第210話 文化侵略
【農夫ハンス視点】
『アヴァロン帝国歴177年 3月10日 夜 曇り』
時は少しだけ遡る。
オラの生まれ育ったグレンツェ村は、その名の通り、アヴァロン帝国と、北のヴィンターグリュン帝国との、ちょうど境目にあった。だが、国境とは名ばかりで、ここにあるのは、どこまでも続く、痩せた畑と、古びた家々と、そして、どうしようもない閉塞感だけだった。
(ああ、今日も一日、なにも変わらねえな……)
泥だらけの手で鍬を置き、オラは西の空に沈んでいく、頼りない太陽を眺めた。明日も、明後日も、きっと同じ日が来る。重い税を納めるために、ただ、ひたすらに土を耕すだけの毎日が。
そんな、色のないオラたちの暮らしに、唯一、彩りを与えてくれるものが、一つだけあった。
「おーい、ハンス! そろそろ始まるぞ!」
村の酒場『樫の木の盾亭』。その、薄汚れた扉を開けると、むっとするような汗の匂いと、安物のエールの酸っぱい匂いが、オラを迎えた。店内は、一日の仕事を終えた村の男たちで、ぎゅうぎゅう詰めになっている。そして、その視線は皆、カウンターの隅に置かれた、一つの奇妙な木箱へと、熱っぽく注がれていた。
ラジオ。行商人が、法外な値段で村長に売りつけていったという、音楽が流れる魔法の箱だ。
「あーあ、ずっと同じ音楽が流れてるだ」
「まあ、待てよ。もうすぐ、時間だ」
誰かがそう言った、その時だった。それまで陽気な音楽を奏でていた箱から、ふっと音が消え、代わりに、若い男女の、明るく、楽しげな声が響き渡った。
『はーい、皆さんこんにちは! お昼のひととき、いかがお過ごしですか? あなたの心とお腹を満たす三十分、『フェリクスとノーラのまんぷくハーグ!』、始まるよ!』
『始まる、のです!』
その声を聞いた瞬間、むさくるしい酒場が、わっと歓声に包まれた。
「始まった、始まった!」
「今日は、何を食うんだべな!」
その番組は、帝都ハーグの美味しいものを、ただひたすらに紹介するという、オラたちにとっては、拷問のような内容だった。
『今日のテーマは、西通りに新しくできたカフェの、コーヒーゼリーです! 見てください、この黒く輝く、ぷるぷるとした宝石を!』
『わあ、本当です! それでは、さっそく、いただきます! ……んーっ! ほろ苦くて、甘くて、冷たくて、最高です!』
酒場に、ごくり、と誰かが喉を鳴らす音が響く。
「オラも、その、コーヒーゼリーってやつ、一度でいいから食ってみたいべ……」
「ハーグは、いいなあ。毎日、そんな美味いもんが食えるんだもんなあ」
ラジオは、オラたちに、残酷な夢を見せ続けた。
砂糖をたっぷり使った、ふわふわの菓子パン。肉汁が溢れ出す、極太のソーセージ。そして、どんな病気でも治してくれる、立派な病院。子供たちが、身分に関係なく通えるという、大きな学校。
そして、何より、オラたちの心を締め付けたのは、電気の話だった。
オラたちの村では、貴重な油で灯すランプの光が、夜の全てだ。だが、ハーグという街では、夜でも、太陽のように明るい電灯が、一日中、煌々と輝いているという。
「そろそろ、放送も終わりだべな。うちの蓄電池も、もう空っぽだ」
村に一台しかないラジオは、村長が金持ちの道楽で買った、風車で電気を貯める装置で動いていた。だが、その電気も、一日、わずか数時間しか持たない。
「でも、ハーグじゃ、一日中、電気が使えるんだべな……」
誰かが、ぽつりと呟いた。その言葉に、酒場は、重い、重い沈黙に包まれた。
憧れは、いつしか、どうしようもない渇望へと変わっていた。
その渇望が、決意に変わったのは、それから、ひと月ほど過ぎた頃だった。
村に、領主様からの、新しいお触れが出たのだ。『帝国の栄光のため』とかなんとか言って、また、税が上がるらしい。
「もう、やってらんねえだよ……!」
その夜、酒場に集まった若い連中の顔は、いつになく、荒んでいた。
オラの家では、下の娘が、熱を出して寝込んでいた。村には、ろくな薬もない。ラジオから流れるハーグの豊かな暮らしと、この、どうしようもない現実との、あまりの差。
オラの中で、何かが、ぷつりと、音を立てて切れた。
「……オラ、ハーグへ行く」
オラの、静かな、しかし、決意に満ちた一言に、酒場が、しんと静まり返った。
「国境を、越えるだ。このまま、ここで、希望もねえまま、死んでたまるか。オラの子供には、腹いっぱい飯を食わせて、明るい電気の下で、勉強させてやりてえんだ」
オラの言葉に、最初に頷いたのは、いつも一緒に畑仕事をしていた、親友のヨハンだった。
「……オラも、行く。もう、ここの暮らしには、うんざりだ」
一人、また一人と、若い男たちが、次々と立ち上がっていく。
その日から、オラたちの、密かな計画が始まった。
なけなしの金を出し合い、干し肉と、硬いパンを買い集める。行商人から、国境警備隊の交代時間や、警備が手薄な獣道の情報を、聞き出した。全ては、この、息が詰まるような村から、抜け出すために。
決行は、月明かりすらない、新月の夜だった。
オラは、眠っている妻と、熱にうなされる娘を、静かに起こした。
「……行こう。約束の、場所へ」
妻は、何も言わずに、頷いてくれた。
なけなしの家財道具をまとめた、小さな包みと、娘を背負い、オラたちは、音を殺して、生まれ育った家を後にした。
村のはずれの、古い樫の木の下には、同じように、家族を連れた十数人の仲間たちが、息を潜めて集まっていた。
オラたちは、暗い、暗い森の中を、ただ、ひたすらに北へと向かった。
木の根に足を取られ、転びそうになる妻の手を、強く握る。背中の娘が、ぐずりだすたびに、心臓が凍りつきそうになった。遠くで、警備兵の、ものものしい角笛の音が聞こえる。
その、絶望的な暗闇の中で、オラたちの心を支えてくれたのは、あの、ラジオから聞こえてきた、ハーグの陽気な音楽だった。誰からともなく、そのメロディーを、小さな声で口ずさみ始める。それが、オラたちの、唯一の合言葉だった。
どれほどの時間が、経っただろうか。
森を抜け、目の前に、一本の、小さな川が見えてきた。これが、国境線だ。
オラたちは、凍えるように冷たい、冬の終わりの川の水を、歯を食いしばって渡った。
そして、ヴィンターグリュン帝国側の、岸辺にたどり着いた、その時。
遠くの丘の向こうに、それが見えた。
夜の闇を、煌々と照らし出す、いくつもの、温かい光の点。鉄道の駅の、夜通し灯る、電灯の明かりだった。
「……ああ」
オラの頬を、涙が伝った。それは、悲しみの涙じゃない。
オラたちの、新しい人生の始まりを告げる、希望の光だった。
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