第213話 研究員クラウスと、リヒター国鉄総裁、そして旧サロンメンバーたち どうする? 逃げるか? 皆を集めろ!
【研究員クラウス視点】
『アヴァロン帝国歴177年 4月1日 昼 晴れ』
旧帝都フェルグラントの空は、春の日差しとは裏腹に、どこか色褪せて見えた。ヴェネディクト侯爵が実権を握って以来、この歴史ある都から活気は失われ、人々の顔からは笑顔が消えた。街角には武装した兵士が立ち、行き交う人々を鋭い目で見張っている。自由な空気は、もはやどこにもない。
わたくし、アヴァロン帝国研究員のクラウスは、そんな息の詰まる街を足早に抜け、城の一角にある、今は使われていないはずのサロンへと向かっていた。主を失って久しいその場所は、今はリヒター国鉄総裁が管理という名目で借り受け、思いがけない隠れ家となっていた。
重厚な扉を開けると、そこには懐かしい顔ぶれが集まっていた。
武骨な軍人上がりのイェーガー伯爵。常に流行を追い求める軟弱者のエーデルシュタイン伯爵。そして、帝都の社交界を牛耳っていたヴァイスハイト伯爵夫人。皆、今は亡きユリアン皇帝と親しかった者たちだ。わたくしたちは、まるで秘密結社のように、ここで密かに息を潜めていた。
皆、なつかしそうに、ユリアン皇帝が居た頃と同じ席についている。
エーデルシュタイン伯爵が、少しだけぎこちない手つきでシェイカーを振っていた。
「見よう見まねですが、カクテルを作りましょう。もっとも、ユリアン皇帝に比べれば下手でしょうが……」
その声には、かつての軽薄さはなく、ただ深い寂寥感が滲んでいた。主を失ったサロンは、薄っすらと埃をかぶり、ただ静かだった。
ヴァイスハイト伯爵夫人が、気怠そうに肘をつきながら、わたくしに視線を向けた。
「ねえ、クラウス殿、噂のラジオとやらは使えるのかしら?」
その言葉に、軍人であるイェーガー伯爵が、鋭い目でこちらを睨む。
「頼みますぞ。情報は戦場においても命ですからな」
わたくしは、サロンの隅に置かれていた、ヴィンターグリュン製の木箱……ラジオを一瞥した。この仕組みは、電信の応用だ。ならば、遠いハーグからの電波を受信するためには、より高く、より強力なアンテナがあれば良い。
「……お任せください。帝都の電信アンテナにラジオ用のものを取り付けておきました。あそこが帝都で一番高い場所……おそらく、これでつながるはず……」
わたくしがツマミを回すと、ザザッという雑音の後、スピーカーから陽気な音楽が流れ出した。そして、若い男女の明るい声が、この淀んだサロンの空気を打ち破った。
『ユリアン皇帝のレシピのコーナー! はい、このコーナーでは、故ユリアン皇帝が残した膨大なレシピを再現するコーナーで~すっ!』
『今日も再現する、のです!』
エーデルシュタイン伯爵が、皆にカクテルを配りながら、ぱっと顔を輝かせた。
「おお、つながりましたな!」
ヴァイスハイト伯爵夫人は、カクテルを一口飲み、サラミをつまみながら、ラジオに耳を傾けていた。
「あら、ユリアン皇帝のレシピですってよ。ちょっと楽しみね」
イェーガー伯爵も、腕を組みながら感心したようにラジオに聞き入っている。
「これがハーグの……ヴィンターグリュンの新技術ですか」
その時、ラジオから、わたくしたちが聞き慣れた、しかし、今は遠い存在となってしまった声が聞こえてきた。
少女が明るい声で紹介する。
『今日のゲストは~っ! なんとびっくり、スペシャルな方です! リアン皇帝です~っ!』
『どうも、朕が帝国の皇帝である。それでフェリクスよ、今日の一品はなんだ?』
フェリクスが答える。
『今日は、陛下がお越しということで、レガリア・ロワイヤルを再現してみようと思います!』
その名を聞いた瞬間、サロンの空気が変わった。
「あら、ハーグではレガリア・ロワイヤルが飲めるのね……なつかしいわ……」
「作り方が伝わっておりませんからな……せめて分かれば……」
