続けるのは、もはや、才能じゃないかと」
僕がそう言うと、ノーラも、こくこくと深く頷いた。
「あっ、それ、すごくわかります! ライル様って、周りにいるだけで、なんだか物事が全部、良い方へ、良い方へ転がっていくような、不思議な力がありますよね」
二人の言葉に、ヘルガさんは、うーん、と少しだけ考え込むような仕草を見せた。そして、イチゴ味のアイスを一口食べると、ぽつりと、呟いた。
「……私のおじいちゃんを仕留めたのは、確かに偶然かもしれません。でも、その後の……国を作り、帝国をまとめ上げ、そして、今日、祖父の名誉を回復してくださったことまでが、全て偶然だとは、言い切れないのかもしれませんね」
その、彼女なりの答えを聞いて、僕は、心の底から嬉しくなった。
「そういうこと! よかったら、時々、ウチへおいでよ! 父さんには、君みたいな人が必要なんだ。父さんのことを、ちゃんと見て、本当のことを言ってくれる人がね。きっと、いい刺激になるよ」
「えっ、わたくしのような者が、よろしいのですか?」
「うん、もちろん!」
僕の屈託のない笑顔に、ヘルガさんの、ずっと張り詰めていたような表情が、ふっと、初めて、和らいだ気がした。
その日から、本当に、ヘルガさんは、毎日のように白亜の館へ通ってくるようになった。
最初は、僕やノーラと話すのが目的だったようだけど、すぐに、この館の本当の魅力に気づいてしまったらしい。アシュレイ母さんや、世界中から集まった妃たちが作る、多国籍で、毎日食べても飽きない、最高に美味しい食事。それが、彼女の一番のお目当てになったのだ。
子供たちともすぐに打ち解け、庭で一緒に駆け回ったり、本を読んであげたりしている姿は、すっかりこの館の日常風景の一つになっていた。
ただ一人、父ライルだけを除いては。
父さんは、ヘルガさんが館にいる間、ずっと、何かに怯える子犬のように、ビクビクしていた。食堂で、遠くの席からこちらの様子を窺ったり、廊下でばったり会おうものなら「ひっ!」と小さな悲鳴を上げて、足早に去っていってしまう。自分の本質を、完全に見抜いている少女との同席は、さすがの父さんにも、心臓に悪いらしい。
だが、そんな奇妙な関係も、少しずつ、変化していった。
ヘルガは、父さんに媚びるでもなく、恐れるでもなく、ただ、一人の人間として、ごく自然に接した。そして、何より、彼女が、心の底から幸せそうに、この館の食事を頬張るのだ。その、あまりに無垢な笑顔を見ているうちに、父さんの、頑なだった警戒心も、少しずつ、雪解け水のように、溶けていったのだろう。
ある日の夕食。
食卓で、ふと、父さんとヘルガさんの目が合った。父さんは、いつものようにびくっと肩を震わせたが、すぐに、観念したように、はにかんだような、少しだけ困ったような笑顔を、彼女に向けた。
それを見たヘルガさんも、ふふっと、小さく、楽しそうに笑った。
白亜の館に、また一人、新しい家族(のような存在)が増えた、そんな温かい予感がした、穏やかな夜だった。
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