第207話 議会、はじめての分裂。なあ、よく考えたら、もう城壁っていらなくね? 塹壕と土塁があればよくね?
【ハーグ・タイムス記者、エミリア・クロイツ視点】
『アヴァロン帝国歴177年 2月28日 昼 曇りときどき晴れ』
わたしの名前はエミリア・クロイツ。『ハーグ・タイムス』の駆け出し記者だ。
この帝都ハーグで、今一番ホットな話題といえば、間違いなく『市民議会』だろう。貴族と、選挙で選ばれた市民が、同じテーブルで国の未来を語り合う。そんな、物語の中でしか聞いたことのないような制度が、この国では現実のものとなっていた。
(今日も、歴史が動く瞬間を、この目で見届けるんだ!)
わたしはペンを握りしめ、新しくなった議事堂の傍聴席へと駆け込んだ。これまで、食料増産計画や公共事業の予算案など、議会は驚くほどスムーズに物事を決めてきた。まるで、最初から答えが決まっているかのように。
だが、今日、この議事堂の空気は、いつもと少しだけ違っていた。初めての、分裂の予感がした。
議長席に座るヴァレリア騎士団長が、今日の議題を読み上げる。
「――以上をもちまして、先の大戦で損傷した、帝都ハーグの城壁の復旧工事に関する予算案を、議題といたします」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、市民議員の一人が、勢いよく立ち上がった。港町出身の魚商人の娘、マリーナ・フロイライン嬢だ。
「異議あり!」
その、威勢の良い声が、議事堂に響き渡る。
「いいですかっ? そもそも、あの古くて邪魔な城壁があるおかげで、港から新鮮な魚を街の中に運ぶのに、どれだけ手間取ってると思ってるんです! あんなもの、修理する必要なんてこれっぽっちもありませんっ! むしろ、さっさと取り壊して、もっと広い道を作ったほうが、よっぽど街のためになります!」
彼女の、あまりに率直で、商売人らしい意見に、議事堂がざわめいた。
その意見に、醸造所を営むオットー・ヴァインベルク議員も、静かに、しかし、はっきりと同調した。
「マリーナ嬢の意見は、ごもっともですな。城壁のせいで、荷馬車が通れる道が限られてしまうのは、我々商人にとっても頭の痛い問題です。それに、正直なところ、今の帝国の財政に、あれを完全に修復するほどの余裕はないでしょう。ここは、放置しておくのが現実的かと」
だが、その意見に、真っ向から異を唱える者もいた。元衛兵隊員の、カスパル・エルクハルト議員だ。彼は、まるで城壁そのもののように、微動だにせず、重々しく口を開いた。
「何をおっしゃいますか、お二方! 城壁と城門がなければ、素性の知れぬ怪しい人物が、街に通り放題になってしまうではないですか! 帝都の治安を、どうお考えか!」
「治安、治安って、そればっかり! 人が行き来しなきゃ、商売も成り立たないんだよ!」
「しかし!」
議論は、完全に平行線をたどっていた。やがて、しびれを切らしたマリーナ嬢が、叫んだ。
「もういいわっ、あなたたちとは座っていられないっ!」
彼女は、無駄に広い半円形の議席をずかずかと歩くと、一番左の端の席に、どかりと腰を下ろしてしまった。
「ふん、こちらこそ願い下げだっ!」
カスパル議員も、負けじと立ち上がり、今度は一番右の端の席へと移動する。
ぽつんと、真ん中に取り残されたオットー議員は、やれやれと肩をすくめた。
「ふむ、正直いって、わたくしはどちらの言い分も分かりますのでな。では、真ん中に座らせてもらいましょう」
その、あまりに分かりやすい光景。貴族席では、この国の本当の権力者たちが、ひそひそと、実に楽しそうに囁き合っていた。
「うわっ、さしずめ、右派・左派・中道ってところですかね?」
副宰相であるライル侯爵の、気の抜けた一言。
「それは言い得て妙だな、ライル殿」
若き皇帝、リアン陛下が、くすくすと笑う。
「伝統を守ろうとするのが右派で、新しい改革を求めるのが左派、って感じですね、父さん」
皇太子であるフェリクス殿下が、冷静に分析を加えた。
(なるほど、左派と右派、ですね! メモメモ……!)
