第197話 春一番は、鉛の弾丸
【フェリクス視点】
『アヴァロン帝国歴176年 4月5日 昼 晴れ』
帝都ハーグの中央駅は、春の柔らかな日差しと、旅立つ人々の熱気で満ち溢れていた。長く、凍えるように厳しかった冬がようやく終わりを告げ、誰もが新しい季節の到来に心を浮き立たせているようだった。ホームに植えられた桜の木々が満開の花をつけ、風が吹くたびに、薄紅色の花びらが祝福するように舞い散っている。
僕は、父さんに新調してもらったばかりの旅装に身を包み、大勢の見送りの人々をかき分けるようにして、南方行きの特急列車の客車へと乗り込んだ。
目的地は、ランベール領。
あの電信での、少し風変わりなやり取りから、早三ヶ月。冬の間に凍てついていた大地が雪解け水を吸い上げるのと同じように、帝国とランベール領との間の凍てついた関係も、雪解けの時を迎えようとしていた。
約束通り、僕はオーギュスト新侯爵に会うため、たった一人で、この旅に出る。
「フェリクス、本当に一人で大丈夫なのかい?」
窓越しに、父さん、ライル・フォン・ハーグが、心配そうな顔で僕を見ていた。その隣では、母さん、ヴァレリアが、僕の無事を祈るように、ぎゅっと手を握りしめている。
「大丈夫だよ、父さん。通信大臣なんて、大げさな名前がついちゃったけど、やることは、おじさんと仲良くお話しして、石炭を売ってもらう約束をするだけだもん」
僕は、精一杯の笑顔で答えた。
リアン皇帝やオルデンブルク宰相も、心配だからと屈強な護衛をつけようとしてくれた。でも、僕はそれを断った。オーギュストおじさんとの電信での最後の約束は、『春に、フェリクス一人で来られたし』だったからだ。約束は、守らなくちゃいけない。
「オーギュスト兄様は、少し不器用で、素直ではない方なだけです。きっと、フェリクスになら、心を開いてくださるわ」
母さんの言葉に、僕は力強く頷いた。
やがて、出発を告げる長い汽笛が、ホームに響き渡る。
「行ってきます!」
僕は、窓から身を乗り出して、大きく手を振った。父さんと母さんも、それにこたえて手を振ってくれる。その姿が、ゆっくりと動き出した列車の窓の向こうに、だんだんと小さくなっていく。
一人旅なんて、生まれて初めてかもしれない。少しだけ、いつも読んでいる冒険小説の主人公になったみたいで、不安よりも期待で胸が大きく膨らんでいた。
列車は、帝都の市街地を抜けると速度を上げた。
僕が乗り込んだ一等客車は、赤いビロードのシートが並び、床には柔らかな絨毯が敷き詰められている。乗客は、僕の他にいかにも裕福そうな商人の家族と、物静かな老夫婦だけだった。
車窓から見える景色が、目まぐるしく変わっていく。整然とした帝都の街並みが、あっという間に遠ざかり、やがて広大で、のどかな田園風景が窓いっぱいに広がった。芽吹き始めた若草の緑が目に眩しい。
僕は、母さんが持たせてくれた、特製のサンドイッチが入ったバスケットを膝の上に乗せた。蓋を開けると、焼きたてのパンと新鮮な野菜のいい匂いが、ふわりと鼻をくすぐる。
その、一つ目のサンドイッチに手を伸ばし、大きく口を開けようとした時だった。
ふと窓の外。遠くに見える、なだらかな丘の上で、何かがキラリと冷たく光った気がした。
(なんだろう……? ガラスか何かに、太陽の光が反射したのかな)
その程度の、本当に些細な違和感だった。
僕は特に気にも留めず、サンドイッチにかぶりついた。美味しい。やっぱり、母さんのサンドイッチは世界一だ。
夢中で半分ほど食べたところで、バスケットの隅に入れてあった、お気に入りのピクルスが、僕の手から滑り落ち、ころり、と床の絨毯の上に転がってしまった。
「あ、もったいない……」
僕はそのピクルスを拾おうと、無意識に座席から身をかがめていた。
その、ほんの一瞬。
僕の頭がほんの数センチ下に動いた、まさにその瞬間だった。
ガシャァァァンッ!!
