第187話 ワクワク・ドキドキの個人レッスン! 何も無いってことはないよね?
【ノーラ視点】
『アヴァロン帝国歴175年 3月6日 夜 闇バー二階の寝室』
案内された部屋は、少しだけ埃っぽくて、古い木の匂いがした。でも、部屋の真ん中には、大きくて、清潔そうなベッドが一つ、どしんと置かれている。その存在感が、なんだかすごく、オラの心臓をドキドキさせた。
「ノーラちゃんはベッドで寝て。僕は、そこのソファーで寝るから」
フェリクス兄ちゃんは、そう言うと、部屋の隅にあった、少し固そうな長椅子を指さした。
「えっ? あっ、はっ、はい。そうだよね……」
(オラったら、一体、何を期待していただべか……?)
顔が、かあっと熱くなる。フェリクス兄ちゃんは、オラのこと、ちゃんと女の子として、ううん、「レディ」として扱ってくれてるんだ。それなのに、オラは、なんてはしたないことを……。
結局、その夜は何事もなかった。
だけど、オラは、全然眠れなかった。ふかふかのベッドは、一人で寝るには広すぎて、なんだかすごく寂しかった。それに、カーテンの隙間から差し込む月明かりに照らされた、ソファーで静かに寝息を立てているフェリクス兄ちゃんの横顔を見ていたら、心臓の音がうるさくて、うるさくて、朝まで、とうとう一睡もできなかったんだ。
次の日の朝、ユーディルさんが迎えに来てくれて、オラたちは、闇バーの裏口から、こっそりと白亜の館に帰ることができた。
館の表の門の前には、まだたくさんの新聞記者みたいな人や、野次馬が集まって、何かを叫んでいた。
「う~ん、これは、しばらく表に出ないほうがいいだろうね」
ライル父さんが、やれやれと肩をすくめる。ヴァレリア母さんも、深いため息をついた。
「良かれと思って紙を普及させたのですが、まさか、こんな形で商売に使われるとは、思いませんでした」
「メディアって言うらしいよ? 新聞って、怖いよね~……」
フェリクス兄ちゃんが、心底うんざりした顔で呟く。でも、オラは、少しだけ、違うことを考えていた。
「でも、なんだか、お姫様になったみたいで、悪い気はしないだ」
オラの、あまりにのんきな一言に、その場にいたみんなが、ふっと笑みをこぼした。
その時、いつの間にか部屋に来ていた、ライル父さんの長男のレオ兄さんが、腕を組んで言った。
「お前ら、研究所でも、すっかり話題になっていたぞ! ああ、あとノーラちゃん。もうすぐ学校へ行くんだったら、簡単な読み書きや算術くらいは、予習しておくといいぞ?」
「予習、ですか?」
「これじゃあ、しばらく外へも出られないだろうし……。うん、僕が教えてあげるよ」
フェリクス兄ちゃんが、優しくそう言ってくれた。
ライル父さんは「はあ、これじゃあ、皇宮へ出勤するのも大変だなぁ」なんてぼやいていたけど、オラの心は、嬉しさで、ぽかぽかと温かくなっていた。
その日から、私とフェリクス兄ちゃんの、二人だけの個人レッスンが始まったんだ。
日当たりの良い、たくさんの本が並んだ書斎で、フェリクス兄ちゃんは、すごく丁寧に、文字の書き方や、数字の数え方を教えてくれた。
「ノーラちゃん、それじゃあ、3×5はいくつになるかな?」
「ええっと、ええっと……」
オラは、一生懸命、指を折って数える。でも、手の指が十本じゃ、全然足りないだ! どうしよう!
「はいはい、指で数えちゃだめだよ。こうやって、紙に書いてごらん」
フェリクス兄ちゃんは、そう言うと、オラの隣に座り、オラが持っていたペンを、彼自身の大きな手で、そっと包み込むように握った。
二人の指が、触れる。
(あっ……)
フェリクス兄ちゃんの手、すごく、温かい……。
心臓が、また、ドキドキと大きな音を立て始める。顔が熱くて、彼の顔を、まっすぐに見ることができなかった。
そんな、ワクワク、ドキドキの日々が過ぎていった。だけど、結局、何か特別なことがあるわけでもなく、ただ、穏やかに時間だけが流れていった。
一か月もすると、あれほど騒がしかった新聞記者たちも、すっかり飽きてしまったみたいで、館の前から、いなくなっていた。
「なになに? 『アイスクリームのストロベリー味、新発売!』だってさ。ノーラちゃん、今度こそ、ゆっくり食べに行こうか」
「あら、こっちには『賄賂でつかまった貴族がいる』って書いてある。今度は、取材陣のほうも、そっちへ行っているのかしら?」
フェリクス兄ちゃんと二人で新しい新聞を読みながら、そんな会話をするくらいには、私の言葉遣いも、かなりハーグの街に馴染んできていた。
その日の午後、私とフェリクス兄ちゃんは、約束のアイスクリーム屋さんへ、二人で歩いて向かった。
隣を歩く彼の、大きな手。私の手と、触れ合いそうで、触れない、ほんの少しだけの距離。それが、なんだかすごく、もどかしかった。近くて、すごく遠い気がした。
(私と、この人は、皇太子様と、ただの村娘……。本当は、触れちゃいけないんだ……。でも、いつか!)
私の心に、一つの、小さな、でも、すごく強い決意が生まれた。
いつか、絶対に、この人と、堂々と手をつないで、この街を歩くんだ。
もうすぐ、四月になる。私の、新しい学校生活が、始まろうとしていた。
東方から贈られたという、ピンク色の花をつける木のつぼみが、ほんのりと色づいていた。
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