第202話 塹壕戦 ~思わぬ結末~ 冬季進軍
【ライル視点】
『アヴァロン帝国歴176年 12月12日 朝 小雪』
その朝、敵塹壕の上に漂っていたはずの白い煙が、まるで嘘のように消えていた。
これまで毎朝欠かさず見えていた炊煙――それがない。胸壁越しに覗くと、土嚢の間に残るのは風に煽られた雪煙だけだった。
間もなく、ユーディルが駆けてきた。外套の裾には霜がびっしりと付いている。
「ライル様、敵陣は……空です」
言葉は短く、確信に満ちていた。
どうやら夜陰に紛れて全軍が退いていたらしい。足跡は風で消え、残された装備もほとんどない。
「クッ……」
誰が指揮官だったのかは分からない。だが、間違いなく見事な撤退だった。追撃する暇も与えず、痕跡すら薄い。
僕らは警戒しつつも前進し、ついに敵塹壕へと足を踏み入れた。
そこで目にしたのは、静まり返った遺体の列だった。
どの遺体も頬はこけ、骨ばった手が胸の上で固まっている。軍服はほつれ、靴底は擦り切れていた。餓えと寒さが、彼らの命を奪ったのだ。銃も剣も、ここではほとんど役に立たなかった。
そう、敵軍は補給が持たなかったのだ……。
僕は鉄兜を取り、短く祈った。
「スカルディアの教会に埋葬を頼もう」
兵たちは無言で頷き、遺体を丁寧に担ぎ上げた。敵味方の区別なく、凍土に埋めるべきだ。戦場の掟でもある。
葬儀の手配を終えると、ヴィンターグリュン王国軍は次なる目的地――ハーグへの進軍を決定した。
(首都を奪還する……そして、僕たちの家をまた建てるんだ……)
雪を踏みしめながら、胸の奥で固く誓う。
冬の行軍は過酷だと誰もが言う。だがこの日の雪は小雪程度で、北部の寒さに慣れた兵たちは、頬を赤くしながら笑っていた。
「むしろあったかいくらいだな」
そんな冗談すら飛び出すほどだった。
アズトランからの補給が届いたことで、食料は豊富。保存肉や干し魚、黒パン、穀物が山のように積まれている。火薬と弾薬も十分にあり、馬も健康だ。塹壕戦を制したという自負が、兵たちの背をさらに押していた。
出立の朝、城門前でフリズカとシグルドが見送りに現れた。
雪が二人の肩に薄く積もっている。
「ハーグが復興したら、遊びにおいで」
「はい、父上」
シグルドは背筋を伸ばし、まっすぐ僕を見た。その瞳には幼さと同時に、戦いを経た者の芯が宿っていた。
「行きますよ、あなた」
ヴァレリアが外套の裾を直しながら微笑む。
「行こう、父さん」
フェリクスが肩を叩く。手袋越しでも、しっかりとした力を感じた。
「あなたたちに、北の戦神のご加護を……」
フリズカは胸に手を当て、厳かに祈りを捧げた。
今回はゲオルグやノーラのような非戦闘員は同行させなかった。戦いの先に待つのは都市奪還のための激戦だ。守るべき者を戦場に連れていくわけにはいかない。
雪を踏み鳴らす音と、馬の鼻息が混じり合い、隊列はゆっくりとスカルディアを離れた。振り返れば、城壁の上で手を振る二人の姿が小さくなっていく。
その光景を胸に刻み、僕は前だけを見据えた。
鉄道の向こうには、必ず奪い返すべき我らの都――ハーグがある。
小雪が降りつつも、雲間からさした冬の鈍い太陽が、ヴィンターグリュン王国軍を照らしていた。
(この光をハーグにも届けるんだ!)
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