第198話 燃えるハーグ、逃亡の始まり
【ライル視点】
『アヴァロン帝国歴176年 4月6日 夜 曇り』
フェリクスが乗った列車が狙撃された、という緊急電信が皇宮にもたらされたのは、春の穏やかな午後が、まさに終わろうとしている時だった。
オルデンブルク宰相が読み上げる短い文面を、僕とリアン皇帝は、血の気の引いた顔で聞いていた。心臓が、氷の塊になったかのように、ドクン、と一度だけ大きく脈打ったのを覚えている。
(フェリクスが……狙われた……?)
一瞬、思考が停止した。頭の中が真っ白になり、宰相の声も、部屋の装飾も、全てが意味をなさない、ただの景色と音になった。
僕の、たった一人の息子の身に、何かが起きた。その事実だけが、巨大な鉄槌のように、僕の意識を打ちのめす。
「ライル殿っ! しっかりなされ!」
リアン皇帝の、悲痛な叫び声で、僕は、はっと我に返った。見ると、若き皇帝は、僕以上に青ざめた顔で、震える手で僕の腕を掴んでいた。
その時だった。通信大臣となったフェリクスの直轄部署である、皇宮電信室から、一人の技官が、一枚の紙を手に、文字通り転がり込むようにして、執務室へと駆け込んできた。
「た、たった今、フェリクス皇太子殿下ご本人より、入電!」
技官が差し出したその紙を、僕はひったくるようにして受け取った。
そこには、子供の走り書きのような、しかし、力強いトンツーで打たれたであろう、短い言葉が記されていた。
『ブジ ウマデキカンチュウ フェリクス』
「……っ! 無事だ……フェリクスは、無事だ!」
僕は、その紙を握りしめ、安堵のあまり、その場に崩れ落ちそうになった。リアン君と宰相も、心の底から安堵のため息を漏らす。
だが、安堵は、ほんの一瞬に過ぎなかった。
息子が無事であったという喜びは、すぐに、燃えるような怒りへと変わる。一体、誰が、何の目的で、こんな凶行に及んだのか。
とりあえずその日は、白亜の館へと帰った。
翌朝、いつものように配られる新聞。
悪い情報は、僕たちが最も望まない形で、帝都中に知れ渡ることになった。
帝都で発行されている新聞の一つ、『帝都日報』。普段は、政府の公式発表をなぞるだけの、当たり障りのない記事ばかりを載せている、いわゆる御用新聞だ。いちおう、ウチでは全部の新聞をとっている。
その新聞の一面が、その日は、おぞましい宣言文で埋め尽くされていた。
『天誅! 奸臣ライル・フォン・ハーグとその一派に告ぐ!』
過激で、扇動的な見出し。
差出人は、『旧都復権忠義団』と名乗っていた。彼らは、フェリクス狙撃が、自分たちの犯行であることを、臆面もなく認めていた。
そして、己の正義を、こう語っていた。
いわく、若き皇帝をたぶらかし、私腹を肥やす奸臣ライルを討つべし。
いわく、鉄道や電信といった悪しき技術は、帝国の古き良き伝統と秩序を破壊するものである。
いわく、堕落し、拝金主義の蔓延る新帝都ハーグを捨て、かつての栄光ある旧帝都フェルグラントに、再び都を戻すべきである、と。
それは、時代に取り残された者たちの、狂信的な嫉妬と憎悪に満ちた、呪いの言葉だった。
「……保守派の、過激思想を持つ連中か。まさか、これほどの大規模な組織になっていたとは……」
新聞を読んだヴァレリアが、苦々しげに吐き捨てる。
この犯行声明は、帝都ハーグの市民の間に、深刻な動揺と、見えない亀裂を生んだ。僕たちの政策に不満を持つ者、急激な変化についていけない者、そして、古き貴族の権威に固執する者たちが、この声明に、密かに同調し始めている。街の空気が、日に日に、重く、険悪になっていくのを、肌で感じた。
そして、その夜。
僕たちが最も恐れていた事態が、現実のものとなった。
ゴウ、という地鳴りのような音と、焦げ臭い匂い。そして、遠くから聞こえる、人々の怒号と、金属がぶつかり合う、甲高い音。
僕たちの住む、白亜の館が、襲撃されたのだ。