「まったくです。これでは、ハーグが皇帝の正当後継者ではありませんか!」
ラジオの中では、シャンパンをベースに、数種類の果実を絞り、黄金色のカクテルが作られていく音がする。その間、三人の楽しげな雑談が続いていた。
雑談はノーラと呼ばれた少女から始まった。
『そういえば陛下、ヴィンターグリュンの呼び方は、王国が正しいのですか? 帝国が正しいのですか?』
『うむ、教えてやろう。もともとヴィンターグリュンは一つの北方の王国。そこに朕が間借りしてるだけよ。今の余に領土はないからな。だから王国と帝国の、二重帝国であるな』
『うちの父さん……ヴィンターグリュン国王ライルに頼んで、どこか割譲してもらってはどうです?』
『ははっ、どこか帝国本土が手に入ったら、その時はアヴァロン帝国の復活を宣言しよう』
『フェリクス兄さん、コーヒーゼリーできましたっ!』
『こっちも、レガリア・ロワイヤルができたよ』
『それでは、実食!』
楽しげな声、グラスの触れ合う音、スプーンが器に当たる音。その全てが、この息の詰まるフェルグラントとは別世界の、自由で、温かいハーグの空気を、ありありと伝えてきた。
「いいな、ハーグではまた知らない文化が生まれているようだ」
わたくしのぽつりとした呟きに、サロンの皆が、押し黙ってしまった。
ラジオは、無慈悲に続く。
『ノーラちゃん。ちょっとコーヒーゼリー、もうちょっとプルプルしていたほうがよくない?』
『うーん……ゼラチンが足りなかったかなぁ』
『だが、味は良いぞ。ミルクとシロップに合う。まあ、もうちょっと固いほうが良いかもしれんな』
『では、ゲストに点数をつけてもらいましょう!』
ドラムロールの音が流れる。
『今日の出来は……六十五点だな! レガリア・ロワイヤルが八十点。コーヒーゼリーが五十点といったところか?』
『もっと精進します!』
『わたしも~! でも〇点じゃなくて良かった~』
『はっはっは、店で出すならもうちょっとと言ったところかの?』
番組が終わりに近づいたのか、お決まりであろうフレーズをフェリクスが話す。
『それでは、リアン陛下。明日の番組のゲストを紹介してください!』
『うむ。明日は亡命してきたシュタインブリュック男爵に来てもらおうと思う! 何か美味い物をたべさせてやれ』
『それでは、フェリクスとノーラのまんぷくハーグ! また明日のお昼に会いましょう!』
『暇な国民はぜひラジオを聞いてほしい。朕からのお願いだ』
『この後は、最新のニュースです!』
ノーラが次の番組予告をすると、再び陽気な音楽が流れ始めた。
放送が終わり、サロンは、葬儀場のような沈黙に包まれる。皆、ラジオに食い入るように聞いていた。誰かが、ぽつりと呟いた。
「ハーグへ……行きたいのう……」
リヒター国鉄総裁だった。彼の目には、深い、深い渇望の色が浮かんでいた。
「列車で国境線を突っ切るか?」
総裁のあまりに無謀な一言に、イェーガー伯爵が、初めて闘志の炎をその目に宿した。
「仲間の貴族たちも集めましょう」
「だけど説得できるかしら?」
「このラジオを聞かせれば、あるいは……」
どうする? 逃げるか?
この、沈みゆく泥船から、あの光溢れる場所へ。
リヒター国鉄総裁が、静かに、しかし、力強く立ち上がった。
「分かった。列車は、ワシとクラウスでどうにかしよう」
「総裁、鉄が足りないからと、溶かされる予定の列車があります。もったいないので使いましょう。総裁は水と石炭を手配してください」
「任せておけ!」
一同は、静かに頷いた。
それは、帝国の未来を賭けた、静かで、しかし確かな反撃の狼煙が上がった瞬間だった。
わたくしたちは、すぐに行動を開始した。
そう、逃げるのだ、できるだけ多くの仲間を連れて……。
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