第179話 側妃たちとの別れ そうだよね……政治的な理由……だもんね……
【ライル視点】
『アヴァロン帝国歴174年 10月15日 昼 曇り』
ヴィンターグリュン艦隊が、東方への大遠征から帰還して、二ヶ月が過ぎた。
ハーグの空は、どんよりとした雲に覆われている。白亜の館で、穏やかな日々が戻ってきたはずだった。子供たちはすくすくと育ち、館の中はいつも、賑やかな笑い声と、走り回る小さな足音で満ち溢れている。
この、当たり前の毎日。それが、僕の全てだった。
そんな、ある秋の日の午後。
館の、陽当たりの良い談話室で、僕は妻たちとお茶を楽しんでいた。その、少しだけ物憂げな空気を破ったのは、フリズカさんの、静かだが、決意に満ちた声だった。
「ライル様。わたくし、北の地へ帰ろうと、思います」
その一言に、談話室の温かい時間が、ぴしりと凍りついた。
「え……?」
「北の地は、ライル様のおかげで、平和を取り戻しました。ですが、本当の復興は、これからです。わたくしは、女王として、民の先頭に立ち、この手で、故郷を立て直さねばなりません。シグルドも、いずれ、その地を継ぐ者として、北の風土の中で育てるべきだと、そう、決心いたしました」
彼女の瞳には、迷いはなかった。北の民を導く、女王としての、強い光が宿っている。
その、気丈な言葉に続くように、ヒルデさんも、静かに、しかし、はっきりと口を開いた。
「わたくしも……父の、フリムニルの一族の土地へ、帰らせていただきたく存じます。ライル様と、ゲオルグ殿が蒔いてくださった希望の種を、今度はわたくしが、民と共に、大きな実りへと育てていきたいのです」
そして、ファーティマちゃんもまた、悲しそうな、しかし、凛とした表情で、僕を見つめた。
「わたくしも、サラムへ……。兄が起こした動乱で、王族の多くが失われました。今、この国を立て直せるのは、弟のカシムと、そして、王家の血を引く、わたくししかおりません。ジャスミンも、故郷の砂漠の太陽の下で、健やかに育ててあげたいのです」
三人の、あまりに突然の、しかし、あまりに正当な申し出。
僕は、何も言えなかった。王として、彼女たちの決断を、尊重しなければならない。わかってはいる。でも……。
「……そっか。みんな、帰っちゃうんだ……」
僕の口から漏れたのは、そんな、子供じみた、寂しさに満ちた呟きだけだった。
その時、僕の隣で、黙って紅茶を飲んでいたノクシアちゃんが、ぽつりと、静かに言った。
「……妾も、そろそろ、行かねばならぬ。再び、闇が、妾を呼んでおるでの」
「ノクシアちゃんまで!?」
「人の世に光が満ちれば、影もまた濃くなる。それが、この世界の理じゃ。ハーグは光が強くなりすぎた。妾は、その影を見届けねばならぬ」
次々と告げられる、別れの言葉。
この、温かくて、騒々しくて、そして、かけがえのない毎日が、終わってしまう。その事実が、ずしりと、重く、僕の胸にのしかかってきた。
「……さみしく、なるな……」
「ライル様……」
「……わかったよ。みんなの気持ち、よくわかった。政治的な理由なんだ。仕方ないよね」
僕は、無理やり笑顔を作ると、パン、と一度、手を叩いた。
「よし! だったら、最後に、みんなで盛大なパーティーをしよう! 最高の思い出を作って、笑顔で、みんなを送り出してあげるんだ!」
その夜、白亜の館では、これまでにないほど、盛大で、そして、少しだけ切ないパーティーが開かれた。
厨房では、アシュレイとヴァレリアが、腕によりをかけて、皆の好物を、山のように作ってくれた。庭では、僕と子供たちが、最後の思い出作りに、花火を楽しんだ。
夢のような時間が、あっという間に過ぎていく。
そして、別れの朝。
ハーグの駅のホームには、長い、長い特別列車が、彼女たちを故郷へと送り届けるために、静かに佇んでいた。いつもは元気なレオとフェリクスも、今日ばかりは、しょんぼりとした顔で、これから旅立つ兄弟たちの服の裾を、きゅっと掴んでいる。
「また、あそぼうね」
アシュレイの息子レオが、シグルドの手を握る。ヴァレリアの息子フェリクスも、ただ、じっと、これから遠くへ行ってしまう兄弟姉妹の顔を見つめていた。
フリズカさんと、息子のシグルド。ヒルデさんと、娘のソフィア。ファーティマさんと、娘のジャスミン。そして、ノクシアちゃんと、娘のアウロラ。
その傍らには、少しだけ緊張した面持ちのマルコさんと、彼に手を引かれた、アズトランの血を引く僕の娘、ソラヤの姿もあった。
「マルコさん。ソラヤのこと、本当に頼んだよ」
「お任せください、ライル様。このマルコ、命に代えましても、お嬢様を、無事にシトラリ陛下のおられるアカツキの都へとお送り届けます」
一人、また一人と、僕の家族が、それぞれの未来へ向かう列車へと乗り込んでいく。
「ライル、達者でな」
「ライル様、お元気で」
「きっと、また、会いに来ますわ」
「……ライル」
手を振り、笑顔で見送る。
やがて、長い汽笛が鳴り響き、列車が、ゆっくりと、動き出した。
「いつ帰ってきてもいいからな!」
僕は、遠ざかっていく列車が見えなくなるまで、ただ、いつまでも、ホームに立ち尽くしていた。
がらん、としてしまった白亜の館。
僕は、誰もいなくなった談話室で、一人、呆然と立ち尽くしていた。
そこに、そっと、アシュレイとヴァレリアが入ってくる。二人の顔にも、寂しさが滲んでいた。
「……行っちゃった、ね」
「……ええ」
「そうっスね……」
僕はたまらなくなって、二人をまとめて、強く、強く、抱きしめた。
そして子供のように、震える声で言ったんだ。
「お前たちだけは、どこにも行くなよ……!」
僕の言葉に二人は何も言わずに、ただ優しく僕の背中を撫でてくれるだけだった。
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