第201話 スカルディア塹壕戦
【ライル視点】
『アヴァロン帝国歴176年 10月初旬 昼 晴れ』
スカルディアの外周は、土を刻んだ環のように幾重もの塹壕が取り巻いていた。木杭と土嚢で固められた胸壁は、夏に浴びた雨と泥で黒く染まり、足場板は兵士たちの靴に磨かれて鈍く光っている。銃眼の向こう、遠くの地平には低い丘が波打ち、薄靄の帯が地面に貼りついていた。
僕たちは西の接続壕から堀底の通路へと降り、案内兵の合図で屈みながら進んだ。土の匂い、乾いた縄の匂い、油の匂い。狭い通路ですれ違う兵はみな頬に泥をつけ、肩の弾帯は擦れて色が落ちている。それでも目が合うと、彼らは小さく顎を上げて笑ってくれた。
地上へ出る梯子を上がると、石造りのスカルディア城門が目の前に現れた。門扉の金具がきしむ音と共に開き、薄暗い土気が風に押されて退く。
広間では、フリズカとその息子シグルドが待っていた。
「ライル様、抱いて!」
「ちょっ、母さんすこしおかしいよ!」
「ハハハ、フリズカは相変わらず情熱的だなぁ!」
抱きついた彼女の体温が、土の冷気を吹き飛ばした。シグルドは頬を赤くしながらも笑っている。再会の喜びに浸る間もなく、外から連続する乾いた発砲音が降ってきて、僕たちは視線を交わした。
その日から本格的な塹壕戦が始まった。
昼間の司令は主に僕、夜間はフェリクスが担当した。時々、互いの顔色を見て昼夜を交代する。眠気は銃と同じで、手入れを怠ると命取りだ。
敵が突撃準備の気配を見せるたび、射手は胸壁の陰から身を上げ、頭だけを出して照準を取った。引金を絞るたび、肩に乾いた衝撃が返ってくる。即座に身を引き、次弾を送り、また顔を上げる。弾が土嚢を叩いて土がぱらぱらと降り、木杭を撃ち砕く音が足元から腹に響いた。
やがて敵側にも塹壕が伸び、砲座と中継壕、観測所を持つ本格的な線となった。塹壕と塹壕の間はおよそ一〇〇〇メートル。僕らのライフルの有効射程は七〇〇メートル――互いの通常射撃は届かない。静かな空白地帯が広がり、そこへは時折、長弓のような弧を描いて砲弾が落ちるだけだった。
届かない距離は、戦の工夫を呼ぶ。僕らは前線に狙撃班を、夜陰には匍匐で進む聴音哨を出した。彼らは胸まで泥に浸りながら杭の陰で息を殺し、敵の工作音や牛馬の移動音を拾って方角と数を記し、夜明け前に霜をつけて戻ってくる。工兵は中立地帯へ耳坑(メインの坑道に向けて横や斜めに掘る小さな坑道)を掘り、敵の耳坑と地下で遭遇して短い格闘を繰り返した。地上は静かでも、土の下はいつだって騒がしい。
春が過ぎ、夏は熱を押し込めてきた。日中の塹壕は蒸し風呂のようで、汗が革帯にしみ込み、手のひらは常に湿っていた。夜は蚊の群れが襲い、湿り気を含んだ低い靄が視界を曇らせる。食事は固い黒パンと塩気の強い干し肉、時々、炊事班が前線に持ってくる薄いスープ。飲料水は濾過器を通すものの、どこか鉄の味がした。
それでも、兵は笑う。泥を落とす桶のそばで、弾痕の数を自慢する者、夜番の順番で小言を言い合う者、手紙の端を破って紙の駒を作る者。笑い声は小さいが、確かだった。
季節は回り、空の青が薄く硬く変わる。朝の空気が針のように肌を刺すころ、前方から甲高い甲板笛の音が風に乗って届いた。
「アズトラン大陸から、補給船がきたぞ~!」
港の見張り台からシグルドの声が響き渡る。
おおおっ、と兵たちが湧いた。胸壁の上に梯子がかかり、砂塵の中から顔がいくつも覗く。遠目に港を見降ろせる地点まで走る者もいる。海には三隻の大きな帆船が帆を畳み、押し寄せる波に乗って静かに接岸していた。鎖が鳴り、跳ね橋が落ち、荷役たちの掛け声が弾む。
木箱、樽、麻袋。火薬、弾薬、乾燥穀物、油、薬品、冬服。そして、見慣れた『ハーグ黒豚』の燻製が詰まった箱や、スープ用の缶詰……は、今は少ない。港の帳場で荷印を読み上げる書記官の声に、兵士たちの肩からふっと力が抜けるのがわかる。
その喧噪の陰で、黒い外套が気配もなく僕の横に立った。ユーディルだ。フェリクスもすぐ呼び寄せる。
「ライル様、フェリクス様」
彼は素早く周囲を見やると、声を落とした。
「どうやら敵はハーグの缶詰工場まで壊してしまった模様。補給に占める保存食の比率が一気に下がったはずです。冬を前に、敵の兵站は相当に痩せる。もうすぐ飢えるかと」
港から運ばれる荷車の列を見ながら、フェリクスが短く息を吐いた。彼の目はもう夜の地図を見据えている。
「突撃をかけるなら、もうすこしか……」
僕は独り言のように呟いた。胸壁の上、空は白く硬い。頬にふわりと冷えが触れる。ひとひらの白が視界の端を横切って、手甲に落ちた。
初雪がチラチラと舞い始めていた。
雪は、戦術を変える。地面は滑り、踏み跡は全てを語る。音は吸われ、閃光は誇張される。温度は銃の油を鈍らせ、働き者の指先を奪う。僕らは即座に冬季配備に切り替えた。防寒外套、毛皮の襟巻、白布の覆い。火点は塹壕の奥へ下げ、調理も煙の薄い燃料に換える。砲座の滑走板には霜避けの藁束を敷き、観測所の屋根は雪の荷重に耐えるよう補強した。
塹壕間の一〇〇〇メートル――届かない距離は、砲兵の距離だ。ヴァレリアが砲列の角度を微調整し、観測班と信号兵が旗とランプで刻々と数字を飛ばす。砲耳の冷たい金属に頬を寄せた観測手は、敵の胸壁へ落ちた弾の土柱の高さと形を読み取り、紙に走り書きしては伝令に渡した。第一列が撃ち、後退し、第二列が前へ――僕らの『迫撃砲』は数で回す。装填班が凍えた指を叱咤して次弾を送り込む。
(この冬、向こうは何を諦め、何を守る?)