鼓膜を突き破るような、けたたましい破壊音。
僕が、今まで座っていた座席の、ちょうど頭があったであろう位置の窓ガラスが、まるで爆発したかのように、粉々に砕け散っていた。
何が起きたのか、一瞬、全く理解できなかった。
遅れて、車内に、乗客たちの絶叫が響き渡る。商人の奥さんが、悲鳴を上げて気絶し、その子供が泣き叫んでいる。
「……え?」
僕は、床に転がったピクルスを拾いかけたままの姿勢で、呆然と、目の前の光景を見つめていた。
砕け散った窓ガラスの向こう、僕が座っていたシートの背もたれには、深く、黒い穴が、ぽっかりと空いている。そこから、焦げたような、嫌な匂いが立ち上っていた。
銃弾。
その言葉が、頭に浮かんだ瞬間、全身の血の気が、さっと引いていくのがわかった。
背筋を氷のように冷たい汗が、つっと伝う。
(狙われた……? 外から、僕を……狙ったのか?)
あの丘の上で光ったもの。あれは、ただの光の反射なんかじゃなかった。狙撃銃のスコープだったんだ。
もし僕が、あの時、ピクルスを落とさなかったら。もし、身をかがめるのが、ほんの一秒でも遅れていたら……。
僕の頭は、今頃あの窓ガラスと一緒に、粉々になっていたはずだ。
想像しただけで、胃の中のものが、せり上がってくるような、強烈な吐き気に襲われた。
列車は、けたたましいブレーキ音を響かせながら、緊急停止した。
やがて、最寄りの駅に臨時停車すると、ホームには、連絡を受けたのであろう憲兵隊が、物々しい雰囲気で待ち構えていた。
もう、この列車に乗って、のんびりと旅を続けるなんて、到底考えられなかった。犯人は、まだ、どこかで見ているかもしれない。僕が生きていると知れば、必ず、また狙ってくる。列車という、閉鎖された空間は、動く的も同然だ。
僕は憲兵たちの聞き取り調査の混乱に紛れて、誰にも告げず、そっと列車を降りた。人混みに身を隠しながら、足早に駅舎を抜ける。
駅前には小さな馬屋があった。
僕はそこに駆け込むと、懐からありったけの金貨を取り出した。
「馬を! 一番、速くて、丈夫な馬を一頭くれ! 金は、いくらでも払う!」
馬屋の主人は、僕の、血の気の引いた顔と、その手にある金貨の山を見て、目を丸くしていたが、すぐに、一番良いという、栗毛のたくましい馬を引いてきてくれた。
僕は鞍に飛び乗ると、力一杯手綱を握りしめた。
「ハーグへ! 帝都ハーグへ戻るんだ!」
馬に一度、強く鞭を当てる。馬は、いななきと共に力強く地面を蹴った。
誰が? 何のために? オーギュストおじさんとの会談を、邪魔したい誰かがいるのか? それとも、帝国の分裂を望む、過激な連中の仕業か?
わからない。何もかも、わからない。でも今は、ただ、生き延びることだけを考えなければ。
春の、のどかな陽気とは、あまりに不釣り合いな、鉛の弾丸。
僕の心は、凍えるような恐怖と、得体の知れない敵に対する、燃えるような怒りに支配されていた。
後に、『フェリクス・フォン・ハーグ狙撃事件』と呼ばれることになる、この帝国の歴史を揺るがす大事件は、たった一人の皇太子の、ささやかな冒険の始まりを、容赦なく打ち砕いたのだった。
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