第196話 ひえええっ、各地とトンツーしてばかりの日々だよぉ! そうだ! バイト(副官)を雇おう!
【フェリクス視点】
『アヴァロン帝国歴176年 1月20日 昼 快晴』
あれから僕の日常は、すっかり様変わりしてしまった。
若き皇帝陛下から、直々に『通信大臣』なんていう、大げさな役職を賜って以来、僕の居場所は、白亜の館の自室から、皇宮の片隅にある、少し薄暗い電信室へと移っていた。
(大臣、とは名ばかりで、やってることは、ただのトンツー係じゃないか……!)
僕は、ひっきりなしに鳴り響く電信機の音を聞きながら、心の中で、誰にともなく愚痴をこぼした。
原因は、はっきりしている。
僕の父さん、ライル・フォン・ハーグと、オルデンブルク宰相が、「これは帝国の未来への投資である!」とか言って、帝国各地の主要都市に、電信設備を設置するための補助金を、大盤振る舞いしたからだ。
その結果、帝都ハーグには、ありとあらゆる情報が、電気信号となって殺到することになった。商業上の取引連絡、遠く離れた家族への安否確認、地方の役所からの定時報告、そして、中には、どうでもいい世間話まで……。
いまや、この帝都ハーグは、帝国の物流と政治の中心地であるだけでなく、巨大な情報通信のハブとしての役割も担うようになったのだ。
それは、帝国の発展にとって、すごく良いことなんだろう。でも、その情報の奔流を、たった一人で捌いている僕の身にもなってほしい。
そんなある日の昼下がり。僕が、山積みになった電文の紙と格闘し、すっかり疲れ果てていた時だった。
コンコン、と控えめなノックの音と共に、電信室のドアが、そっと開かれた。
「フェリクスさん、お昼ごはん、持ってきましたよ」
そこに立っていたのは、ほかほかの湯気が立つバスケットを持った、ノーラちゃんだった。彼女の優しい笑顔は、油と機械の匂いが充満するこの殺風景な部屋には、あまりに不釣り合いで、まぶしかった。
「ああ、ノーラちゃん……。すまないね、いつも」
僕は、凝り固まった肩を回しながら、感謝の言葉を述べた。最近は、仕事に夢中になるあまり、食事を摂るのも忘れがちだった。ノーラちゃんが、こうして毎日、昼食を届けてくれなければ、僕は、とっくに干からびていたかもしれない。
「ううん、気にしないで。それより、ちゃんと食べないと、体がもたないよ」
ノーラちゃんは、そう言って、バスケットの中から、美味しそうなサンドイッチとスープを取り出し、テーブルの上に並べてくれた。
彼女が、ふと、受信用の電信機の受け皿に、一枚の紙が置かれたままになっているのに気づいた。
「あら、フェリクスさん。この電信、早く届けたほうがいいと思いますよ」
「へっ?」
僕は、スープを一口飲んだところで、きょとんとしてノーラちゃんを見た。それは、三十分ほど前に受信したきり、他の緊急連絡に紛れて、すっかり忘れていた電文だった。
「え、どうして……。ノーラちゃん、トンツー、わかるの?」
「はい、少しだけ。学校の授業で習いましたから」
ノーラちゃんは、こともなげに言って、その紙を指さした。
「『チチキトク ハヤクモドレ』……お父さんが、危篤だって。きっと、急ぎの連絡ですよ」
その言葉に、僕は、飲んでいたスープを噴き出しそうになった。
帝国の電信は、非常に便利な反面、その利用料は、決して安くはない。一通送るごとに、銀貨が一枚はかかるのだ。一般の市民にとっては、かなりの負担のはず。それでも電信を送るというのは、それだけ、緊急性の高い要件だということだ。
(しまった! 僕としたことが……!)
僕は、慌ててその電文を掴み、宛先の部署へ届けるよう、伝令の兵士に指示を出した。
そして、改めて、目の前のノーラちゃんを見た。
(学校で、習った……?)
そういえば、最近、帝国では、新しい技術教育に力を入れていると聞いたことがある。まさか、モールス信号まで、授業で教えているなんて。
その時、僕の頭に、一つの考えが、稲妻のように閃いた。
そうだ。そうだよ。僕には、助けが必要なんだ。一人で、全部やるなんて、もともと無理だったんだ!
「ノーラちゃん!」
僕は、椅子から立ち上がると、思わず、ノーラちゃんの両肩を、がっしりと掴んでいた。
「学校の授業が終わってからでいいから! この、僕の仕事、手伝ってくれないかな!?」
女神だ!
きっと、ノーラちゃんは、僕を救うために現れた、慈悲深き女神に違いない! その姿からは、後光が差しているようにさえ見えた。
「あ、あの、フェリクスさん……。わかりましたから……」
僕の、あまりの剣幕に、ノーラちゃんは、少し顔を赤らめながら、困ったように言った。
「わかりましたから、その、肩から手を、放してください……。人前で、恥ずかしいですぅ」
「あっ、ご、ごめん、つい!」
僕は、慌てて手を離した。言われてみれば、部屋の隅にいる電信技官たちが、ニヤニヤしながら、こっちを見ている。
それでも、ノーラちゃんは、僕の真剣な目を見て、小さく、こくりと頷いてくれた。
こうして僕は、帝国で最も若い大臣にして、帝国で最も有能で、そして可愛い、初めての副官を、手に入れることに成功したのだった。
◇
電信の連絡は、なぜか、夜に多くなる傾向があった。
たぶん、昼間は、みんな、畑仕事や自分の店での商売に追われていて、一日の仕事が終わり、家族と食卓を囲んで、一息ついた夜に、ふと、遠くで暮らす誰かのことを思い出すからなんだろう。
「フェリクスさん、また、ランベール領からです~」
放課後、約束通り手伝いに来てくれたノーラちゃんが、カタカタと鳴り響く電信機から、そう報告してくれた。差出人は、見なくてもわかる。
「はあ……、オーギュストおじさんか。つないで」
オーギュスト新侯爵。僕の、母さんの、たった一人のお兄さん。
彼からの電信は、決まって、この夜の時間に届いた。まるで、誰にも聞かれたくない、内緒話でもするかのように。
ノーラちゃんが、慣れた手つきで、キーを操作する。やがて、彼女は、送られてきた信号を読み解き、僕に告げた。
「えっと……。『ヴァレリアニハ ワルイコトヲ シタ』……ですって」
その、あまりに不器用な謝罪の言葉に、僕は、思わず、苦笑してしまった。
「ああ、やっぱり、オーギュストおじさん、気にしてたんだ。母さんのこと」
弔問を断った一件。それは、彼の立場上、仕方のないことだったのかもしれない。それでも、実の妹に対して、ずっと、負い目を感じていたのだろう。
「それじゃ、ノーラちゃん。こう返信しておいて。『ゼンゼン キニシテイマセンヨ』って」
「はい、わかりました」
ノーラちゃんが、再び、軽快にキーを叩き始める。
トントントン、ツーツーツー……。
その音は、まるで、遠く離れた、不器用な二人の兄妹の心を、そっと繋ぐ、優しい子守唄のように聞こえた。
こうして、僕と、僕の頼れる副官の、血と汗と涙の(いや、血は流れてないけど、それくらい大変なんだ!)、長い夜は、静かに、ふけていくのだった。
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