僕は地図上の印へ指を置いた。補給路、貯蔵庫、暖の取れる屋内施設。缶詰工場を失った彼らは、温かい汁物の一杯すら軍の舌から遠ざけられている。士気は腹から崩れる。無理押しはしない。けれど、崩れ始めた壁には指一本で十分だ。
日が沈むとフェリクスが指揮を引き継ぐ。彼は静かに笑い、首元のマフラーをきゅっと締め直す。
「夜のあいだに、前進拠点を一段出すよ。聴音哨は交互に。狙撃は月の出を基準に組む」
「頼む」
交代の握手は短い。彼の背に雪片が乗っては溶け、また乗る。
夜。雪はやみ、空は澄んだ。星の光が冷えて痛い。白布で身を包んだ狙撃班は、地面の凹凸を縫うように腹這いで進み、置き去りの杭や破れた土嚢を目印に身を伏せる。彼らのライフルは特別に研がれ、射程いっぱいの七〇〇メートルを生かすための高倍率鏡が載っている。届かない千へ、届く七百を刻み込む。掟は一つ、撃っても撃たれても、帰る。
明け方、戻ってきた狙撃手の頬は凍傷の手前で赤く光り、唇はかすかに笑っていた。
「敵の交代路、一本止めた。拾い物の毛布、あとで兵舎へ回す」
「よくやった」
そんな細い針のような傷を、僕らは毎朝毎晩刺していった。
そして、港の喧噪がひと段落した頃、フリズカが城壁上で腕を組み、白い息を吐きながら僕を見下ろした。
「ライル様。あなたの『少し待つ』は、いつも一番良い時に『いけ』に変わる。今回もそうならいいけれど」
「たぶん。雪がもう一度強くなって、風が南から抜けて、敵の火が薄くなったら」
僕が顔を上げると、彼女は肩をすくめて笑った。
「そういうの、昔から勘がいいのよね」
足音が駆け上がる。シグルドが湾曲した手旗を持って階段を跳ね上がってきた。
「母さん、ライル様! 港の倉庫、満杯だよ! それと、アズトランからの使者が『次便は冬の嵐の前にもう一度』って!」
「頼もしい報せだ」
僕が頷くと、城内の通路の影から、またあの黒い外套が現れた。ユーディルだ。彼は風上に顔を向け、鼻先で僅かに匂いを嗅いだ。
「乾いた匂いが増えましたな。薪の質が落ちている。敵は良材を切り尽くし、湿った枝を燃やしている。煙が薄灰色に変わりました」
「つまり、温まらない」
「はい。餓えと寒さは、どちらも剣より強い」
彼は懐から封蝋のついた紙片を取り出し、フェリクスに渡した。
「敵後背の市から流れてきた噂。『ハーグの缶詰が無くなって以来、煮込みの鍋が薄い』そうで」
フェリクスは紙片を折りたたみ、袖口に滑らせた。目はもう、雪原に描く矢印の角度を測っている。
「初雪が地面を均してくれた。夜のうちに前進壕をもう一段。風下に音を落とす。明日は西が吹く」
僕は胸壁に手を置いた。冷たい。けれど、中に流れているものは温かい。塹壕の底で、兵が火を囲み、湯気の立つ鍋を覗いて笑っている姿が目に浮かぶ。アズトランの粉で固めた薄い饅頭。少しだけ豪奢な燻製の切れ端。湯の上で踊る脂の輪。
(彼らに、春の匂いを嗅がせてやりたい)
雪はまた一枚、また一枚と降り、塹壕の縁を白く縁取っていく。空白の一〇〇〇メートルは、ますます静かだ。届かない距離の向こうで、誰かが咳をし、誰かが肩をすくめ、誰かが故郷の歌を小さく口ずさんでいる。
「ライル様」
フェリクスが階段の途中で振り返った。頬の赤みが、若い狼のようだ。
「夜明け前に、合図を送る」
「任せる」
彼は頷き、白の中に消えた。
僕は城壁に背を預け、空を仰いだ。息が白く立ちのぼり、すぐに砕けて消える。白い静けさの底で、遠い砲の腹に響く低音が、ゆっくりと波のように広がっていった。
突撃の時は、もうすこしだ。
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