窓の外を見ると、館の庭には、たいまつを手にした、数十人の武装した集団がなだれ込み、建物のあちこちに、火を放っていた。
「あなた! アシュレイと子供たちを!」
ヴァレリアは、瞬時に騎士団長の顔に戻っていた。彼女は、寝間着の上に、素早く胸当てと剣帯を身につけると、館に常駐していた数名の近衛騎士たちに、檄を飛ばす。
「敵は、正面から来るぞ! 何としても、旦那様とお子様がたを、裏口から脱出させる時間を稼ぐのだ!」
僕は、不安げな顔で僕の服の裾を握るノーラ、そして、何が起きているのか分からず、おろおろするアシュレイとレオの手を引き、必死で館の裏手を目指した。
「どどどど、どうするっスか~、ライル~」
「父さん、俺はただの研究員で戦ったことないよ!」
壁や天井が、炎に包まれ、崩れ落ちてくる。
敵の目的は、明らかだった。僕たち家族を、皆殺しにするか、あるいは、人質として捕らえること。この白亜の館は、もはや、僕たちを守る砦ではなかった。燃え盛る檻だ。
裏口の扉を開けると、そこにも、数人の暴徒が待ち構えていた。
だが、その暴徒たちは、背後から飛んできた、数条の閃光によって、悲鳴を上げる間もなく、地面に崩れ落ちた。
「お待たせいたしました、あなた!」
ヴァレリアだった。彼女はライフル片手に、その瞳に、決して屈しないという、強い意志の光を宿していた。彼女が率いる、わずかな近衛騎士たちの奮戦のおかげで、僕たちは、かろうじて館を脱出することができた。
夜の闇に紛れ、近くの植林地へと逃げ込む。
振り返ると、僕たちが、家族として、幸せな日々を過ごした白亜の館が、夜空を赤く染め上げながら、巨大な炎に包まれていた。
帝都の、他の場所からも、いくつもの火の手が上がっているのが見えた。おそらく、僕の政策に協力してくれていた、商人や役人の家が、同じように襲われているのだろう。
(パパ友の会のみんな無事かな……)
敵の規模は、僕たちが想像していたよりも、遥かに大きい。そして、帝都の警備網の中に、確実に、彼らの協力者がいる。皇宮ですら、もはや、安全な場所とは言い切れなかった。
僕は、一つの決断を下した。
懐から緊急時用の、小型の電信機を取り出す。これは、フェリクスが、僕のために作ってくれた、お守りのようなものだ。
そして、最近覚えた電信を打つ。
『ヘイカ サイショウ ワレラ シュトヲハナレル』
『ワレラガイルコトガ ナイランノ ヒダネトナル』
『カクメイグンヲウツチカラヲ オンゾンサレタシ ライル』
リアン君と宰相へ、これが、僕の覚悟だった。
僕たち家族が、この帝都に留まる限り、僕を排除しようとする保守派は、攻撃の手を緩めないだろう。そうなれば、リアン皇帝は、僕を守るために、貴重な戦力を割かねばならなくなる。それは、敵の思う壺だ。
僕が、おとりになる。僕たちが、帝都から姿を消せば、敵の憎悪も、僕たちを追って、帝都の外へと向かうはずだ。その隙に、リアン君には、帝都内の裏切り者をあぶり出し、反乱の芽を、完全に摘み取ってもらわなければならない。
すぐに、リアン陛下から、返信が来た。
『ワカッタ ライルドノ ソナタト ソナタノカゾクニ アヴァロンノカゴノアランコトヲ』
その、短い言葉に込められた、彼の苦渋と信頼を、僕は、痛いほど感じていた。
僕たちは、近くの村で、なけなしの金で手に入れた、一台の粗末な幌馬車に乗り込んだ。
行き先は、決めていない。ただ、追手から逃れるために北へ。
(そうだ、北方へいけばフリズカたちが居るはずだ)
さらにどこかにいるであろう、フェリクスにも電信を入れる。
『フェリクスヘ フリズカ ノ トコロヘ ムカエ ライル』
燃え盛る帝都を背に、僕は、固く、幌馬車の手綱を握った。
僕たちの、長い、逃亡の旅が、今、始まろうとしていた。
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