第199話 保守派たちの北伐
【ヴェネディクト侯爵視点】
『アヴァロン帝国歴176年 4月7日 夜 帝都フェルグラント 曇り』
旧帝都フェルグラントの夜は、新帝都ハーグのそれとは違い、どこか重々しく、そして誇り高い空気に満ちている。私は、自邸の執務室の窓から、曇り空の下に広がる古き都の甍を眺めていた。あの、拝金主義者どもが欲望の限りを尽くす、成り上がりの街ハーグとは違う。ここには、アヴァロン帝国が築き上げてきた、数百年の歴史と伝統、そして秩序が、今も息づいている。
それを、あの平民上がりの男、ライル・フォン・ハーグが、土足で踏み躙った。鉄道、電信……。耳障りの良い言葉で民を惑わし、我ら貴族が守り続けてきた神聖な秩序を、根底から覆そうとしている。
断じて許すことはできぬ。
これは、革命ではない。腐敗した部分を切り捨て、帝国を本来あるべき、清浄で気高い姿へと戻すための、粛清なのだ。
執務室の重厚な扉が、厳かに開かれた。
入室してきたのは、この度の粛清の、いわば象徴たるべきお二人だ。
「待たせたな、ヴェネディクト侯。して、作戦会議を始めるとしようではないか」
尊大な態度で、上座の椅子に腰かけたのは、リアン皇帝陛下の実弟、ルキウス皇弟殿下。いや、もはや、私が正統な皇帝として担ぎ上げた、新皇帝陛下、ルキウス陛下と呼ぶべきか。まだ若く、兄であるリアン陛下への劣等感と、有り余る野心が、その瞳の奥でギラギラと輝いている。扱いやすい、実に扱いやすい駒だ。
「ダリウスです。お待たせいたしました」
その隣に、少し緊張した面持ちで腰を下ろしたのは、東方を治めるアルブレヒト・ダリウス侯爵。まだ若いが、その眼差しには、領地の未来を憂う、悲壮な覚悟が滲んでいた。
「お二人とも、よくお集まりいただいた。まずは、現在の我らの勢力図を確認しておこう」
私は、壁に広げられた巨大な帝国地図の前へと進み出た。
我がヴェネディクト家が掌握する、西方の豊かな商業都市群。そして、この中央、旧帝都フェルグラント。さらに、東方の穀倉地帯を治めるダリウス侯爵が、我らに加わった。
アヴァロン帝国を、東西に横断する、巨大な勢力圏が、今や我らの手にある。
「南方のランベール領は、オーギュスト新侯爵が、父の死と思わぬ鉱脈の発見で混乱しており、まだ旗色を明らかにしておらぬ。あの男は、父君ほどの度胸も決断力もない。当分は動けまい。聖都のピウス猊下も、神は俗世の争いには沈黙を守られる。問題はない」
私の言葉に、ルキウス陛下が、満足げに頷く。
「うむ! まさに、天が朕に味方しているということよな! 兄上も、あの平民に良いようにされているうちに、すっかり帝位を奪われてしまったわ!」
その時、ドアがノックされ、一人の男が、衛兵に付き添われて入室してきた。痩せこけ、恐怖に顔をひきつらせた、帝国国営鉄道のリヒター総裁だ。
「リヒター総裁、首尾は上々かね?」
私が問うと、彼は、びくりと肩を震わせた。
「は、はい……。閣下のご命令通り、帝都の主要な路線は、すべて、我々の管理下に……。兵員の輸送も、いつでも……」
「よろしい。下がってよいぞ」
衛兵が、震えるリヒター総裁を、再び連れ出していく。
ダリウス侯爵が、その様子を、痛ましげな目で見送っていた。
「ヴェネディクト侯……。我が領地の者たちは、ライル卿の政策で、新しい農法や作物を押し付けられ、かえって生活が苦しくなったと嘆いております。もう、泥にまみれて働くのは御免だと、家臣たちに泣きつかれ……。だからこそ、私は、あなた方に賭けたのです。我らの挙兵は、本当に、民のためになるのでありましょうか?」
若さゆえの、青臭い感傷だ。私は、そんな彼の不安を、一刀両断にする。
「ダリウス侯、忘れるな。我らの戦いは、帝国の秩序を取り戻すための聖戦。目先の小さな犠牲は、未来の大きな栄光のためには、必要なことだ。それに、新しい技術が、必ずしも民を幸せにするとは限らん。現に、貴公の領民は苦しんでいるではないか」
「……はい。その、通りです」
ダリウス侯は、力なく頷いた。それでいい。彼には、私の言葉を信じ、兵を動かしてくれさえすればよいのだ。
ルキウス陛下が、新聞の一枚を、テーブルに叩きつけた。我々が、裏で手を回して書かせた、あの犯行声明だ。
「しかし、ヴェネディクト侯よ。我らは、この新聞で、鉄道や電信は悪だと断じたではないか。それを、我らが大っぴらに使っていては、民への示しがつかぬのではないか?」
「陛下。ご安心めされよ」
私は、余裕の笑みを浮かべた。
「道具に、善悪はございません。悪しきは、それを用いる人間。我らのような、高貴な血筋の者が、帝国の栄光のために正しく用いれば、それは、大いなる力となります。ライルのような、卑しき成り上がりが、私利私欲のために使うから、悪となるのです。民には、そう説明すれば、容易に納得いたしましょう」
そして何より、と私は心の中で付け加える。
(この新技術を使わねば、ライルに、いや、あの男の背後にいる、ヴィンターグリュン王国に勝てぬ……!)
それは、この場にいる全員が、暗黙のうちに理解している、紛れもない事実だった。
「さて、本題に入ろう。今後の、具体的な軍事行動についてだ」
私は、地図の上で、ハーグの、さらに北に位置する、一つの地名を、指し示した。ハーグはすでに白亜の館襲撃の混乱に乗じて、占拠に成功している。
「我らが、まず目指すべきは、スカルディア。全会一致で、ハーグよりさらに北への進軍を決定したい。異論は、ないな?」
ルキウス陛下も、ダリウス侯も、無言で頷く。
「なぜ、スカルディアなのです?」
ダリウス侯の問いに、私は、その戦略的重要性を説いた。
「スカルディアは、北方の広大な穀倉地帯であり、不凍港も有している。ここを抑えれば、ハーグまでの鉄道が安全になり、我らの経済基盤も、より盤石なものとなる。だが、それだけではない」
私は、声のトーンを、わずかに落とした。
「何より、かの地を治めるは、スカルディア女王、フリズカ。あの小娘は、ライル・フォン・ハーグが、最も信頼し、寵愛する懐刀。彼女を捕らえ、我らの前に跪かせれば、ライルの精神に、これ以上ないほどの、大きな打撃を与えることができるでしょう」
その言葉に、ルキウス陛下の顔が、下品な喜びに歪んだ。
「フリズカか! あの、帝都で会った時の、生意気なオバサンだな! うむ、良い考えだ! あのオバサンを捕らえ、朕の威光の前に、ひれ伏させるのが、今から楽しみでならぬわ!」
作戦は、決定した。
会議が終わり、二人が退室した後、私は、再び一人、窓辺に立った。旧帝都フェルグラントの街の灯が、まるで、我らの輝かしい未来を、祝福しているかのように見えた。
(待っていろ、ライル・フォン・ハーグ。貴様が、その卑しい手で築き上げた、砂上の楼閣は、この私が、帝国の真の秩序の名の下に、全て、打ち砕いてくれるわ)
北伐の軍は、三日後には、このフェルグラントを出発する。
帝国の歴史が、再び、大きく動き出そうとしていた。
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