第212話 国境の、と、ある男爵領にて
【シュタインブリュック男爵視点】
『アヴァロン帝国歴177年 3月15日 昼 晴れ』
わがシュタインブリュック男爵領は、どこまでも穏やかな土地であった。わしの人柄がそうさせるのか、それとも、ただ時代から取り残されているだけなのか。民は貧しいながらも互いに助け合い、日々の暮らしにささやかな満足を見出しているように見えた。
かつて、この地にも活気があった。北のヴィンターグリュン帝国との交易列車が、人や物を運んできた頃の話だ。だが、列車が来なくなって久しい今、駅舎は巨大な骸のように静まり返り、赤錆びた線路が、過ぎ去った時代の墓標のように横たわっている。
その日の昼下がり、わしは領民たちと共に、村で唯一の酒場にいた。皆の視線が注がれているのは、カウンターの隅に置かれた木箱……ヴィンターグリュンから届く電波をかろうじて拾う、貴重なラジオだ。箱の中から聞こえてくる若い男女の声は、まるで別世界の物語のようであった。
『……わたくしたちは、ただ、人間として当たり前に生きたい。ただそれだけのために、命懸けで国境を越えてきたのでございます……』
ラジオから流れる、アヴァロン帝国から逃れてきたという農夫の魂からの叫び。その言葉が、この場にいる者たちの胸を、重く、そして静かに締め付ける。
『……わかりました。このヴィンターグリュンは、あなた方を、そして、助けを求める全ての人々を、歓迎します』
ヴィンターグリュン皇太子フェリクスの、力強い宣言。放送が終わり、酒場は重い沈黙に包まれた。民たちの視線が、痛いほどわしの背中に突き刺さる。彼らが何を望んでいるのか、わしにはもう、分かりすぎるほど分かっていた。
やがて、村長がゆっくりと席を立った。
「男爵様。村の者たちが、お話がある、と……」
「……分かっている」
わしは静かに頷き、皆に向き直った。その目は、皆、同じ色をしていた。懇願と、そして、どうしようもない渇望の色を。
一人の若い男が、震える声で口火を切った。
「男爵様! わたくしたちも、ヴィンターグリュンへ、参りましょう! このままでは重い税に、未来も希望も、全て奪われてしまいます!」
その声を皮切りに、次々と声が上がる。わしは、天を仰いだ。
(……いつか、こうなるような気がしていた)
この、痩せた土地にしがみついていても、未来はない。領主として、民の未来を思うならば、答えは、とうに決まっていた。
「わかった、準備をしよう」
わしの苦渋の決断に、酒場がわっと歓声に包まれた。
だが、その中でただ一人、顔を真っ青にして異を唱える男がいた。農夫のゲルト。確か、娘が一人、ハーグにいると聞いていたが。
「だ、だめだ! そんなこと、できるはずがねえ!」
その場違いな叫びに、皆の視線が一斉に彼へと突き刺さる。村人たちの非難の声が、彼を追い詰めていく。
「おいおい、ラジオに出ていたノーラって娘は、お前の娘だろうが?」
「そうだ! 娘さんが、あっちの国で、あんなに立派にやっているというのに!」
「まさかお前、ノーラちゃんに、何かひどいことでもしたんじゃないだろうな?」
ゲルトの顔から、さっと血の気が引いた。別の男が、追い打ちをかける。
「そういやお前、ノーラちゃんがいなくなった頃、一時期、妙にカネ回りが良かったよな?」
ゲルトは、もはや逃げ場がなかった。彼はその場で崩れるようにひざまずくと、全てを白状した。ヴィンターグリュンの皇太子からの特待生の申し出を、金に目がくらみ、「金を置いていけ」と、娘を売るような真似をしてしまったことを。
「……オラは、娘を、売っちまったんだ……。そんなオラが、どの面下げて、ノーラに会えるって言うんだ……」
嗚咽混じりの、情けない告白。村人たちの軽蔑の視線。
わしは、静かに席を立つと、彼の前に歩み寄った。
「もうよい、ゲルト。顔を上げなさい」
わしは、彼の震える肩に、優しく手を置いた。
「過去は消せぬ。だが、これから父親として、どう生きるか。それは、お前さん自身が決めることだ。……分かった。ヴィンターグリュンの上の者たちには、わしが、うまく説明してやる。だから、お前さんも一緒に行くのだ」
そして、わしは酒場にいる全員を見回し、はっきりと告げた。領主としての、最後の命令を。
「皆も、持てるだけの荷物を持ちなさい。……今夜、この村を出るぞ」
その夜、わしは民と共に、生まれ育った土地を後にした。
暫定的な国境となっている、冷たい小川を渡る。その先に、信じられない光景が広がっていた。
夜の闇を煌々と照らし出す、無数の光。不夜城ハーグ。ラジオで聞き、夢にまで見た、希望の光そのものだった。
街角のラジオからは、優しい男の声が流れていた。ライル侯爵による、子供たちのための子守歌。
(……あれが、我らの新しい国か)
わしは、民の先頭に立ち、その光の中へと、ゆっくりと歩き出した。我らの、長い、長い夜が、明けようとしていた。
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