わたしは、記者としての本能で、その新しい言葉を、猛烈な勢いでメモ帳に書きなぐった。そして、三人の議員が、見事に離れて座っている議場の光景を、魔法のレンズがはめ込まれた写真機で、カシャリと一枚、撮影した。これは、歴史的な一枚になるに違いない。
やがて、ヴァレリア議長が、パン、と手を叩いた。
「では、議論は出尽くしたと見て、市民院としての採決をとります」
結果は、撤去賛成が二票、修繕賛成が一票。市民院の結論は、「城壁撤去」となった。
この国の議会は、最近になって『二院制』という、新しい仕組みを取り入れていた。まず、市民院で議論し、その結論を、今度は貴族院で審議する、という流れだ。
傍聴席へ移ったマリーナさんたちが、今度は貴族たちの議論を、固唾をのんで見守っている。
貴族院は、宮廷の貴族社会をそのまま持ってきたような構図だ。先の戦争で帝国を勝利に導いた、ライル侯爵とフェリクス皇太子の威光は絶大。そして、彼らが心から支持するリアン皇帝の発言力もまた、絶対的なものだった。
「では、貴族院での審議を始めます。まずは、ヴィンターグリュン帝国副宰相、ライル侯爵」
ヴァレリア議長に促され、ライル侯爵が、発言者席に立った。彼は、少し眠そうな顔で頭を掻くと、実に彼らしい、単純明快な一言を放った。
「え~、ぶっちゃけ、最近の戦いでは、塹壕と土塁にこもってばかりで、城壁はあんまり使いませんでした。以上!」
その、あまりに実戦的な、しかし、貴族らしからぬ意見に、議事堂がざわめいた。
続いて、フェリクス皇太子が立つ。
「えっと、僕も父さんと同意見です。塹壕と土塁があれば、防衛は可能だと思います。それに、今の城壁は、アシュレイ工廠の新しい大砲で撃ったら、簡単に壊れてしまいますよ? 壊したら、また直すんですか? 予算、ないですよね?」
その、若く、しかし論理的な指摘に、貴族たちの間の空気も、少しずつ変わっていく。
「ううむ、城壁に関しては、わたくしの領地も、少し考え直したほうが良いかのう」
「そうですな。今から、我らの開拓地に城壁を作れと言われても、困ってしまいますしな!」
「確かに、戦のやり方そのものが、すっかり変わっちまったからなあ」
オルデンブルク元宰相、ゲオルグ伯爵、そして新しく男爵となったゼルガノス殿といった、ライル侯爵と縁の深い貴族たちが、次々と同調の意を示す。
最後に、玉座のリアン皇帝が、静かに、しかし、有無を言わせぬ響きを込めて、告げた。
「つまり、卿らは、城壁というものに、もはや、かつてほどの有用性はないと申すのだな? まあ、このあたりは、それぞれの領地の自由裁量にしても良いだろう。だが、ここはハーグの議会であったな。市民院の結論、そして、今の貴族院の意見を聞く限り、塹壕と土塁があれば良いというのは、事実であろう。朕に、反対する理由はない」
その、皇帝陛下ご自身の鶴の一声で、全ては決した。
何百年もの間、このハーグの街を守り続けてきた、古く、荘厳な城壁の撤去が、正式に決定された瞬間だった。
こうして、この国は、また一つ、新しい時代へと、大きな一歩を踏み出した。ただし、全ては、限りある予算の範囲内で、少しずつ、進めていくことになるのだが……。
議会が終わり、議員たちが、それぞれの思いを胸に、出口へと歩いていく。
その中で、わたしは、一つの作戦を立てていた。
(あの、皇太子殿下の少女誘拐疑惑は、絶対に、何かの間違いだ。むしろ、フェリクス様は、すごく優しい人のはず。と、なれば、このチャンスを逃す手はない! 取材を申し込むのは、今しかない!)
わたしは、深呼吸を一つして、人混みをかき分け、彼の前に立ちはだかった。
「あっ、あの、フェリクス議員! ハーグ・タイムスのエミリアと申します。すこし、お話よろしいでしょうかっ!」
突然のことに、彼は驚いたように目を見開いたが、すぐに、人の良さそうな、穏やかな笑顔を浮かべた。
「えっ、う、うん、いいよ! とりあえず、そこのカフェで、コーヒーでも飲もうか」
(やった! アポ、とれた! しかも、貴族様と、コーヒー!)
わたしは脳内で『ぐへへ』と、はしたない笑い声を上げながら、心の中ではルンルンステップを踏んで、フェリクス議員の、少しだけ緊張した様子の広い背中の後をついていった。
今日の新聞は、きっと最高の記事になるに違いない!
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