第188話 新しい任地、スース総督と言っても、列車で30分ぐらいの距離なんだよね……
【フェリクス視点】
『アヴァロン帝国歴175年 6月6日 夕方 白亜の館の夕食にて』
白亜の館の食卓は、いつも温かい湯気と、家族の笑い声に満ちている。
今日の夕食は、僕の好物でもある豚の生姜焼きだ。甘辛い香りが鼻をくすぐり、この数ヶ月、僕の心を重く覆っていた憂鬱な気分を、少しだけ晴らしてくれるようだった。
「フェリクス、おまえの次の仕事が決まったよ!」
父さんが、いつもの気の抜けた、しかし、どこか楽しげな声で言った。
「やっと停職明けだよ~。長かったなあ」
僕が安堵のため息をつくと、向かいに座っていた兄のレオが、ふんと鼻を鳴らした。
「世間じゃ、お前のせいで大ヒットした新聞『ハーグタイムス』が、相変わらず大流行しているぞ」
うっ……。その話は、少しだけ耳が痛い。
僕の、あの一件……人身売買未遂事件は、ハーグタイムスという新しい新聞に、これでもかというほど面白おかしく書き立てられた。そのおかげで、この新聞は爆発的に売れ、今や帝都でも一番の人気メディアになっているらしい。ある意味、僕のおかげなのだろうか? だとしたら、あまり嬉しくないな。
もっとも、リアン皇帝や、親しい貴族たちの間では、話は少しだけ違った形で伝わっている。「ノーラちゃんの父親が、古い慣習に従って、娘の結納金を受け取っただけのこと」という、穏便な美談として。
だけど、ハーグタイムスは、そんな心温まる話を取り上げてくれることはない。
「う~ん、そういう貴族の横領事件だとか、聖職者の淫行だとか、センセーショナルな記事のほうが、きっと売れるからっスよねえ」
アシュレイ母さんが、豚肉を頬張りながら、実に的確な分析をする。
レオ兄さんも、サラダで豚肉をくるんで食べながら語る。
「まあ、俺たち研究所も、国からの予算を減らされて、アイスクリームの販売で、なんとか研究費を確保しているくらいだからな。世知辛い世の中だ」
「国防に使う新しい武器とか、煙の少ないクリーンな列車や、冬でも暖かい暖房とか、開発したいものは山ほどあるんだけどねえ」
父さんが、少しだけ遠い目をする。ヴァレリア母さんも、静かに頷いた。
「電気や水道といった、生活の基盤となる事業も、まだ課題は山積みです」
「そうなんだよね~。そこで、フェリクス。停職も明けたことだし、ここはいっちょ、僕たちと協力して、いろいろやろうじゃないか!」
父さんの言葉に、僕の胸が、久しぶりに熱くなった。
その時、食後のアイスクリームを、幸せそうに頬張っていたノーラちゃんが、スプーンを口にしたまま、ぱっと顔を輝かせた。
「私も、ライル父さんを手伝いたい!」
「そうだね。ノーラちゃんが学校を卒業したら、ぜひ手伝ってもらおうかな」
僕がそう言うと、彼女は「うん! わかった!」と、満面の笑みで頷いた。その、あまりに純粋な笑顔に、食卓が、あはは、と温かい笑い声に包まれる。
「とりあえず、予算のことは、オルデンブルク宰相と、リアン皇帝に、僕がなんとかねじ込んでみよう。フェリクス、おまえは、この新しい事業を進めるための、新しい人材を探すんだ」
「人材、ですか? たとえば、ユーディルさんのような?」
僕が、ふと、思い浮かんだ名前を口にした、その瞬間。
部屋の隅の影が、ぬっと、歪んだ。音もなく、そこにユーディルさんが立っている。
相変わらず、格好いい登場の仕方だ。だけど、その片手には、食べかけのアイスのカップが握られていて、なんだか、ちっともしまらない。
「お呼びでしょうか、閣下。……闇の宗教は、ハーグを離れ、隣町のスースへ、その本拠地を移したようです。もしかしたら、あそこには、貴方様のお眼鏡にかなう、良い人材がいるかもしれません」
「確か、ノクシアさんも、今はスースにいるんだよね?」
「ノクシアさんがいるの? そうか、会いにいかなきゃ!」
その名を聞いた瞬間、僕の心は、新しい任務への期待で、大きく膨らんだ。スースの総督。なんだか、すごく楽しみになってきた。
そして翌日、僕は数人の護衛に付き添われて、スース行きの列車に乗るために、ハーグの駅へと向かった。
ホームでは、ノーラちゃんが、今生の別れみたいに、わんわんと泣いていた。その姿が、なんだか愛おしくて、でも、少しだけ面白くて、僕は、つい笑ってしまった。
「大丈夫だよ、ノーラちゃん。スースまでは、列車でたったの三十分だ」
僕がそう言うと、彼女はぴたりと泣き止んで、きょとんとした顔で僕を見上げた。その顔が、あまりに可愛らしくて、僕は、彼女の頭を優しく撫でた。
「だから、休みの日にでも、いつでも遊びにおいでよ! ハーグほど、都会じゃないけどさ!」
「うんっ!」
彼女は、涙の跡が残る顔で、最高の笑顔を見せてくれた。
帝国全土に張り巡らされた主要な鉄道網。そして今、この国では、街と村とを結ぶ、こうしたローカル線の工事も、着々と進んでいる。
これからどんどん暑くなるであろう、初夏の日差しを受けながら、列車は、僕の新しい任地、スースへと、ゆっくりと走り出した。
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